最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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1/2 スーパータスカーと呼ばれる人たち?

2012-03-06 10:43:10 | Weblog
【スーパータスカー(Super Tasker)】(マルチタスク人間)

●同時に複数の仕事を、問題なくこなせる人間

●スーパーマルチ人間

 一見まともだが、よくよく考えてみると、おかしい。
どう考えても、おかしい。
そんなニュースが、今日(2012年3月初旬)、あちこちのニュースサイトに載った。
称して「スーパータスカー(Super Tasker)。
つまり複数の仕事を同時にこなせる、「スーパーマルチ人間」と。
しかも「人間の40人に1人が、スーパーマルチ人間」?

●映画の世界

 映画の世界でも、超能力(スーパーパワー)がブームになっている。
スーパーマンからはじまり、スパイダーマン、スターウォーズなどなど。
ハリーポッターやドラキュラ、バンパイアも、その仲間に入る。
神や悪魔をテーマにしたものも、多い。
超能力者そのものを扱った映画も、多い。
が、それはあくまでも映画の世界の話。
現実には、ありえない。

 ありえないが、このところその境目、つまり現実と空想の境目が、ぼんやりしてきた。
そんなとき、「スーパーマルチ人間」なるものが、現れた。
何かしら、ふつうの人間とはちがう、特殊能力をもった人間ということらしい。
おおかたの人は、その記事を読んで、そう思った。
私も、そう思った。

●遺伝子?

 30年も前なら、「バカな」と言って吐き捨てたかもしれない。
が、最近は、そうでない。
「ひょっとしたら、ありえるかもしれない」と。
そういうふうに考える人が多くなった。
超能力を売り物にした、カルト教団となると、今では無数にある。
そんなとき、「スーパーマルチ人間」なるものが現れた。

 遺伝子がちがうのか?
そう考えた人もいるかもしれない。
が、そう考えるのは、待った!

●論理の穴

 結論を先に言えば、論理の欠落。
この論文には、論理の欠落、つまり「穴」がある。
それについては、これからゆっくりと書くことにする。
私はこの種の論文を読むたびに、アメリカ人の脳みそを疑う。
ユタ大学に籍を置く研究者の論文ということだから、一応の敬意を払う。
慎重に読む。

しかしどう考えても、おかしいものは、おかしい。
……ということで、この原稿を書き始めた。
まず、その原本を紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ITPROサイトより

 ITPROサイト(アメリカIBM)に、こんな興味深い記事が載っていた。

++++++++++++以下、ITPRO サイトより++++++++++++++

'Supertaskers' can safely use mobiles while driving
「スーパータスク人間」と呼ばれる人は、運転中でも、携帯電話を使うことができる。

A small minority of individuals show no loss of reaction time or mental skills when combining mobile phone use and motorway driving.
小数の人は、道路を運転中でも、携帯電話を、反応時間や精神的なスキルの損失なしで使うことがわかった。

By Martin James, 30 Mar 2010 at 12:01(2010年3月20日付け)

A University of Utah study into the effects of mobile phone use on people's driving skills has come to the expected conclusion that using a phone while driving can be highly dangerous.
ユタ大学の研究によれば、運転中に携帯電話を使用することは、きわめて危険であるという結論になった。

Or at least that's the case for most of us. The study also made the entirely unexpected discovery that for one in 40 of us, there were no signs of impairment whatsoever.
ほとんどの人にとってはそうかもしれないが、その一方で、40人に1人は、そういう影響を受けない人がいることがわかった。
これは予期しない結果でもあった。

University psychologists Jason Watson and David Strayer tested 200 subjects in two motorway driving simulation tests, one of which also involved having a hands-free mobile phone conversation that required them to memorise words and solve maths equations.
大学の心理学者ジェイソン•ワトソンとデビッド•ストレイヤーは、200人について、道路での運転シミュレーションテストを行った。
一方で、ハンズフリーの携帯電話で話してもらい、同時に、単語を覚えさせたり、数学の方程式を解かせたりした。

