最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

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(2)

2010-06-02 07:35:25 | Weblog



【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●道徳とMoral(モラル)

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私はずっと、「道徳」イコール、「Moral」、
「Moral」イコール、「道徳」と考えていた。
しかし日本語と英語は、必ずしも一致しない。
よい例が、「尊敬」と「respect」である。

日本語で、「尊敬する」というと、「相手を尊く、
敬う」という意味で使われる。
英語で「respect」というと、日本語の
「尊敬」よりは、ずっと意味が軽い。
「一目置く」とか、「敬愛する」とか、そんな
ニュアンスになる。
日常的にもよく使う。

たとえば自分の子どもが発表会の場なので、
堂々と自分の意見を言ったりすると、親は
自分の子どもに向かって、「I respect 
you.」などと言ったりする。
「よくやったね!」という意味に近い。
「尊敬する」という意味では、むしろ、
「I am proud of you.(あなたを
誇りに思う)」のほうが、よく使われる。

そういうちがいを無視して、日米の子どもの意識を
比較調査しても、あまり意味がない。
たとえば「あなたはあなたの父親を尊敬しますか」
という質問項目があったとする。
質問を受けた日本の子どもは、そう聞かれると、身を
構えてしまう。
真顔になってしまう。

一方、英語国の子どもなら、「Do you respect
your father?(あなたの父親を尊敬しますか)」
と聞かれれば、あまり深く考えないで、「Yes!」と答えるだろう。

同じことが、「道徳」についても言える。

「道徳」というと、日本では、「すでに規範として確立された、
守るべき規律」という意味で使われている。
道徳を否定する人はいない。

一方、「Moral」というと、辞書などには、
「規律」という訳語が載っている。
「規律一般」をいう。
大修館ジーニアス英和辞典にも、「原義、風俗習慣」とある。
その中には、「よい規律」もあれば、「悪い規律」も
ある。
日本語でいう「道徳」とは、かなり意味がちがう。
ただ「モラル」というカタカナ言葉は、「道徳」と同じ意味で
使われることが多い。
そのあたりに、誤解の元(もと)がある。

日本語で、「モラル」というと、そのまま「道徳」という
意味で使われる。
たとえば「モラルが低下した」と言えば、道徳心が低下
したという意味になる。
「それはモラルの問題」というような言い方をするときもある。

で、誤解というのは、コールバーグの説いた、「脱道徳論」
である。

コールバーグは、道徳の完成度が高くなればなるほど、
人は、「脱道徳」になると説く。
最終的には、「人間は普遍的価値を求め、命を中心に置いた
ものの考え方をする」(新曜社・「心理学とは何だろうか」)と。

が、ここで首をかしげる。
日本人なら、みな、首をかしげる。
道徳というのは、先にも書いたように、「確立された規範」をいう。
「それから脱するということは、どういうことか?」と。
実際、「このような発達段階が真に存在するだろうか」と
疑問を投げかけている学者もいる(お茶の水大学M教授)。

しかしここに、今まで書いてきたことを当てはめてみると、
謎が解ける。
コールバーグは、「規律などというものは、必要最低限のものである。
自ら考え、行動し、責任を取ることこそ重要」と説いている。
そういう意味で、「脱・規律」という言葉を使った。
そしてそれを誤訳ではないが、「脱道徳」としたから、
日本人には、理解できなくなってしまった。
(注:「心理学とは何だろうか」の中では、「脱慣習的段階」と
なっている。)

本来なら、コールバーグの書いた論文を原書で読んだ
上で、この原稿を書かねばならない。
コールバーグは、本当に「Moral」という言葉を
使ったのだろうか?
そういう疑問がないわけではない。
それもわからず、こういう原稿を書くこと自体、
いいかげん。
私にもそれがよくわかっている。
わかっているが、あえてそれを調べて書く必要もない。
私は私のやり方で、つまり勝手にコールバーグの「脱道徳論」
を、考えなおしてみればよい。

