最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●失敗危険度M

2009-02-08 19:15:11 | Weblog
A中学では、うちの子は不幸になります!
占いにこる親たち(失敗危険度★★★★)

●かわいそうな人たち
 占いや運勢にこる人というのは、自分で考えることのできない、かわいそうな人とみてよい。一見、人間は知的な生き物に見えるが、イヌやサルと、それほど違わない。「思考」ということになると、「思考していない人」のほうが、「思考している人」より、はるかに多い。

だいたいにおいて、他人の運命が読み取れるような人が、駅前の路地や喫茶店、さらにはデパートの通路などで、若い女性を相手に占いなどするだろか。自分で自分を占い、お金をどんと儲けて、豪邸で遊んで暮らせばよい。自分で自分を占うことはできないというのなら、仲間の占い師にみてもらえばよい。ああいったものは、一〇〇%インチキ。そう断言して、まちがいない。

●私も預言者?
 ただ私は、数一〇分も子どもと接すると、その子どもの能力や性質、さらには問題点やこれから先その子どもがそうなり、どういう問題を引き起こすかが手にとるようにわかる。しかしこれは超能力のようなものではなく、経験だ。三〇年も毎日子どもをみていると、そういうことができるようになる。しかし私は、たとえわかっていても、それは言わない。親に頼まれても言わない。万が一、まちがっていたら……という迷いがあるからだ。それに治療法も用意しないで、診断名だけをくだすのは、良心のある人間のすることではない。が、そういった連中は、平気で、相手の運命を、あたかも知り尽くしたかのように口にする。

先日もテレビを見ていたら、『浄霊』と称して、若い娘にこう言っていたインチキ霊媒師がいた。「あなたの体に乗り移っている悪霊は悪質です。ほうっておくと、あなたの命すらあぶない」(〇二年四月)と。こういうことを平気で口にすることができる人は、人格そのものが崩壊した人とみてよい。

●子どもの教育も占いで……
 若い女性ならまだしも、母親の中にも、いくらでもいる。そして子どもの教育すら、そういう占いや運勢に頼っている……! こういう親を前にすると、会話そのものがかみ合わない。

 「先生、A中学と、B中学の件ですが、私は息子をB中学へ入れたいのですが……」
 「どうしてA中学ではだめなのですか? 距離も近いでしょう」
 「それが先週、うちの主人がG神社で占ってもらったら、A中学では、子どもが不幸になるというのです」
 「不幸って?」
 「いじめにあったりして、結局は転校することになるって。そういう結果が出ました」と。
 そういうとき、私の頭の中では、私の思考回路がショートを起こす。バチバチと火花が飛び散る。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

立派な社会人になれ!
いい学校から、いい家庭へ(失敗危険度★★★★)

●いい家庭を!
 「いい学校」を口にする親はいても、「いい家庭」を口にする親は少ない。「いい学校」を誇る親はいても、「いい家庭」を誇る親は少ない。日本人は伝統的に、仕事第一主義。学歴第一主義。もっと言えば出世第一主義。しかしその陰で犠牲にしているものも多い。その一つが、「家庭」であり「家族」。そのよい例が、単身赴任。私が学生時代には、「短期出張」と言った。商社のばあい、六か月以内の短期出張は、単身赴任が原則。しかし六か月で短気出張が終わるとはかぎらない。いわゆる出張のハシゴというので、一度外国へ出ると、数年は日本へ帰ってこられなかった。

それについて、ある日オーストラリアの教授がこう聞いた。「日本には短期出張について、法的規制はないのか」と。そこで私が「ない」と答えると、まわりにいた学生までもが、「家族がバラバラにされて何が仕事か」と騒いだ。日本の常識は、決して世界の常識ではない。が、こんな家族もある。

