最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

●国旗と民族主義(National Flag and Nationalism)

2007-12-10 08:36:51 | Weblog
●国旗と民族主義(National Flag and Nationalism)

日本の国旗は、白地に赤丸。赤い太陽を表す。しかし国旗とは何か? たとえば日本の中で見る日の丸と、外国で見る日の丸は、たしかに、ちがう。日本の中で見る日の丸は、いわば空気のようなもの。そこにあって、当たり前。しかし外国で見る日の丸は、たしかに美しい。それを見たとき、ほっとするような、やすらぎを覚えることも多い。

その国旗について、ヘラルド・トリビューン紙に、こんな記事が載っていた。改めて、国旗について、考えさせられた。

Our national flag is the Red Sun on the White background, but what is the national flag? The impression we have about the flag is apparently different, the impression when I see it inside Japan is a kind of “air” and the impression when I see it outside Japan is another thing. The flag I see outside Japan often makes me comfortable or some kind of warmness.

I found a small article in Herald Tribune, regarding the flag, the article which reminds me of the siginificance of the National Flag.

「When Kosovo recently held a contest to design a flag, the organizers insisted that it reflect the multi-ethnic population, shunning the nationalist symbols of the past.

But dozens of artists chose to ignore that edict. They submitted variations of the red and black Albanian flag, whose two-headed eagle has for decades been proudly displayed at weddings and on the battlefield, while being equally reviled by many Serbs, who make up a minority in this breakaway province of Serbia.」(Herald Tribune,Dec. 9th 2007)

「コソボは、国旗をデザインするにあたって、過去のナショナリスト(民族主義者)のシンボルを廃して、多民族国家を反映したものでなければならないと主張した。

しかし何十人もの芸術家たちは、それを無視した。彼らは、双頭のワシのある赤と黒のアルバニアンの旗を基調としたものを採用した。それは、長年にわたり、結婚式や戦場で、誇らしくもかかげられた旗である。しかしそれは同時に、セリビア人たちによっては、ののしられてきた旗でもある」(ヘラルド・トリビューン紙)。

コソボは、今、新しい国家を作ろうとしている。その象徴として、新しい国旗をかかげようとしている。コソボの中には、少数派だが、セルビア人もいる。このままコソボの、セルビアからの分離独立がすんなりといくとは思わないが、その旗に寄せるコソボの人たちの思いが、この記事からも伝わってくる。

(付記)

 人間には、本能的の一部として、集団帰属性があるのかもしれない。私は、はからずも、先日、こんな経験をした。

 どこかの通りを歩いているときのこと。ある食品店の前に、行列ができていた。たまたまそこを通りがかったこともあるが、私とワイフは、思わず、その行列に加わってしまった。みなが、何を買おうとしているのか、それもわからずに、だ。

 集団の中にいれば、安心感を覚え、そうでなければ、不安になる。そういった心理は、「依存性」という言葉で説明される。日本人というのは、国際的にみても、その依存性の強い民族である。

 またこれとは別に、集団の中に埋没することによって、身の安全を図ろうとする心理も、人間にはある。たとえば特定の宗教団体の人たちは、同じようなユニフォーム(?)を着ることが多い。「体は異なっても、心はひとつ」というわけだが、そうすることによって、自分の「力」が、何倍も大きくなったように感ずる。

 それはたいへん居心地のよい世界でもある。孤独そのものが、癒される。が、何も、宗教の世界だけにかぎらない。スポーツの世界でも、よく見られる。選手と観客が、同じ色のユニフォームを着たりする。

 こうして「個」は、「集団」を求めて、やがてそこに帰属していく。こうした一連の流れを、「一体化」と呼ぶ。

 国旗は、あくまでも、「国」の象徴でしかない。が、しかしここでいう集団帰属性と結びつけて考えることも、できなくはない。「同じ、旗印のもとに……」というわけである。

 しかし基本的には、本能に根ざす部分であるだけに、こうした集団帰属性は、そのものが、原始的であると考えてよい。「個」の確立が進めば進むほど、人間は、また別の考え方をするようになる。

 私の印象に残っているできごとに、こんなことがあった。

 学生時代に、メルボルンにいたときのこと。日本の海上自衛隊の艦船が、3隻、メルボルン港へやってきた。領事からの連絡で、私も含めてメルボルンに住む日本人が、その歓迎のために、かり出された。

 私たちは、日本の国旗をもって、メルボルン港の埠頭に立った。私や、私といっしょについてきてくれたオーストラリア人の学生にとっては、祭りのようなものだった。ワーワーと声を出して騒いだ。が、ふと周囲を見ると、直立不動のまま、敬礼をしている人もいた。中には、バンザーイを繰りかえし、涙まで流している人もいた。

 その日の日記を読むと、私のように、祭り騒ぎになる日本人が、3分の1。直立不動のまま敬礼を繰りかえす人が、3分の1とある。残りの3分の1は、そのどちらでもない人ということか。

 1970年のことだから、今は、日本人の意識もだいぶ変わったと思う。当時は、まだそういう時代だった。

 実は、私もオーストラリアへ渡った当初は、自分が日本人であることを、たいへん強く意識していた。つまりそれだけ集団帰属性が強かったと思う。しかしあるときから、それが薄れ、やがて消えた。海上自衛隊の艦船がメルボルン港へやってきたのは、その消えたころのことだった。

 理由を話せば長くなるが、そのころの私は、「私はアジア人」と言うようになっていた。今から思うと、私という「個」が、日本を離れ、より広い、「アジア」という集団に帰属していたことになる。

 言いかえると、こうした集団帰属性は、そのつど、拡大することもできるし、ばあいによっては、縮小することもできるということ。「拡大」というのは、「ワクを広げる」という意味。「日本」から「アジア」へ。その「アジア」から「世界」へ、そして「地球全体」へと。

 一方、「縮小」というのは、「ワクをせばめる」という意味。「日本」から「地域」へ。その「地域」から「家」へ、そして「家族」へと。

 拡大するのがよいとか、縮小するのが悪いとか言っているのではない。人間には、双方向性があるということ。またそのバランスを保つことが大切ということ。どちらか一方だけを、極端化するのは、このましくない。

 たとえば国旗についても、それがすべてと、国粋主義者的に考えるのもどうかと思うし、国旗など意味がないと、燃やしてしまうのも、どうかと思う。

 ヘラルド・トリビューン紙の記事は、つぎのように、しめくくっている。

「"How we create a Kosovar identity is a critical question," said Migjen Kelmendi, a former rock star who is now a linguist and editor. Kelmendi is leading the effort to fashion a new self-image for Kosovo. The Albanian Muslims who form the large majority of Kosovo, he said, "think of themselves in terms of their Albanian ethnicity - and they think that questioning that makes them a traitor."

「コソボのアイデンテティをいかに作るかということは、深刻な問題である」と、元ロック・スターであり、現在は言語学者でもあり、編集者でもある、Migjen Kelmendiは、言う。彼は、コソボの新しいイメージを創作するために、先頭に立って努力している。彼、いわく、「コソボで大多数を占めるアルバニア系イスラム教徒たちは、自分たちを、アルバニア民族という観点でとらえている。そしてそれに疑問をもつことについて、裏切り行為であると考えている」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 民族主義 国旗 National Flag of Japan Nationalizm Nationalism)


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。