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●脱・規律論

 規律に対しては、3つの段階に分けられる。
(道徳ではなく、あくまでも「規律」。)

(1)前規律段階

 「規律」に盲目的に従い、自立した思考力のない段階。
たとえば「軍規にはこうあるから」などという理由で、批判を加える
ことなく、それに従ったりすること。

(2)規律段階

 「規律」といっても、そのつど取捨選択しながら従うという段階。
たとえば「規則ではそうなっているが、今は、緊急事態だから、別の考え方
をする」というのが、それ。

(3)脱規律段階

 規律の存在は認めながらも、自分で考え、行動し、責任を取る段階。
一般的な規律よりもさらにきびしい規律を、自分に課すことが多い。
たとえば主義主張を守るため、あえて既存の規律に背を向けて、行動するなど。

 当然のことながら、後者ほど、道徳(Moral)の完成度が高い人
ということになる。
が、このことは、フロイトが説いた、(1)エスの人、(2)自我の人、
(3)超自我の人の分類法に、どこか似ている。
フロイトは、欲望のおもむくまま行動するする人を、「エスの人」、
臨機応変にそのつど理性的に判断する人を、「自我の人」、
そしてどんなばあいも、理性に従い、まちがったことをしない人を、
「超自我の人」と呼んだ。

●道徳

 それが人間が守るべき規範として確立された「規律」である
とするなら、守るのが当然。
「規則」とは、ちがう。
「規律」とも、ちがう。
「基準」とも、ちがう。
道徳は、道徳。

しかしここで最大の疑問が生じてくる。
そも道徳なるものは、存在するのかという疑問である。

 わかりやすくするため、「道徳」を、「善悪判断」と
言い換えてもよい。
が、ここでも問題が生ずる。
「善とは何か?」「悪とは何か?」と。
またそれは教育によって、子どもたちに伝えられるものなのだろうか。
NG先生(元小学校校長)は、こう述べている。
「道徳の時間で道徳を教えていると、先生好みの、きれいごとばかり
並べる子どもが出てくる」と。

 つまりこう言ったり、書いたりすれば、先生が喜ぶだろうという意見や
解答を、先回りして子どもが発表したり、書くようになる、と。
また「そういう技術ばかり、先に身につけてしまう」(NG先生)と。
が、それでは道徳教育にならない。

●仮面

 が、さらに不都合なことが起きる。
見てくれの「善」を子どもに押しつけると、やがて子どもは仮面をかぶる
ようになる。
俗に言う、「いい子」ぶるようになる。
親の過干渉や過関心、あるいは過剰期待が強すぎても、子どもは、いい子ぶる
ようになる。

イプセンの『人形の家』の中の。「人形子」(後述、原稿添付)を、思い起こすまでもない。
つまり仮面をかぶることによって、本来の自分、もっと言えば、本来の子ども自身、
さらには本来の人間性まで、心の隅に押し殺してしまう。
それがいかに危険なものであるかは、ユングのシャドウ論を読めばわかる。
(シャドウ論については、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。)

●結論

 人間が、社会的動物として生きていくためには、「規律」は必要である。
それは当然であるとしても、しかしその規律は、絶対的なものではない。
臨機応変に、変化し、そのつど柔軟さをもっていなければならない。
が、さらに一歩進んで、「規律があるから・・・」という、規律依存型の
考え方から、「規律のあるなしにかかわらず、自らを律する」という、自立型の
考え方に進んでいく。

 それが「脱・規律」ということになる。
コールバーグが説いた、「脱・道徳」とは、ちがうものかもしれない。
本当のことを言えば、「道徳」でも、「モラル」でも、はたまた「Moral」でもよい。
コールバーグにこだわる必要はない。
私たちは私たち自身の頭で考え、行動すればよい。
自分で責任を取ればよい。
コールバーグの決めたことを、「規範」とするなら、それを超えた理論を展開する。
それこそがまさに、「脱・規律」ということになる。
(100426)