For the vast majority of the test subjects, the researchers recorded an average 20 per cent increase in braking response time, a 30 per cent increase in following distance, an 11 per cent drop in memory performance and a three per cent drop in the ability to do maths problems.
ほとんどの人のばあい、ブレーキ反応は、20%遅くなり、つぎの(加速反応も)30%遅くなった。
また記憶力は11%、数学の問題を解く力は、3%落ちた。

However, the five 'supertaskers' not only showed no appreciable difference in following distance, braking time and maths ability, but remarkably they actually displayed a three per cent improvement to memory performance.
しかし「スーパータスカー」と呼ばれる人たちは、ブレーキ時も加速時においても、これといった違いを見せなかった。
数学の力も落ちなかった。
そればかりか、記憶力においては、3%の向上が見られた。

“According to cognitive theory, these individuals ought not to exist,” Watson says in a statement. “Yet, clearly they do, so we use the 'supertasker' term as a convenient way to describe their exceptional multitasking ability.”
「認知理論」によれば、こうしたスーパータスカーと呼ばれる人は存在しないことになっている。
それについてワトソン氏は、「が、彼らはできる。こうしたマルチタスク能力をもっている人を、スーパータスカーと呼ぶことができる」と。

However, with the study likely to be taken as justification for self-proclaimed 'supertaskers' to continue to take risks by using their mobiles while driving, Watson had a word of caution.
が、こうなると自称「スーパータスカー」という人を、正当化することになるかもしれない。
つまり運転中に、携帯電話を使っても、危険はない、と。
ワトソン氏は、それについては、つぎのように、警告している。

“Given the number of individuals who routinely talk on the phone while driving, one would have hoped that there would be a greater percentage of supertaskers,” he commented.
その数字を明らかにすると、より多くのスーパータスカーが生まれることになると、彼はコメントしている。

The findings will be published later this year in the Psychonomic Bulletin and Review.
調査結果は、レビューで今年後半に公開されることになっている。

(以上、マーティン•ジェームズ、12:01 2010年3月30日記)

++++++++++++以上、ITPRO サイトより++++++++++++++

●スーパータスカー(マルチタスク人間)

 要約すれば、約40人に1人は、たとえば車の運転中でも、問題なく、同時に複数の仕事ができるということらしい。
(だからといって、そういう人間を認めることはできない。
運転中に携帯電話をかける行為を、正当化する根拠になってしまう、と。)

●マルチタスクvsシングルタスク

 今まで、私は「マルチ人間」というときは、複数の才能を同時にもっている人のことをいうと理解していた。
レオナルド・ダ・ビンチを例にあげるまでもない。
たとえば、画家でありながら、同時に音楽家であるとか、そういう人間をいう。

 その一方で、ひとつの分野にしか、才能を示さない人がいる。
(ふつうは、みな、そうだが……。)
そういう人を「シングルタスク人間」と呼んでよいかどうかということについては、わからない。

 どんな人も、加齢ともに、思考回路を完成し、脳の働きを自動化していく。
画家は画家として、その道を完成させようとする。
音楽家は音楽家として、その道を完成させようとする。
完成度が高まれば高まるほど、『二兎を追う者は……』となる。
……というか、時間の限界を感ずるようになる。

 残された時間をどう使うか……ということを考えていくと、どうしても的(まと)を、ひとつにしぼらざるを得なくなる。
「あれも、これも……」というわけにはいかない。

 シングルタスク、イコール、「悪い」ということでもない。
が、ここでいう、「スーパータスク人間(スーパータスカー)」と呼ばれる人は、私が考えていた「マルチタスク人間」とは、別の人であるようだ。
複数の分野ですぐれた才能を示す人ということではない。
つまり脳みその中で、複数の仕事をこなせる人という意味らしい。

●コンピューター

 コンピューターの世界では、マルチタスクは、今や常識。
ワープロを操作しながら、同時に、動画を動画サイトへUPすることができる。
あるいはファイルのコピーをすることもできる。

 初期(1980年代)のころのパソコンには、それができなかった。
ひとつの作業が終わってから、(つまりそれが終わるまで待ってから)、つぎの作業に移行した。

 ここでいう「スーパータスク人間」という考え方は、たぶんにコンピューターの概念に影響されたものと思われる。
コンピューターは複数の作業を同時にこなすことができる……だから人間にも、そういう人がいるのではないか、と。

