最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●子育て・ワン・ポイント(1)

2007-12-11 11:44:52 | Weblog
【子育て・ONE POINT】

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教育の自由化を家庭で考えるとき、
参考になるのではないかと思いますので、
いくつか、そのポイントをあげてみます。

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●自意識を育てる
 
小学三、四年生をさかいとして、自意識が急速に発達してくる。「自意識」というのは、わかりやすく言えば、自分で自分をコントロールしようとする意識である。この自意識をうまく利用すれば、それまで問題のあった子どもでも、それ以後、症状が収まってしまう。

 たとえばADHD児にしても、そのころをさかいにして、症状が急速に収まってくる。「そういうことをすれば、みんなに迷惑がかかる」「そういうことをすれば、仲間はずれにされる」という思い(自意識)が働いて、無意識の世界からわき起こる行動パターンを抑制しようとするためである。

 ほかにたとえば吃音(どもり)や、発語障害にしても、それ以前の子どもには、まだその自意識がじゅうぶん発達していないため、指導が、たいへんむずかしい。しかしこの時期をすぎると、自分の姿や問題点を客観的にとらえることができるようになるので、指導ができるようになる。

 そこで大切なことは、この時期までに、何か問題があるとしても、症状をこじらせないこと。ADHD児にしても、無節制な多動性があることが問題ではない。問題は、それまでの強引な指導や、威圧的な指導が、症状のみならず、子どもの心までゆがめてしまうということ。つまりそれまでの不適切な指導が、かえって自意識による改善を、はばんでしまうことがある。

 子どもの問題は、子ども自身の意識でどうにかなる問題と、そうでない問題がある。その意識でどうにかなる問題でも、ここに書いたように、それができるようになるのは、小学三、四年生をすぎてから。その時期までは、とにかくていねいに。とにかく根気よく。子どもの自意識をつぶさないように指導する。

●幸福な家庭環境で包む

 「子育ては本能ではなく、学習である」と。つまり、子育てというのは、本能的にできるのではなく、自分が親に育てられたという経験があってはじめて、自分も親になったとき、子育てができる。しかし実のところ、それだけでは足りない。「子育ては学習だけでは足りない。経験である」と。

 つまり子どもは、「家庭」というものを肌で経験しなければならない。家族がやすらぎ、いたわりあう家庭である。そういう経験があってはじめて、今度は、自分が親になったとき、自然な形で、その家庭を再現することができる。そうでなければ、そうでない。イギリスの格言に、『子どもを幸福にするのが、最高の教育』というのが、ある。「幸福」の中身も大切だが、しかしこの格言は正しい。

 まず、子どもの豊かな心は、絶対的な安心感のある家庭で、はぐくまれる。「絶対的」というのは、「不安や心配をいだかない」という意味。この安心感がゆらいだとき、子どもの心もゆらぐ。そういう意味で、絶対的な安心感のある家庭は、子育ての基盤ということになる。


●親の心は、子の心

 親子の密着度が高ければ高いほど、親の心は、子の心。以心伝心という言葉があるが、親子のばあいは、それ以上。子どもは親の話し方はもちろんのこと、しぐさ、ものの考え方、感じ方、価値観すべてを受けつぐ。以前、こんな相談があった。

 「自分の娘(年長児)がこわくてなりません」と、その母親は言った。「娘は、私は思っていることを、そのまま口にしてしまいます。私が義理の親のことを、『汚い』と思っていると、親に向かって、娘が『あんたは汚い』と言う。ふいの客に、『迷惑だ』と思っていると、その客に向かって、娘が『あんたは迷惑』と言うなど。どうしたらいいでしょうか」と。

 私は「そういう関係を利用して、あなたの子どもをすばらしい子どもにすることもできます」と言った。「あなたがすばらしい親になれば、いいのです」とも。

 こういう例は少ないにしても、親子には、そういう面がいつもついてまわる。あなたという人にしても、あなたの親の影響を大きく受けている。「私は私」と思っている人でも、そうだ。特別の経験がないかぎり、あなたも一生、あなたの親の呪縛(じゅばく)から逃れることはできない。

