最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●生活の貧困化

2008-05-29 23:37:34 | Weblog
●生活の貧困化

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認知症(アルツハイマー病を含む)になると、
「生活が貧困化する」(「アルツハイマー病にならない」
井原康夫著)
という。

たいへん興味をひく言葉である。

「貧困化」といっても、金銭的に貧しくなったり、
ケチになることではない。

生活の豊かさが、消えるということ。
つまり認知症になると、四季を楽しんだり、
芸術をたしなんだり、おしゃれをしたりするということが、
減るということ。

言いかえると、生活の豊かさというのは何かという
ことになれば、その逆ということになる。

私たちは日常の生活を通して、つねに、その豊かさを
求める。
その豊かさが、私たちをより幅の広い人間にする。

さらに言いかえると、豊かにすることが、認知症を
予防するということにもなるのではないか?

そういうことも考えながら、私たちは、努めて、
日々の生活を豊かにしなければならない。
「努めて」というのは、「多少、無理をしてでも」という
意味である。

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ワイフの知人に、ひとり、たいへん心配な人がいる。
年齢を聞くと、今年、まだ63歳だという。
女性である。

数年前に夫を病気で亡くしてからというもの、
それまでの趣味を、ほとんど、やめてしまった。
近くの公民館で、週2回、バドミントンもしていたが、
それもやめてしまった。

さらに、ワイフの話では、「歌も歌わなくなってしまった」
という。

私「歌を歌わない、ってどういうこと?」
ワ「どんな歌が好き?、と声をかけても、
歌えないとか言って、話に乗ってこないのよ」と。

こう書くと、静かで穏やかな女性を想像するかも
しれないが、そうではない。
ワイフが何かのまちがいを指摘したりすると、ヒステリック
な声をあげて、反論してくるという。

先日も、こんなことがあった。

電話で話をしているとき、その女性が、「F市にある、
バラ園のバラはきれいだそうよ」と言ったそうだ。

ワイフは、それを電話機の横にあるメモ帳に書きとめた。
で、しばらく話をしたあと、ワイフが、「じゃあ、今度、
いっしょにF市のバラ園に行きませんか」と言うと、
その女性は、突然、パニック状態になってしまったという。

女「私は、F市だなんて、言っていません。S市です!」
ワ「でも、先ほど、F市と、おっしゃったではないですか?」
女「言っていません。S市は、私の母の実家のある町です。
私がまちがえるはずはありません」
ワ「どちらでもいいですが、じゃあ、S市ですね?」
女「私はF市だなんて、言っていません!!」と。

その女性は、電話口の向こうで、ギャーギャーと泣きわめく
ように、大声で叫んでいたという。

先の本によれば、アルツハイマー病でも、似たような
症状が現れるという。
「ささいなミスを指摘されたりする、激怒する」と。
(だからといって、その女性が、アルツハイマー病
ということではないが・・・。)

しかし心の豊かさがないことだけは、事実。
ふつうなら、こうした会話では、「あら、そう。ごめん。
まちがえたかも・・・」で終わる。
が、その豊かさなくなると、ささいなことにこだわり、
それを針小棒大にして、騒ぐ。

心を豊かにするということには、「おおらかに生きる」という
意味も含まれる。

では、どうするか?

(1) 人との接触を欠かさない。
(2) 音楽や絵画を楽しむ。
(3) 外出、旅行をふやす。

が、何よりも大切なのは、いつも新鮮な刺激を用意する
ということ。
その努力を怠ってはいけない。
日々の生活の中に、つねに変化を求めていく。

これは私自身の努力目標でもある。
がんばります! 
がんばりましょう!