 で、この実験が始まった……らしい。
が、この実験には、素人の私が考えても、おかしな点(=疑問点)はいくつかある。

●熟練者vs初心者

 たとえば「運転」といっても、熟練者と初心者がいる。
熟練者は、ほとんど何も考えず、運転できるだろう。
手や足が、状況に応じて、勝手に動く。

 が、初心者にとっては、そうではない。
状況に応じて、そのつど考えなければならない。
そうしたちがい、つまり熟練者と初心者を一緒くたにし、統計として調査結果を出したことに、そもそもの大きなミスがある。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

●慣れ

 たとえば私は今、こうしてものを考えながら、キーボードを叩いている。
慣れた人には、何でもない行為である。
考えたことが、そのまま文字となり、モニター上にそれが現れる。
さらに言えば、私などは、キーボード操作に、かなり慣れているから、こうしてキーボードをたたきながらも、午後からの仕事に段取りを、同時に考えることができる。

 が、初心者にとっては、そうではない。
どこにどのキーがあるか、それをさがすだけでも、たいへん。
考えるヒマがないというよりは、考えそのものをまとめることができない。」

 さらに言えば、同じ運動でも、道路を歩くのと、ルームウォーカーの上を歩くのとではちがう。
道路を歩くときは、あちこちに注意を払わなければならない。
一方、ルームウォーカーの上を歩くときは、ほとんど何も考えない、イコール、数学の問題を解きながらでも歩くことができる。
 
 自動車の運転も、それと同じに考えてもよい。
つまり「慣れ」。
心理学の世界では、「思考回路ができることによる自動化」という。

ほとんど何も考えないで運転できる人なら、運転をしながら、数学の問題を解くことができるはず。
反対に、そうでない人は、そうでない。
そうした「慣れ」も計算に入れ、スーパータスク人間かどうかを判断しなければならない。
少なくとも、自動車の運転というかぎられた範囲だけで、その人がスーパータスク人間かどうかを、判断していけない。

 では、どんなとき、スーパータスク型人間と判断してよいか。

●スーパータスク型人間

 話は少し脱線するが、私が「スーパータスク」なるものを自覚するのは、通訳のときである。
日本語と英語を同時に考える。
しかしこれはけっして、楽な作業ではない。
脳の中でも、日本語を司る分野と、英語を司る分野はちがう。
日本語は、左脳、英語は右脳と言われている。
つまり通訳のときは、その両方を、同時に働かさねばならない。

そこで英語を話しているとき、いきなり日本語を聞いたり、あるいはその逆のことがあると、脳がそのあと、ふつうでない疲労感を覚えることがある。
最近では、英文を日本語に翻訳していると、若いときには感じなかった疲労感を覚える。
だから洋画でも、字幕を見て楽しむときは、字幕だけを見て楽しむ。
英語を聞いて楽しむときは、逆に、字幕を見ないで、楽しむ。
それをしないと、ここにも書いたように、そのあと、ガクンと疲れる。

 で、右脳と左脳は、太い電線のようなものでつながっている。
「脳梁」と呼ばれる部分である。
この脳梁を通し、右脳と左脳は、たがいに情報を交換することができる。
が、加齢とともに、この脳梁の働きが悪く(?)なる。
さらにたいへんなのが、同時通訳。
訳文を考えていたのでは、同時通訳などできない。
ほぼ無我の状態で、勘で通訳する。

 このばあい、その脳梁の働きのよい人を、「スーパータスク人間」という(?)。
少なくとも、日本語と英語を同時に処理できる。
あるいは左脳が司る論理や分析をしながら、右脳が司る抽象的概念や図形を同時に処理できる。

運動分野にしても、そうだ。
自動車の運転という運動をしながら、別の脳を独立させることができる。
論文の内容は、どうやらそういうことらしい。

●Cマーク

 少し頭が混乱してきた。
この原稿を読んでいるみなさんも、そうだろう。

 で、結論。

 天下のユタ大学の研究者の研究にケチをつけて悪いが、私なら、この論文に、「C」マークをつける。
200人の人について調べたということだが、この実験だけでは、必要十分条件の「十分」の部分を満たしていない。