言いかえると、あなたの責任は、大きい。あなたは親の代から受け継いだもののうち、よいものと悪いものをまず、より分ける。そしてよいものだけを、子どもの代に伝えながら、一方で、自分自身も、新しく、よいものをつくりあげる。そしてそれを子どもに伝えていく。……というより、あえて伝える必要はない。

あなたの生きザマはそのまま、放っておいても、あなたの子どもの生きザマになる。親子というのは、そういうもの。だから子育てというのは、まさに自分との戦いと

いうことになる。


●家庭の緊張感を大切に

 ほどよい緊張感が、子どもを伸ばす。反対に、のんべんだらりとした、だらしない生活は、子どもを育てる環境としては、決して好ましいものではない。親は親で、自分のすべきことをキビキビとする。子どもは子どもで、自分のすべきことをキビキビとする。何をどの程度すればよいとか、させればよいという話ではない。そういう緊張感の中に、子どもを巻きこんでいく。子どもの目線で言うなら、「ぼくが、これをしなければ、家族のみんなが困るのだ」という雰囲気を大切にする。

 しかしこれは言うはやすし、なすはかたし。緊張感というのは、強すぎてもいけない。そのへんのかねあいも、家族によってちがう。どの程度あればよいという問題ではない。これは家族全体が、みんなで考える、大きなテーマということになる。


●温もりのある園を

 保育園や幼稚園を選ぶときは、「温もり」があるかないかで判断する。きれいにピカピカにみがかれた園は、それなりに快適に見えるが、幼児の居場所としては、好ましくない。

 まず子どもの目線で見てみる。温もりのある園は、どこかしこに、園児の生活がしみこんでいる。小さな落書きがあったり、いたずらがあったりする。あるいは先生が子どもを喜ばすために、何らかの工夫や、しかけがあったりする。が、そうでない園には、それがない。園児が汚すといけないからという理由で、壁にもワックスをかけているような園がある。そういう園には、子どもをやらないほうがよい。

●園は、先生を見て選ぶ

 保育園や幼稚園は、先生を見て選ぶ。よい園は、先生が生き生きとしている。そうでない園は、そうでない。休み時間などでも、園児が楽しそうに先生のまわりに集まって、ふざけあっているような園なら、よい。明るい声で、「○○先生!」「ハーイ!」と、かけ声が飛びかっているような園なら、よい。しかしどこかツンツンとしていて、先生と園児が、別々のことをしているというような園は、さける。

 園児集めのために、派手な行事ばかりを並べている園もある。しかし幼児にとって、重要なのは、やはり先生。とくに園長が運動服などを着て、いつも園児の中にいるような園を選ぶと、よい。


●男児は男児
 
男の子が男の子らしくなるのは、アンドロゲンというホルモンの作用による。そのため男の子は、より攻撃的になり、対抗的なスポーツを好むようになる。サルの観察では、オスの子ザルのほうが、「社会的攻撃性があり、威嚇(いかく)行動のまねをしたり、けんか遊びをしたり。取っ組みあいのレスリングのような遊びをしたりする回数が、多い」こと(新井康允氏)がわかっている。

 とくに母親が家庭で子どもをみるときは、この性差に注意する。母親という女性がそうでないかたといって、それを男である男の子に押しつけてはいけない。男の子の乱暴な行為を悪いことと決めてかかってはいけない。


●負けるが勝ち

 子どもをはさんだ、親どうしのトラブルは、負けるが勝ち。園や学校の先生から、あなたの子どものことで、何か苦情なり小言(こごと)が届いたら、負けるが勝ち。まず最初にこちらから、「すみませんでした」「至らぬ子どもで」と、頭をさげる。さげて謝る。たとえ相手に非があるように見えるときも、あるいは言い分があっても、負ける。