(付記)渡辺謙の『明日への記憶』を見てから、アルツハイマー病
という病気が、気になるようになった。
ワイフの話を聞いたあと、今夜、2度目を見た。
いろいろ考えさせられた。
生きることにまつわる悲哀感を、ひしひしと感じた。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●おばあちゃんのリボン

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今週は、「家族」というテーマで、
レッスンを進めた。

年長児になると、「お父さんのお父さんが、
祖父」というところまで、理解できる
ようになる。

さらに進むと、「お母さんのお姉さんが、
おばさん」というとことまで、理解できる
ようになる。

人間関係を、頭の中で整理することができる。
で、そのレッスンの中でのこと。

家族の一覧図を見せた。

「祖父母、両親、兄、姉、(私)、弟、妹」の
図である。

以前、祖父と祖母が、どちらがどちらかわからない
と言った子どもがいたので、私は、(おばあちゃんの
顔)に、リボンをつけた。

それがまずかった。

Yさん(年長児)が、こう言った。
「おばあちゃんは、リボンをつけない!」と。

私「おばあちゃんだって、リボンをつけるよ」
Y「つけないよ! おねえさんが、つけるよ」
私「そんなことないよ。今は、そういう時代じゃ、ないよ。
おばあちゃんだって、リボンをつけるよ」
Yさんと、そのほかの子どもたちも、「つけない」「つけない」の
大合唱!

しかたないので、レッスンの途中で、私はリボンを消した。

私「じゃあ、どうやって、おじいちゃんとおばあちゃんを
見分けるの?」
子「知らない・・・」
私「おばあちゃんは、どうすればいいのか?」と。

そこで私は妙案を思いついた。

おばあさんの額に、赤い丸を描いた。

子「何、それ?」
私「うめぼし」
子「どうして、うめぼし?」
私「昔のおばあちゃんは、みな、額に梅干をつけたの」
子「・・・」
私「トクホンでもいい・・・」と。

参観に来ていた母親たちが、それを見て、腹を
かかえて笑っていた。
子どもたちは、そういう母親を見ながら、
けげんそうな顔をしていた。

ついでながら・・・。

「お父さん」は、「おと・う・さん」
「お母さん」は、「おか・あ・さん」
「お兄さん」は、「おに・い・さん」
「お姉さん」は、「おね・え・さん」
「弟」は、「おと・う・と」
「妹」は、「いも・う・と」と、それぞれ表記する。

手をパンパンとたたきながら、指導するとよい。
さらについでに、カタカナでは、それぞれ
長音を、「―」で表記する。

「お父さん」は、「オトーサン」ほか。

今週のレッスンでは、ここまで指導した。
(08年5月)


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●孫

HPやマガジンのほうでは、孫の誠司の写真を
たくさん紹介している。
それについて、かえって、目障(ざわ)りに
思っている人が、いるかもしれない。

私「だれだって、自分の孫はかわいく見えるのものだよ」
ワ「そうよ」
私「誠司は、ぼくたちには、かわいい孫だが、他人が
見たら、おかしな顔に見えるかもしれない」
ワ「・・・そうかしら?」
私「そんなものだよ」と。

HPにせよ、マガジンにせよ、孫の誠司が生まれたころ、
創刊した。
そのときから、誠司の写真を、載せるようにした。
今では、私のHP全体が、誠司のアルバム集のようになっている。
だから今さら、誠司の写真を取りはずすわけにはいかない。

私「どうしようか?」
ワ「そうねエ~。少しずつ、減らしたら・・・」
私「そうだなア~」と。

いつか誠司がおとなになったとき、私のHPを見るかもしれない。
そのとき、私のHPを見ながら、自分のアルバムを見るように
思ってくれればよい。

これは私から誠司への、時空を超えた、プレゼントと
いうことになる。

To: Sage Hayashi

Please come here and enjoy your photos when you grow up.
When you see them, Akiko & I may not be in this world anymore.
But you are here and our hearts are here, too.

林誠司へ

いつかお前がおとなになったら、ここへ来て、写真を
楽しんでください。お前がそれを見るとき、晃子と
私は、この世界には、いないかもしれない。しかしお前は
ここにいて、私たちの心も、ここにあるよ。

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