 この実験結果が正しいということを証明するためには、つぎの2つのことを証明しなければならない。

(1)この実験で、スーパータスク人間と証明された人は、ほかのさまざまな分野でも、それができることを証明しなければならない。
たとえば読書をしながら、電話で客との応対ができる。
料理をしながら、数学の問題が解ける、とかなど。

(2)被験者200人の選び方にも問題がある。
どういう基準で選んだのか。

 先にも書いたように、熟練者と初心者の区別、(こうした研究調査では、きわめて基礎的な部分だが……)、その区別をしていない。
また分野を、「運転」にかぎっているのも、問題である。

 近くのラーメン屋の親父さんは、客と雑談を交わしながらでも、うまいラーメンと作ることができる。
考えようによっては、ラーメン屋の親父は、「スーパータスク人間」ということになる。
が、それも「慣れ」、つまり心理学でいうところの「自動化」と考えれば、何でもない。
あるひとつの行動の自動化ができれば、その行動は、それほど意識しなくても、できるようになる。
 
 そこで2番目に、この実験で、「スーパータスク人間ではない」と判断された、残り160人について、ほかの分野でも、シングルタスク人間である(イコール、スーパータスク人間ではない)という証明をしなければならない。

 以上、2つの条件を満たして、はじめて、必要十分条件ということになる。
たまたま運転中の作業だけを調べ、マルチタスク人間がいると結論づけるのは、きわめて非論理。
非論理というより、危険。
こんなインチキな論文が、世界中のネットに流れること自体、バカげている。

●プリウス事件

 ……ということで、どう考えても、この論文は、おかしい。

 私は、TOYOTAのプリウス事件(急加速問題)以来、私はアメリカ人の研究者の脳みそを疑ってみるようになった。
そこらの高校生でもしないような、ミスを、平気でする。
インチキまではしないが、(見落とし)が多い。

 運転中に、単語を暗記できたり、数学の問題ができるからといって、「スーパータスク人間」というのは、論理的に無理(アナ)がある。

●認知理論

 ここで「認知理論」という言葉が出てきた。
心理学では、よく使われる言葉である。
それについては、たくさんの原稿を書いてきた。
しかし「認知理論によれば……」(論文)というところが、よく理解できない。
「そんな理論、あったかなア~?」と。

私が書いた原稿を探してみる。
あくまでも参考に……。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●結婚はしてみたけれど……(認知的不協和)

++++++++++++++++

結婚はしてみたけれど、こんなハズではなかった……という
夫婦は多い。
心理学でいえば、「認知的不協和」ということになる。

++++++++++++++++

●認知的不協和

 「個人のもつ認知に矛盾やアンバランスが生じたことを、
アメリカの心理学者のフェスティンガーは、認知的不協和と
名づけた」(大村政男著「心理学」ナツメ社、P172)とある。

日常的によく経験する。

 先日もあるところへ旅行した。
その旅行先で、昼食にとある食堂へ入った。
しかし立派だったのは、店構えだけ。
値段ばかり高く、まずかった。

 で、その食堂を出て、しばらく歩くと、そこに
行列のできた食堂が何軒かあった。
レジの前には、順番待ちの客が、ズラリと並んでいた。
それを見て、「こういうところで食べればよかった」と、
少なからず、後悔した。
言うなれば、これも認知的不協和?