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BW はやし浩司 脱規律論 脱道徳論 脱規範 道徳 道徳教育 コールバーグ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●人形子について

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●人形子(にんぎょうし)
08年6月の原稿より。

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A小学校のA先生と、電話で話す。
その中で、東京のA原で起きた、凶悪事件が、
話題になった。

あの事件を起こした男性は、中学生のころまで、
非のうちどころのない、優等生であったという。
成績は優秀で、まじめで、従順で……、と。

そんな男性が、トラックを借り、通行人の中に
突っ込んでいった!
何人かの人を殺した。

そんな話をしながら、私は「人形子」という言葉を使った。

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ペットというよりは、人形。
そんな子どもが、10人のうち、1~2人はいる。
イプセンの『人形の家』にならって、私は「人形子
(にんぎょうし)」と呼ぶ。

できは、よい。
見た感じ、人格の完成度も高い。
ものわかりもよく、先生の指示に対しても、すなおに
従う。

やることに無駄がなく、ソツがない。
宿題もきちんとやってくる。
何か質問をしても、いつも模範解答が返ってくる。

先生「拾ったお金は、どうしますか?」
子 「交番へ届けます」
先生「自分で使ってしまう人もいますが・・・」
子 「そんなことをすれば、落とした人が困ります」と。

学習面でもすぐれている。
「あなたは家から帰ったら、何をしているの?」と
聞くと、「お母さんが買ってくれた、本を読んでいます」
などと答える。

そんなわけで、幼稚園でも学校でも、「いい子」という
評価を受ける。(・・・受けやすい。)

冒頭で、「10人のうち、1~2人はいる」と書いたが、
もちろん程度の差もある。
もし基準をさげたら、10人のうち、2~3人に
なるかもしれない。

が、反対に、「これではいけない」と思う子どもも、いる。
そういう子どもが、20人に1人とか、30人に
1人とかいる。

というのも、人形子になるには、ひとつの条件がある。
子ども自身、ある程度、できがよくなければならない。
できがよいから、親が、子どもの教育にますます
のめりこむ。

つまり子どもは、親の期待にこたえようと、ますます人形子に
なっていく。
「いい子」を演ずることによって、自分の立場を確保しよう
とする。
わかりやすく言うと、仮面をかぶる。
が、そのうち、その仮面をはずせなくなってしまう。
幼稚園や学校に教師に対しても、そうである。

こうして幼稚園の年長期を迎えるころには、独特の
雰囲気をもった子どもになる。

一口で言えば、子どもらしさそのものが、ない。
子どもっぽさを、感じない。
子どものはずなのに、妙に、おとなびている。
が、親は、そういう自分の子どもを見ながら、むしろ
できのよい子どもと思ってしまう。
反対に、そうでない子どもを、できの悪い子どもとして、
遠ざけてしまう。

親の過関心、過干渉、それに溺愛が混ぜんいったいとなって、
その子どもの世界を包む。
明けても暮れても、頭の中にあるのは、子どものことばかり。

「ゲームのような低劣なものは、家には置きません」
「うちの子は、受験勉強とは無縁の世界で育てます」
「歌は、プロの先生に指導していただいています」
「毎週、1冊は、本を読ませています」などなど。

「ある程度は、俗世間に融和させないと、お子さん
自身が、つらい思いをするのでは?」と、教師がアドバイスしても、
聞く耳、そのものをもっていない。

自ら厚いカプセルの中に入ってしまっている。
その狭い世界の中だけで、独自の教育観(?)を、
熟成させてしまっている。

「英語の先生は、ネイティブでないと困ります」
「理科教育は、何でも実験を先にしてから、教えてほしい」
「備え付けの楽器は、不潔だから、使わせないでほしい」などなど。