 理由はいろいろある。あなたの子どもは、あなたの子どもであっても、あなたの知らない面のほうが多い。子どもというのは、そういうもの。つぎに、相手が苦情を言ってくるというのは、それなりに深刻なケースと考えてよい。

さらにそういう姿勢が、結局は、子どもの世界を守る。ほかの世界でのことなら、ともかくも、あなたがカリカリしても、よいことは何もない。あなたの子どもにとって、すみやすい世界を、何よりも優先する。だから、『負けるが勝ち』。


●我流に注意
 子育てで一番こわいのは、我流。「私が正しい」「子どものことは、私が一番よく知っている」「他人の育児論は役にたたない」と。

 子育てというのは、自分で失敗してみてはじめて、それが失敗だったと気づく。それまでは気づかない。「私の子にかぎって……」「うちの子はだいじょうぶ……」「私はだいじょうぶ……」と思っているうちに、失敗の悪循環に入っていく。「まだ何とかなる……」「こんなハズはない……」と。親が何かをすればするほど、裏目、裏目に出る。

 子育てじょうずな親というのは、いつも新しい情報を吸収しようとする。見聞を広め、知識を求める。交際範囲も広く、多様性がある。だからいつも子どもをより広い視野でとらえようとする。

その広さがあればあるほど、親の許容範囲も広くなり、子どももその分、伸びやかになる。


●二番底、三番底に注意

 子どもに何か問題が起きると、親はその状態を最悪と思う。そしてそれ以上悪くはならないと考える。そこまで思いが届かない。で、その状態を何とか、抜け出ようとする。しかし子どもの世界には、二番底、三番底がある。子どもというのは、悪くなるときは、ちょうど坂をころげ落ちるように、二番底、三番底へと落ちていく。「前のほうがまだ症状が軽かった……」ということを繰りかえしながら、さらに悪い状態になる。

 子どもの不登校にせよ、心の病気にせよ、さらに非行にせよ、親がまだ知らない二番底、三番底がある。では、どうするか?

 そういうときは、「なおそう」と考えるのではなく、「今の状態をより悪くしないことだけ」を考えて、様子をみる。時間をかける。コツは、なおそうと思わないこと。この段階で無理をすればするほど、子どもはつぎの底をめがけて落ちていく。


●信仰に注意

 よく誤解されるが、宗教教団があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいるから、宗教教団がある。人はそれぞれ何かの教えや救いを求めて、宗教教団に身を寄せる。

 ……と書いても、できるなら、(あくまでもそういう言い方しかできないが)、入信するにも、夫婦ともに入信する。今、たとえばある日突然、妻だけが入信し、そのため家族そのものが崩壊状態になっている家庭が、あまりにも多い。……多すぎる。信仰というのは、その人の生きザマの根幹部分に関するだけに、一度対立すると、たがいに容赦しなくなる。妥協しなくなる。で、行きつく先は、激突、別離、離婚、家庭崩壊。

 とくに今、こうした不安な時代を背景に、カルト教団(情報の遮断性、信者の隔離、徹底した上意下達方式、布教や献金の強制、独善性、神秘性、功徳論とバチ論、信仰の権威づけ、集団行為などが特徴)が、勢力を伸ばしている。周囲の人たちが反対すると、「悪魔が反対し始めた。だから私の信仰が正しいことが証明された」などと、わけのわからないことを言いだしたりする。

 信仰するにも、できれば、夫婦でよく話しあってからにする。これはあなたの子どもを守るための、大原則。


●機嫌を取らない

 親が親である「威厳」(この言葉は好きではないが……)は、親は親として、毅然(きぜんとした態度で生きること。その毅然さが、結局は、親の威厳になる。(権威の押しつけは、よくないことは、言うまでもない。)