●結婚相手

 しかしこれが結婚相手となると、ことは深刻。
子どもができれば、なおさらである。
そういうとき、人間は、認知的不協和から
「脱出」するため、4つのパターンから、
その一つを選ぶ(参考:同書)。

(1)この人しか私にはいないと、自分を納得させ、ほかの人と比較しない。
(2)離婚はしたくないので、がまんする。
(3)相手を育てるのは私と考え、ともに前向きに努力する。
(4)相手のよいところをさがし、それだけを評価するようにする。

 この4つのパターンは、「心理学」を参考に、私が適当に考えたものである。
が、結婚生活というのは、実際には、もう少し複雑。
そのつど、この4つのパターンが、交互に、あるいは同時に、夫婦を襲う。
ときに自分を納得させ、ときにがまんし、また別のときには、あきらめる……。
この連続。

 が、まずいのは、何と言ってもストレス。
認知的不協和も、ある一定の限度内なら、生活のスパイスとなる。
が、その限度を超えると、とたんにストレスとなって、その人を襲う。
おおまかにいえば、つぎのサイクルを踏む。

(平穏期)→(緊張期)→(爆発)→(沈静期)→(平穏期)……と。

 しかしこれもどちらかというと、仲がよい夫婦のばあい。
ずっと(平穏期)のままという夫婦も、(緊張期)のままという夫婦もいるにはいるが、
そういう夫婦のほうが、あ・ぶ・な・い。
ただ周期の長さには、個人差がある。
2~3か月ごとに(爆発)を迎え、大喧嘩する夫婦もいる。
1~2年ごとに(爆発)を迎えるという夫婦もいる。
あるいは小刻みなサイクルを繰り返しながら、大きなサイクルを繰り返すという
夫婦もいる。
若い夫婦ほど、サイクルが短いということになるが、それにも個人差がある。

●夫婦喧嘩

 要するに夫婦喧嘩(=爆発)も、しかたの問題ということ。
だから昔から、こう言う。
『夫婦喧嘩は、犬も食わぬ』と。
つまり何でも食べる犬でも、夫婦喧嘩は食べない、と。
「仲のよい夫婦ほど夫婦喧嘩をし、一時的ですぐ和合するから、仲裁に入るのは
愚かである」(広辞苑)という意味。

 大切なことは、こう考えること。
どんな夫婦にも、認知的不協和はつきもの。
あとは、どううまくつきあっていくかということ。
それが夫婦ということになる。

(付記)

 最近、気がついたが、結果として離婚していく夫婦には、ある共通のパターンがある。
同時にそれぞれが、離婚に向かうというケースは、少ない。
そのとき、先に離婚を覚悟するほうを、離婚側とする。
どちらかというと不本意ながら、離婚をさせられるほうを、被離婚側とする。

 ふつうは被離婚側が気がつかないうちに、離婚側が、離婚を覚悟を決めてしまう。
そしてある程度……というか、その覚悟がしっかりできた段階で、離婚側が、
被離婚側に、離婚話を持ち出す。
「離婚する」「離婚させてください」と。

 定年離婚と呼ばれる離婚には、こうしたケースが多い。

で、そのときのこと。
離婚側のほうには、微妙な変化が現れる。
相手が夫であれ、妻であれ、(妻であることのほうが多いが……)、

(1)電話などでの応対が、ぞんざいになる。
(2)きめのこまかい交際をしなくなる。(何かものを送っても、礼のあいさつがない。)
(3)小さな悪口を、それとなく会話にまぜる。
(4)軽蔑したような表現が多くなる。
(5)会話の内容が事務的になり、しっくりとかみ合わなくなる。

 で、しばらくそういう状態がつづき、部外者が「?」と思っていると、そのまま
離婚……ということになる。
たとえば数年前、私はある知人に電話をした。
その知人は、その町の中心部で事務所を開いたのだが、それがすぐ行き詰ってしまった。
そのことを知っていたので、その知人の妻に電話をしたとき、「ご主人も、たいへんですね」
と私は言った。
それに対して知人の妻は、「……あの人は、何をしても、ドジばっかり……」と。
小さい声だったが、どこか吐き捨てるような言い方だった。

で、あとで知ったのだが、そのすぐあと、知人夫婦は離婚していた。

●結婚論

 一般論からいうと、(あるいは私の経験論ということになるが)、年齢が若いときに、
ラブラブの状態で結婚した人ほど、皮肉なことに、認知的不協和は起こりにくい。
一方、晩婚型で、計算高く結婚した人ほど、認知的不協和は起こりやすい。
年齢が高い分だけ、それだけ相手をよく見ているかというと、そうでもない。
あるいは、いくら知ったつもりでいても、人間を知りつくすのは、それほどまでに
むずかしいということ。