学校の教育についても、あれこれと注文をつけていく。

しかしこういう親が一人いるだけで、その教室の教育は
マヒしてしまう(A先生)。

では、どうするか?、・・・という問題よりも、そういう
親は、一度、先に書いた、イプセンの『人形の家』を
読んでみたらよい。

が、その程度ではすまない。
幼児期から、思春期前後まで、「いい子」で通した子どもほど、
あとがこわい。

何度も書いているが、子どもというのは、その発達段階ごとに、
昆虫がカラを脱ぐようにして、成長していく。
第一次反抗期には、第一次反抗期の子どものように、
中間反抗期には、中間反抗期の子どものように・・・。

非行が好ましいというわけではないが、非行を経験した
子どもほど、あとあと常識豊かな子どもになるということは、
この世界では常識。

(そもそも「非行」とは何か? その定義もあやしい?)

たとえば思春期前後から、はげしい家庭内暴力を繰りかえす
ようになる子どもがいる。

このタイプの子どもほど、それまで、「いい子?」だった
というケースがほとんどである。
だから子どもが家庭内暴力を繰りかえすようになると、
ほとんどの親は、泣きながら、こう叫ぶ。

「どうして?」「子どものころは、あんないい子だったのに!」と。

しかしそれは親の目から見て、「いい子?」だったにすぎない。

(以上、A先生の許可をいただき、A先生の話の内容を、
まとめさせていただきました。08年6月23日。)

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【引きこもりvs家庭内暴力】

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将来的に、引きこもったり、家庭内暴力を
起こす子どもというのは、その前の段階で、
独特の雰囲気を、もつようになる。

それについては、何度も書いてきたので、
ここでは省略する。

問題は、そういう雰囲気を感知したとき、
それをどこまで親に告げるべきか。
教師は、その問題で、悩む。

この段階では、たいていの親たちは、
「自分の子どもはできがいい」とか、
「うちの子にかぎって」とか思っている。
大半は、「私の育児のし方こそ、ぜったい」と
思っている。

思っているというよりも、信じている。
そういう親に向かって、「お宅のお子さんには
問題があります」などとは、言えない。
言ったとたん、親はパニック状態になる。
ついで、教師と親の人間関係は、終わる。

そんなわけで、たいていの教師は、「もしまちがっていたら・・・」
という迷いもあり、かたく口を閉ざす。

つまりここに書いた、人形子も、そうである。
人形子とわかっていても、それを口にするのは、
タブー中のタブー。

が、このタイプの子どもほど、思春期を迎えるころ、
はげしく豹変する。
年齢的は、12~14歳前後か。

ふつうの豹変ではない。
ある日を境に、突然、狂ったように暴れだしたりする。
「オレをこんなオレにしたのは、テメエだア!」と。

中には、豹変しないで、人形子のまま
おとなになる子どももいる。
イプセンの『人形の家』の中の主人公が、
その一例かもしれない。

そういう意味では、この時期にはげしく親に
抵抗する子どものほうが、まだマシという
ことになる。
心の内にたまったエネルギーは、できるだけ
早い時期に吐き出したほうがよい。

が、反対に引きこもるタイプの子どももいる。
よく誤解されるが、引きこもるから暴力をふるわない
ということではない。

ちょっとしたことで錯乱状態になって、暴れたりする。

そこであなたの子どもは、どうか?

あなたの前で、子どもらしく、自由に、伸び伸び
しているだろうか。
言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。

もしそうなら、それでよし。
が、反対に、「うちの子は、できがいい」と思っているなら、
ここに書いたことを、もう一度、読みなおしてみてほしい。

子育てというのは、自分で失敗してみて(失礼!)、
はじめて失敗と気づく。
これは子育てそのものがもつ、宿命のようなものかも
しれない。

賢い親は、それに事前に気づき、そうでない親は、
失敗(失礼!)してから、それに気づく。
(「失敗」という言葉を使うのは、好きではないが・・・。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自分を演ずる子ども 仮面をかぶる子供 仮面をかぶる子ども)


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