 そのためにも、子どもには、へつらわない。歓心を買わない。そして機嫌を取らない。もし今、あなたが子どもにへつらったり、歓心を買ったり、機嫌を取っているようなら、すでにあなたの親子関係は、かなり危険な状態にあるとみてよい。とくに依存心の強い親ほど、注意する。「子どもには嫌われたくない」と、あなたが考えているなら、あなたは今すぐ、そういうまちがった育児観は、捨てたほうがよい。

 あなたはあなた。子どもは子ども。嫌われても、気にしない。「あなたはあなたで勝手に生きなさい」という姿勢が、子どもを自立させる。そして皮肉なことに、そのほうが、結局は、あなたと子どものパイプを太くする。


●いつも我が身をみる

 子育てで迷ったら、我が身をみる。「自分が、同じ年齢のときはどうだったか」「自分が、今、子どもの立場なら、どうなのか」「私なら、できるか」と。

 身勝手な親は、こう言う。「先生、私は学歴がなくて苦労しました。だから息子には、同じような苦労をさせたくありません」と。あるいは「私は勉強が嫌いでしたが、子どもには好きになってほしいです」と。

 要するに、あなたができないこと。あなたがしたくないこと。さらにあなたができなかったことを、子どもに求めてはいけないということ。そのためにも、いつも我が身をみる。これは子育てをするときの、コツ。


●本物を与える
 子どもに与えたり、見せたり、聞かせたりするものは、できるだけ本物にする。「できるだけ」というのは、今、その本物そのものが、なかなか見つからないことによる。しかし「できるだけそうする」。

 たとえば食事。たとえば絵画。たとえば音楽。今、ほとんどの子どもたちは、母親の手料理よりも、ファーストフードの食事のほうが、おいしいと思っている。美術館に並ぶ絵よりも、テレビのアニメのイラストのほうが、美しいと思っている。音楽家がかなでる音楽よりも、音がズレたようなジャリ歌手の歌う歌のほうが、すばらしいと思っている。

こうした低俗、軽薄文化が、今、この日本では主流になりつつある。問題は、それでよいかということ。このままでよいかということ。あなたがそれではよくないと思っているなら、機会があれば、子どもには、できるだけ本物を与えたり、見せたり、聞かせたりする。


●親が生きがいをもつ
 
子どもを伸ばそうと考えたら、まず親自身が伸びて見せる。それにまさる子どもの伸ばし方はない。ただし押しつけは、禁物。「私はこれだけがんばっているから、お前もがんばれ」と。

 伸びてみせるかどうかは、あくまでも親の問題。キビキビとした緊張感を家庭の中に用意するのがコツ。そしてその緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。しかしそれでも、それは結果。それを見て、子どもが伸びるかどうかは、あくまでも子どもの問題。しかしこれだけは言える。

 退廃、退屈、マンネリ、単調、家庭崩壊、家庭不和、親の拒否的態度ほど、子どもに悪影響を与えるものはないということ。その悪影響を避けるために、親は生きがいをもつ。前に進む。

それは家の中を流れる風のようなもの。風が止まると、子どもの心は、とたんにうしろ向きになる。


●仮面に注意

 心の状態と、外から見る表情に、くい違いが出ることを、「遊離」という。怒っているはずなのに、ニンマリ笑う。あるいは悲しいはずなのに、無表情でいる、など。子どもに、この遊離が見られたら、子どもの心はかなり危険な状態にあるとみてよい。

 遊離ほどではないにしても、心を隠すことを、「仮面をかぶる」という。俗にいう、「いい子ぶる」ことをいう。このタイプの子どもは、外の世界で無理をする分だけ、心をゆがめやすい。ストレスをためやすい。

 一般的に「すなおな子ども」というのは、心の状態と、外から見る表情が一致している子どものことをいう。あるいはヒネクレ、イジケ、ツッパリなどの、「ゆがみ」のない子どもをいう。

 あなたの子どもが、うれしいときには、顔満面に笑みを浮かべて、うれしそうな表情をするなら、それだけでも、あなたの子どもは、まっすぐ伸びているということになる。



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