このことは、結婚歴40年近い、私にとっても、そうである。
いまだにワイフについて、わからないところがある。
(ワイフにしても、そうだろう。)

 だからやはり結婚というのは、電撃に打たれるような衝撃を感じて、何も考えず、
ラブラブのまま、結婚するのがよいということになる。
盲目的な結婚が悪いというのではない。
どうせ、みな、盲目なのだから……。

♪Wise men say, only fools rash in. But I can’t help falling love with you…

(愚かモノだけが、結婚に突進すると賢者は言う。しかし私はあなたに恋をするのを
止めることができない……。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 スーパータスク型人間 認知理論 認知的不協和)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考までに、2002年に書いた原稿より)

●右脳教育

++++++++++++++++++++++

右脳教育は、果たして安全なのでしょうか?
まだその安全性も、確認されていない段階で、
幼児の頭脳に応用する危険性。みなさんは、
それを、お考えになったことがありますか。

たった一晩で、あの百人一首を暗記してしま
った子ども(小学生)がいました。

しかしそんな能力を、本当にすばらしい能力
と安易に評価してよいのでしょうか。

ゲームづけになった子どもたち。幼いころか
らテレビづけになった子どもたち。今さら、
イメージ教育は必要ないと説く学者もいます。

それに右脳と左脳は、別々に機能しているわけ
ではありません。その間は、「交連繊維」と呼ば
れる神経線維で結ばれ、一番大きな回路である、
「脳梁(のうりょう)」は、2億本以上の繊維
でできています。

右脳と左脳は、これらの繊維をとおして、交互
に連絡を保ちながら、機能しています。

脳のしくみは、そんな単純なものではないよう
です。

そうそう、言い忘れましたが、一晩で百人一首
を暗記したのは、あの「少年A」です。

イメージの世界ばかりが極端にふくらんでしま
うと、どうなるか。そのこわさを、少年Aは、
私たちに教えてくれました。

++++++++++++++++++++++++

 アカデミックな学者の多くは、「右脳教育」なるものに、疑問を抱いています。渋谷昌三氏もそ
の1人で、著書「心理学」(西東社)の中で、こう書いています。

 「なにやら、右脳のほうが、多彩な機能をもっていて、右脳が発達している人のほうが、すぐ
れているといわんばかりです。

 一時巻き起こった、(現在でも信者は多いようですが)、「右脳ブーム」は、こういった理論から
生まれたのではないでしょうか。

 これらの説の中には、まったくウソとはいえないものもありますが、大半は科学的な根拠のあ
るものとは言えません」(同書、P33)。

++++++++++++++++++++++++++

●右脳教育への警鐘

 論理的な思考力をなくす子どもたち。ものの考え方が直感的で飛躍的。今、静かにものを考えられる子どもが、少なくなってきています。

 そうした危惧感を覚えながら書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞発表済み)。

+++++++++++++++++++++

【親が右脳教育を信奉するとき】

●左脳と右脳

 左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳をきたえると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田眞氏)。

(1)インスピレーション、ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、
(2)受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を心に描くことができる(直観像化)、
(3)見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる(フォトコピー化)、
(4)計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。こうした事例は、現場でもしばしば経験する。

●こだわりは能力ではない

たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろばんを使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。読むというよりは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を理解してしまう。

しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、「神童」というのは認めない。もう少しわかりやすい例で言えば、一〇〇種類近い自動車の、その一部を見ただけでメーカーや車種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こだわり」とみる。

たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうでないこだわりを見せることが知られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、音楽の最初の一小節を聞いただけで、その音楽の題名を言い当てたりするなど。つまりこうしたこだわりが強ければ強いほど、むしろ心のどこかに、別の問題が潜んでいるとみる。

●論理や分析をつかさどるのは左脳

 そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を出し、そうした成果の陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一方で、変人というイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並はずれた人物にしたと考えられなくもない。

 言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべき人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(論理)、他人の心を静かに思いやること(分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということになる。
その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

