最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●失敗危険度O

2009-02-08 19:19:42 | Weblog
費用もかえって安いのじゃないかしら?
七五三の祝いを式場で?(失敗危険度★★★)

●費用は一人二万円
 テレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でも今では、子どもの七五三の祝いを、ホテルかどこかの式場でする親がいるという。見ると、結婚式の花嫁衣裳のような豪華な着物を着た女の子(六歳ぐらい)が、中央にすわり、これまた結婚式場のように、列席者がその前に並んでいた。費用は一人二万円くらいだそうだ。レポーターが、やや皮肉をこめた言い方で、「(費用が)たいへんでしょう」と声をかけると、その母親はこう言った。「家でするより楽で、費用もかえって安いのじゃないかしら」と。

●ため息をついた私と女房
 私と女房は、それを見て、思わずため息をついた。私たちは、結婚式すらしてない。と言うより、できなかった。貯金が一〇万円できたとき、(大卒の初任給がやっと七万円に届くころだったが)、私が今の女房に、「結婚式をしたいか、それとも香港へ行きたいか」と聞くと、女房は、「香港へ行きたい」と。それで私の仕事をかねて、私は女房を香港へ連れていった。それでおしまい。実家からの援助で結婚式をする人も多いが、私のばあい、それも望めなかった。反対に私は毎月の収入の約半分を、実家へ仕送りしていた。

 そののち、何度か、ちょうど私が三〇歳になるとき、つぎに四〇歳になるとき、「披露宴だけでも……」という話はあったが、そのつど私の父が死んだり、女房の父が死んだりして、それも流れてしまった。さすが五〇歳になると、もう披露宴の話は消えた。

●「何か、おかしいわ」
 その七五三の祝いを見ながら、女房がこう言った。「何か、おかしいわ」と。つづけて私も言った。「おかしい」と。すると女房がまたこう言った。「私なら、あんな祝い、招待されても行かないわ」と。私もそれにうなずいた。いや、それは結婚式ができなかった私たちのひがみのようなものだったかもしれない。しかしおかしいものは、おかしい。

 子どもを愛するということ。子どもを大切の思うということ。そのことと、こうした祝いを盛大にするということは、別のことである。こうした祝いをしたからといって、子どもを愛したことにも、大切にしたことにはならない。しないからといって、子どもを粗末にしたことにもならない。むしろこうした祝いは、子どもの心をスポイルする可能性すらある。「自分は大切な人間だ」と思うのは自尊心だが、「他人は自分より劣っている」と思うのは、慢心である。その慢心がつのれば、子どもは自分の姿を見失う。こうした祝いは、子どもに慢心を抱かせる危険性がある。

 さらに……。子どもが慢心をもったならもったで、その慢心を維持できればよいが、そうでなければ、結局はその子ども自身が、……? この先は、私の伯母のことを書く。

●中途半端な人生
 私の友人の母親は、滋賀の山村で生まれ育った女性だが、気位の高い人だった。自転車屋の夫と結婚したものの、生涯ただの一度もドライバーさえ握ったことがない。店の窓ガラスさえ拭いたことがないという。そういう女性がどうこうというのではない。その人はその人だ。が、問題はなぜその女性がそうであったかということ。その理由の一つが、その女性が育った家庭環境ではないか。その女性は数一〇〇年つづいた庄屋の長女だった。農家の出身だが、子どものころ畑仕事はまったくしなかったという。そういう流れの中で、その女性はそういう女性になった。

●虚栄の世界で
 たとえばその女性は、医師の妻やその町のお金持ちの妻としか交際しなかった。娘と息子がいたが、医師の娘が日本舞踊を習い始めたりすると、すぐ自分の娘にも日本舞踊を習わせた。金持ちの娘が琴を学び始めたりすると、すぐ自分の娘にも琴を習わせた。あとは一事が万事。

が、結局はそういう見栄の中で、一番苦しんだのはその女性自身ではなかったのか。たしかにその女性は、親にかわいがられて育ったのだろうが、それが長い目で見てよかったのかどうかということになると、それは疑わしい。結局友人の母親は、自転車屋のおかみさんにもなれず、さりとて上流階級の奥様にもなれず、何とも中途半端なまま、その生涯を終えた。

●子どもはスポイルされるだけ?
 話を戻すが、子どものときから「蝶よ、花よ」と育てられれば、子ども自身がスポイルされる。ダメになる。それだけの財力と実力がいつまでもともなえば、それでよいが、そういうことは期待するほうがおかしい。友人の母親のような末路をたどらないとは、だれにも言えない。

 で、その女性にはつづきがある。その女性は死ぬまで、家のしきたりにこだわった。五月の節句になると、軒下に花飾りをつけた。そして近所に、甘酒を配ったりした。家計は火の車だったが、それでもそういうしきたりはやめなかった。友人から、「ムダな出費がかかってたいへん」という苦情が届いたこともある。

●子どもというのは皮肉なもの
 子どもというのは不思議なものだ。お金や手間をかければかけるほど、ダメになる。ドラ息子化する。親は「親に感謝しているはず」と考えるかもしれないが、実際には逆。