●すばらしい家族
 その娘の一人が、やや重い精神病をわずらった。しかし親は、それをすなおに受け入れた。そして家族が力を合わせてその娘を支えることにした。娘は学校へは行かなかったが、母親は娘にあれこれ経験させることだけは忘れなかった。その中の一つが、絵画。娘はその絵画をとおして、やがてろうけつ染に興味をもつようになった。で、中学二年生のときに、市内で個展を開くまでになった。こういう家族をすばらしい家族という。

●親子関係を破壊する子育て
 一方、こんな親は多い。子どもの受験勉強で無理に無理を重ねて、親子関係そのものを破壊してしまうような親だ。その日のノルマがやっていないと、その父親は、子どもを真夜中でもふとんの中から引きずり出してそれをさせていた。私が「何もそこまで……」と言うと、その親はこう言った。「いえ、私は嫌われてもかまいません。息子さえいい中学へ入ってくれれば。息子もそれで私を許してくれるでしょう」と。

このタイプの親の頭の中には、「いい家族」はない。脳のCPU(中央演算装置)そのものがズレているから、私のような意見そのものが理解できない。それはちょうど映画『マトリックス』に出てくるような世界のようなもの。現実と仮想世界が入れかわり、仮想世界に住みながら、そこが仮想世界だとすら気がつかない。本来大切にすべきものを粗末にし、本来大切でないものを大切だと思い込んでしまう。

●友だちの数が財産
 少し前、アメリカ人の友人だが、私にこう言った。「ヒロシ、一番大切なのは、友だちだよ。友だちの数こそが財産だよ」と。彼のこの言葉を借りるなら、「一番大切なのは、家族だよ。家族のきずなこそ財産だよ」ということになる。

欧米が何でもよいわけではないが、欧米と日本とでは、家族に対する考え方そのものが違う。たとえばオーストラリアでは、学校の先生も親も、子どもには、「よき家庭人になれ」と教える。「よい市民になれ」と言うときもある。カナダでもアメリカでもそうだ。フランスでもドイツでもそうだ。しかしこの日本では、「社会で役にたつ人」、あるいは「立派な社会人」が教育の柱になっている。「社会」という言葉は、「全体」という言葉の代名詞と考えてよい。この違いが積もりに積もって、日本の単身赴任になり、それに驚いたオーストラリアの学生になった。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子は、まだ何とかなる!
あきらめは悟りの境地(失敗危険度★★★)

●子育てはあきらめの連続
 親の欲望には際限がない。子どもができなければできないで悩むが、少しでもできるようになると、「もっと……」と考える。たとえば中学への進学。「せめてC中学、それが無理ならD中学」と言っていた親でも、子どもがC中学へ入れそうだとわかってくると、今度は「B中学」と言い出す。しかしこういう親はまだラッキーなほうだ。中には、D中学、E中学と、どんどんと志望校をさげていかなければならないときがある。しかし一度こういう状態になると、あとは何をしても空回り。親があせればあせるほど、子どもの力は落ちていく。「そんなはずはない」「まだ何とかなる」とがんばればがんばるほど、子育ては袋小路に入る。そしてやがてにっちもさっちもいかなくなる。

要するにどこであきらめるかだが、受験にかぎらず、子育てをしていて、あきらめることを恐れてはいけない。子育てはまさに、あきらめの連続。またあきらめることにより、その先に道が開ける。しかもその時期は早ければ早いほどよい。もともと子育てというのはそういうもの。

●自分で失敗するしかない
 ……と言っても、これは簡単なことではない。どの親も、自分で失敗(失敗という言葉を使うのは適切でないかもしれないが)とはっきりとわかるまで、自分が失敗するとは思っていない。「うちの子にかぎって」「私はだいじょうぶ」という思いの中で、行きつくところまで行く。また行きつくところまで行かないと気がつかない。

子どもの限界にできるだけはやく気づくこと。それがわかれば親も納得し、その段階であきらめる。そこで一つの方法だが、子どもに何か問題が生じたら、「自分ならどうか」「自分ならできるか」「自分ならどうするか」という視点で考える。あるいは「自分が子どものときはどうだったか」と考えるのもよい。子どもの中に自分を置いて、その問題を考える。たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい」と言ったら、すかさず、「自分ならできるか」「自分ならできたか」と考える。それでもわからなければ、こういうふうに考えてみる。