●右脳教育は慎重に

 右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。しかしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でなければならない。脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析を学ぶ。右脳ばかりを刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺害事件』をあげる研究家がいる(福岡T氏ほか)。

●少年Aは直観像素質者

 あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)画数の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、五〇〇〇円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったこともあります」(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。

 少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の区別がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。

その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年Aは)直観像素質者(一瞬見た映像をまるで目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことができる能力のある人)であって、(それがこの非行の)一因子を構成している」(同書)という結論をくだしている。

 要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。子どもに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●才能とこだわり

 自閉症の子どもが、ふつうでない「こだわり」を見せることは、よく知られている。たとえば列車の時刻表を暗記したり、全国の駅名をソラで言うなど。車のほんの一部を見ただけで、車種からメーカーまで言い当てた子どももいた。クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言い当てた子どももいた。

 こうした「こだわり」は、才能なのか。それとも才能ではないのか。一般論としては、教育の世界では、たとえそれが並はずれた「力」であっても、こうした特異な「力」は、才能とは認めない。たとえば瞬時に、難解な計算ができる。あるいは、20ケタの数字を暗記できるなど。あるいは一回、サーッと曲を聞いただけで、それをそっくりそのまま、ピアノで演奏できた子どももいた。
まさに神業(わざ)的な「力」ということになるが、やはり「才能」とは認めない。「こだわり」とみる。

 たとえばよく知られた例としては、少し前、話題になった子どもに、「少年A」がいる。あの「淳君殺害事件」を起こした少年である。
彼は精神鑑定の結果、「直観像素質者※」と鑑定されている。
直観像素質者というのは、瞬間見ただけで、見たものをそのまま脳裏に焼きつけてしまうことができる子どもをいう。

少年Aも、一晩で百人一首を暗記できたと、少年Aの母親は、本の中で書いている(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)。
そういう特異な「力」が、あの悲惨な事件を引き起こす遠因になったとされる。

 と、なると、改めて才能とは何かということになる。ひとつの条件として、子ども自身が、その「力」を、意識しているかどうかということがある。たとえば練習に練習を重ねて、サッカーの技術をみがくというのは才能だが、列車の時刻表を見ただけで、それを暗記できてしまうというのは、才能ではない。

 つぎに、才能というのは、人格のほかの部分とバランスがとれていなければならない。
まさにそれだけしかできないというのであれば、それは才能ではない。たとえば豊かな知性、感性、理性、経験が背景にあって、その上ですばらしい曲を作曲できるのは、才能だが、まだそうした背景のない子どもが、一回聞いただけで、その曲が演奏できるというのは、才能ではない。
 
 脳というのは、ともすれば欠陥だらけの症状を示すが、同じように、ともすれば、並はずれた、「とんでもない力」を示すこともある。私も、こうした「とんでもない力」を、しばしば経験している。
印象に残っている子どもに、S君(中学生)がいた。

ここに書いた、「クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言い当てた子ども」というのが、その子どもだが、一方で、金銭感覚がまったくなかった。
ある程度の計算はできたが、「得をした」「損をした」「増えた」「減った」ということが、まったく理解できなかった。

1000円と2000円のどちらが多いかと聞いても、それがわからなかった。
1000円程度のものを、200円くらいのものと交換しても、損をしたという意識そのものがなかった。
母親は、S君の特殊な能力(?)ばかりをほめ、「うちの子は、もっとできるはず」とがんばったが、しかしそれはS君の「力」ではなかった。

 教育の世界で「才能」というときは、当然のことながら、教育とかみあわなければならない。
「かみあう」というのは、それ自体が、教育できるものでなければならないということ。
「教育することによって、伸ばすことができること」を、才能という。
が、それだけでは足りない。その方法が、ほかの子どもにも、同じように応用できなければならない。
またそれができるから、教育という。
つまりその子どもしかできないような、特異な「力」は、才能ではない。

 こう書くと、こだわりをもちつつ、懸命にがんばっている子どもを否定しているようにとらえられるかもしれないが、それは誤解である。
多かれ少なかれ、私たちは、ものごとにこだわることで、さらに自分の才能を伸ばすことができる。