 一方、子どもは使えば使うほど、すばらしい子どもになる。苦労がわかる子どもになるから、やさしくもなる。学習面でも伸びる。もともと勉強には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗りこえる忍耐力も、そこから生まれる。「子どもを育てる」という面では、そのほうが望ましいことは言うまでもない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん?
子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ(失敗危険度★★★★)

●年長から小学二、三年にできる金銭感覚
 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●一〇〇倍論
 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこの時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生になれば、一〇万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる
子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あるいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあなたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲームソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというのだ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがとう」と。

●この話はどこかおかしい
 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労した人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け
 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だが、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太くする。

●モノに固執する国民性
日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんなプレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

一方的にものを言わないでほしい!
視野のせまい親たち(失敗危険度★★)

●摩擦はつきもの
こういう仕事、つまり評論活動をしていると、いつもどこかで摩擦を生ずる。それは評論の宿命のようなものだ。たとえば以前、「離婚家庭で育った子どもは、離婚率が高い」ということを、新聞のコラムに書いたことがある。あくまでもそれはコラムの一部であり、そのコラム自体が離婚問題を考えたものではない。が、その直後から、一〇人近い人からはげしい抗議が届いた。私は何も離婚を批判したのでも、また離婚が悪いと書いたのでもない。ただの統計上の事実を書いた。それに離婚が離婚として問題になるのは、離婚にまつわる家庭騒動であって、離婚そのものではない。この騒動が子どもの心に影響を与える。

が、そういう人たちにはそれがわからない。「離婚家庭でもがんばっている子どもがいる」「離婚者に対する偏見だ」「離婚家庭で育った子どもは幸福になれないということか」など。こうしたコラムを不愉快に思う気持ちはわからないでもないが、どこかピントがズレている。ほかにも似たような事件があった。

●「一方的にものを言わないでほしい」
同じく本の中で、「公務員はヒマをもてあましている」というようなことを書いた。これはお役所の外では、常識と言ってもよい。その常識的な意見を書いた。が、それについても、「私の夫は毎朝六時に起きて……」と、長々と、数ページにもわかって、その夫の生活をことこまかに書いてきた人がいた。そして最後に、「私の夫のようにがんばっている公務員も多いから、一方的にものを言わないでほしい」と。さらにこんなことも。

●いじめられる側にも問題
 二〇年ほど前から、いじめが大きく話題になり始めた。その前は校則が話題になったが、ともかくもそのいじめが話題になった。私も地元のNHKテレビに二度ほどかりだされて意見を述べることになったが、そのときのこと。そのいじめを調べていくうちに、当時、いくつかの「おやっ」と思うような事実に出くわした。もちろんいじめは悪い。許されないことだが、しかしいじめられる側にも、まったく問題がないというわけではない。もっともその問題というのは、子ども自身の問題というよりは、育て方の問題といってもよい。

いじめられっ子のひとつの特徴は、社会性のなさ。乳幼児のときから親子だけのマンツーマンだけの環境で育てられていて、問題を解決するための技法を身につけていないということがある。いじめられても、いじめられっぱなし。やり返すことができない。たとえばブランコを横取りされても、それに抗議することができない、など。そこで私は「家庭環境にも問題があるのでは」と言った。が、これがよくなかった。その直後から猛烈な抗議の嵐。ものすごいものだった。(テレビの反響は、新聞や雑誌の比ではない!)「あなたは評論家として、即刻筆を折れ!」というのまであった。

●個人攻撃をしているのではない!
 こうした抗議は、評論活動にはつきもの。いちいちそれで滅入っていては、評論などできない。しかしどうしてこうも、こういう人たちは近視眼的なのだろうかと思う。私は全体として、ものの本質を問題にしているのであって、決して個人攻撃をしているわけではない。いじめにしても、私はいまだけって一度もそれを是認したことはない。が、こういう人たちは、文の一部に集中的にスポットをあて、あたかも自分が攻撃されたかのように思うらしい。学校の先生とて、例外ではない。親たちの執拗な抗議を受けて、精神を病んだり、転校をさせられた先生は少なくない。こんなことも……。

●学校の先生もたいへん!
 まだバブル経済、はなやかりしころのこと。ある学校のある先生が、たまたま仕事を手伝いにきていた一人の母親に、ふとこう口をすべらせてしまった。「塾へ、四つも五つも行かせているバカな親がいる」と。その先生は「バカ」という言葉を使ってしまった。これがまずかった。当時(今でもそうだが)、子どもを塾へ四つや五つ行かせている親は珍しくなかった。水泳教室、音楽教室、算数教室、英語教室と。しかしその話は一夜のうちに、父母全員にいきわたってしまった。そして「Aさんがバカと言われた」「いや、これはBさんのことだ」となってしまった。結局この問題は教育委員会レベルの問題にまで発展し、その先生は任期半ばで、その学校を去ることになってしまった。

 視野が狭くなればなるほど、結局は自分の姿が見えなくなる。そして自分の姿を見失えば見失うほど、その人は愚かになる。これも子育てでハマりやすいワナの一つということになる。

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