●あなたなら耐えられるか?
 もしあなたが妻として、つぎのように評価されたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。「あなたの料理のし方、七六点。接客態度、五四点。家計簿のつけ方、八〇点。主婦としての偏差値四五点。あなたにふさわしい夫は、○○大学卒業程度の、収入四○○万円程度の男」と。またそういうあなたを見て、あなたの夫が、「もっと勉強しろ!」「何だ、この点数は!」とあなたを叱ったら、あなたはそれに一体どう答えるだろうか。子どもが置かれた立場というのは、それに近い。

●親は身勝手?
 親というのは身勝手なものだ。子どもに向かって「本を読め」という親は多くても、自分で本を読んでいる親は少ない。子どもに向かって「勉強しろ」という親は多くても、自分で勉強する親は少ない。そういう身勝手さを感じたら、あきらめる。そしてここが子育ての不思議なところだが、親があきらめたとたん、子どもに笑顔がもどる。親子のきずながその時点からまた太くなり始める。もし今、あなたの子育てが袋小路に入っているなら、一度、勇気を出して、あきらめてみてほしい。それで道は開ける。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

字がヘタだから、書道に!
悪筆、言ってなおらず(失敗危険度★)

●年長児でわかる悪筆
 年長児くらいになると、子どもの悪筆が目立ってくる。小学校へ入ると、さらにそれがはっきりとわかるようになる。手の運筆能力が固定化してくるためと考えられる。その運筆能力は、子どもに丸(○)を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、きれいな、つまりスムーズな丸を描くことができる。そうでない子どもは、多角形に近いぎこちない丸を描く。

ちなみに縦線を描くときと横線を描くときは、指、手、手首の動きは基本的に違う。違うことは一度、自分で縦線と横線を描き、それらがどう変化するかを観察してみるとわかる。さらに丸を描くときは、これからがきわめて複雑な動きをするのがわかる。つまりきれいな丸を描くというのは、それだけたいへんということ。

●書道教室へ行けばうまくなる?
 悪筆が目立ってくると、親はすぐ、「書道教室へ」と考えるが、これは誤解。運筆能力のない子どもでも、書道をならわせると、見た目にはきれいな文字を書くようになる。が、今度は時間ばかりかかるようになる。学校の授業でも、先生が黒板に文字を書く速さについていけないなど。以前、M君(小二)という男の子がいた。文字はきれいだが、とにかく遅い。皆が書き終わっても、まだノロノロと書いている。そこである日、私はきつく注意した。「はやく書きなさい!」と。とたんM君ははやく書くようになったが、私はその文字を見て驚いた。文字がめちゃめちゃなんていうものではなかった。しかしそれがM君の本来の文字だったのだ。

●運筆能力はぬり絵で
 運筆能力を養うためには、ぬり絵がよい。ぬり絵をしながら、子どもは運筆能力を養う。ぬり絵をしながら子どもは、こまかい四角や丸い部分を、いろいろな線を使って塗りつぶそうとする。そうなればしめたもの。(ぬり絵になれていない子どもは、横線なら横線ばかりで色を塗ろうとするから、線があちこち飛び出したりする。)文字の学習に先立って、子どもにはぬり絵をさせる。あとあと文字がきれいに書けるようになる。

 なおクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは三本の指でつかむようにしてもつ。鉛筆は、親指と人さし指でつかみ、中指でうしろから支えるようにしてもつ。(だからといってそれが正しいもち方と決めてかかってもいけないが……。)鉛筆を使い始めたら、一度正しいもち方を教えるとよい。ちなみに年長児で、鉛筆を正しくもてる子どもは約五〇%。クレヨンをもつようにしてもつ子どもが、三〇%。残りの二〇%は、きわめて変則的なもち方をするのがわかっている(筆者調査)。

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