現に今、私は電子マガジンを、ほとんど2日おきに出版している。毎日そのために、数時間。
土日には、4、5時間を費やしている。その原動力となっているのは、実は、ここでいう「こだわり」かもしれない。

時刻表を覚えたり、音楽の一小節を聞いただけで曲名を当てるというのは、あまり役にたたない「こだわり」ということになる。
が、中には、そうした「こだわり」が花を咲かせ、みごとな才能となって、世界的に評価されるようになった人もいる。
あるいはひょっとしたら、私たちが今、名前を知っている多くの作曲家も、幼少年時代、そういう「こだわり」をもった子どもだったかもしれない。
そういう意味では、「こだわり」を、頭から否定することもできない。
(02―11-27)※

(はやし浩司 右脳教育 右脳教育への疑問 こだわり 少年A イメージが乱舞する子ども 子供 才能とこだわり 思考のバランス)

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【アメリカ人の脳みそ】(TOYOTAのプリウス急加速問題)

アメリカ人の脳みそを疑うようになったのは、
(それ以前からも、疑っていたが……)、
あのプリウスの急発進問題が起きてから。
大学とは名ばかり。
もちろん優秀な教授や学生が集まる大学も多いが、
そうでない大学も、少なくない。

南イリノイ大学もそのひとつ。
その大学に、デービッド・ギルバート教授という教授がいる。
彼は、プリウスの急加速を、実験で証明できたと主張した。
が、その方法が、稚拙。
幼稚。
バカげている。

 『ギルバート教授は、「トヨタ・アバロン」のアクセル回路に、5ボルトを加えてショートさせた状態で走行テストを行ったところ、車載コンピューターがエラーコードを発することなく、急加速現象がみられた』とした。
それに対して、トヨタは書簡で、ギルバート教授が指摘した状況を再現するには、2本のワイヤーの絶縁状態を破壊する必要があった、としている。

 つまりギルバート教授は、わざと電線をショートさせ、急加速現象を起こしてみせた。
そしてそれでもって、「トヨタのプリウスは、欠陥車」と結論づけた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

以下、当時、私がBLOGに書いた原稿。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●アメリカ人の論理力(TOYOTAのプリウス問題)

●アメリカ人の友人たちへ(To my friends in USA as to TOYOTA recall problem)
You have almost lost the last friend in Asia!

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今度のTOYOTA問題を通して、君たちは、
アジアにおける最後の友人を失いつつある。
それを私たちは、とても残念なことに思う。

You have almost lost the last friend that had remained to be so in Asia through the TOYOTA problems, about which we feel very sorry.

より多くの日本人が、反米的になりつつある。
新米的であった私でさえ、アメリカに、大きく失望した。
そして今では、こう言うようになってしまった。
「アメリカなど、クソ食らえ!」と。

More and more Japanese are becoming anti-American and even I, whom I supposed myself to be a pro-American, do not hesitate to say, “Down with USA”.

再現性のない、インチキ実験?
報道映像の捏造?
さらには保険金目当ての、にせ事故?、などなど。
日本では、急加速は、一例も報告されていない。
それもそのはず。
この日本で、両足を、ブレーキとアクセルの両方にのせて運転する人はいない。
「事故の95%は、運転手によるもの。
車によるものは2%にすぎない」(アメリカ国家ハイウェイ安全局(NHTSA)会長)。

リコール後も、600万台のプリウスについて、60件の苦情があったとか。
(600万台につき、60件だぞ!
0・001%!
GM車やフォード車については、どうなのか?)

それについて、「NHTSAは、さらなる改善策をTOYOTAに命じた」とか。
アメリカよ、少しは、冷静になれ。
これを「日本叩き」と言わずして、何という?

A very doubtful experiment, which was proved to be a fake,
A fabricated report on TV,
False accidents reported in the Congress...,
and more over it is strange that none of these sorts of accidents are reported in Japan.
No stupid men put both feet on each a brake pedal and accelerator pedal at the same time in Japan.
Be calm!
NHTSA has ordered Toyota to provide a different solution, since 60 complains are reported among 6 million TOYOTA cars.
Isn't this "Japan Bashing"?

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