【謎のキトラ古墳】
●百済(くだら)王子
今朝の新聞によると、例のキトラ古墳の内部は、
もぬけのカラだったという(08年5月24日)。
わずかな人骨が、散乱していたにすぎなかったという。
新聞記事によれば、「盗掘によってそうなった」と。
しかし、どこのだれが、人骨など、盗掘するだろうか?
これについては、こんな説がある。
その前に、当時の歴史について、説明しておかねば
ならない。
みなさんも、「壬申(じんしん)の乱」という言葉を、
学校の社会科の授業で、聞いたことがあると思う。
当時としては、たいへんな大事件であったらしい。
日本書紀も、この事件について詳しく書いている。
で、その壬申の乱というのは、天智天皇(てんじてんのう)の子
である、大友皇子(おおとものみこ)と、天智天皇の弟である、大海人皇子
(おおあまのみこ)の間で起きた、皇位争奪戦のことをいう。
つまり天智天皇なきあと、天智天皇の子と、天智天皇の
弟が、皇位を争って、「乱」を起こした。
結果、天智天皇の弟の大海人皇子が、皇位を継承する。
名を「天武天皇」と改める。
そこでもう一度、キトラ古墳が発掘された当時(02年)に
私が書いた原稿を、ここに再掲載してみる。
この中で、とくに注意してほしいことは、キトラ
古墳の内部が、百済王室の模様で、飾られていた
ということ。
だからキトラ古墳が発掘された当時、新聞記事の
見出しは、こうなっていた。
「天智天皇の子の大友皇子か、それとも百済皇子の
墓か」と。
++++++++++++++++++++++
●驚天動地の発見!
さて日本人も、そろそろ事実を受け入れるべき時期にきているのではないだろうか。これは私の意見というより、日本が今進みつつある大きな流れといってもよい。たとえば2002年のはじめ、日本の天皇ですらはじめて皇室と韓国の関係にふれ、「ゆかり」という言葉を使った。
これに対して韓国の金大統領は、「勇気ある発言」(報道)とたたえた(1月)。さらに同じ月、研究者をして「驚天動地」(毎日新聞大見出し)させるような発見が奈良県明日香村でなされた。
明日香村のキトラ古墳で、獣頭人身像(頭が獣で、体が人間)の絵が見つかったというのだ。
詳しい話はさておき、毎日新聞はさらに大きな文字で、こう書いている。「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」と。
京都女子大学の猪熊兼勝教授は、「天文図、四神、十二支の時と方角という貴人に使われる『ローヤルマーク』をいくつも重ねている」とコメントを寄せている。こ
これはどうやらふつうの発掘ではないようだ。それはそれとして、が、ここでもし、「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」の部分を、「百済王族イコール、弓削(ゆげ)皇子」と解釈したらどうなるか。
弓削皇子は、天武天皇の皇子である。だから毎日新聞は、「研究者ら驚天動地」という大見出しを載せた。
++++++++++++++++++++++
先に書いた壬申の乱の前に、朝鮮半島で、「白村江
(はくそんこう)の戦い」というのが起きている。
西暦663年のことである。
この白村江の戦いというのは、わかりやすく言えば、
滅びつつあった百済が、百済再興をかけて、唐と
新羅(しらぎ)に、最後の一線を挑んだ戦いということになる。
その白村江の戦いに、天皇家は、百済にたいして、
援軍を送っている。
その中心的人物が、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)
と言われているが、確かではない。
それはそれとして日本の天皇家と、百済は、きわめて近い関係に
あった。
が、ご存知のように、白村江の戦いでは、百済が敗退。
同時に日本の天皇家は、手痛い打撃を受ける。
ここから先は、関裕二氏の書いた「古代史の秘密を握る
人たち」(PHP)を引用させてもらう。
関裕二氏の書いた本の中には、こうある。
「(日本書紀によれば)、中臣鎌足が出現する直前、
百済の皇子の豊璋(ほうしょう)が、人質として、
来日している」(同、P83)と。
以下、同書には、つぎのようにある。
「豊璋は、西暦631年に来日、660年に百済がいったん滅亡したのち、王朝復興の機運の高まりの中で、百済の名将、鬼室福信に呼び戻され、擁立される。しかし(豊璋は)、鬼室福信の手腕と名声をねたみ、これを殺し、首を塩漬けにして、自ら王朝の衰弱を招いてしまう。白村江の戦いで百済王朝は、永遠にこの世から姿を消し、豊璋は行方をくらましたままだった」と。
年代を整理してみよう。
631年・・・豊璋、来日
660年・・・百済滅亡
663年・・・白村江の戦い(百済、永遠に滅亡)
672年・・・壬申の乱が起きる。
673年・・・天武天皇(大海人皇子)即位
キトラ古墳は、こうした歴史を背景として、作られた。
ウィキペディア百科事典によれば、つぎのようにある。
「壁画などにみられる唐の文化的影響が、高松塚古墳ほどには色濃くないことから、遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳であると見られている」(ウィキペディア百科事典)と。
つまり西暦600年の末から、西暦700年のはじめである、と。
この時期は、白村江の戦い~壬申の乱と、ピタリと重なる。
さらにつけ加えるなら、壬申の乱は、天智天皇の子と、
天智天皇の弟との間の皇位争奪戦だったということに
なっているが、関裕二氏の見解は、少しちがう。
それまでの百済派だった大友皇子(天智天皇の子)と、
新羅派になりつつあった大海人皇子(天智天皇の弟、
のちの天武天皇)との間の戦いだった、と。
わかりやすく言えば、百済派の天智天皇の子と、
新羅派の天武天皇の戦いだった、と。
これを裏づける資料としては、つぎのような
ものがある。
「天武は遣唐使は一切行わず、代わりに新羅から
新羅使が倭国へ来朝し、また倭国から新羅への
遣新羅使も頻繁に派遣されており、
その数は天武治世だけで14回に上る」(ウィキペディア百科事典)と。
が、最大の謎は、なぜ天智天皇は、それほどまでに百済に
肩入れをしたのかということ。
天智天皇は、ウィキペディア百科事典によれば、3派に分けて、
計4万人という兵力を送っている。
事実、白村江の戦いで百済は滅亡し、そのあと天皇家も滅亡の
危機を迎える。
が、こうした事実と、キトラ古墳を重ね合わせてみると、
答は自然と出てくるのでは?
壬申の乱で政権を継承した大海人皇子(天武天皇)は、新羅への
忠誠をたてる必要性からも、キトラ古墳をつぶさなければ
ならなかった(?)。
その結果が、今朝の新聞ということになる。
なお、こうした歴史観というのは、日本の外では常識で、
「そうではない」「まちがっている」と、かたくなに、
「日本史」にこだわっているのは、日本の歴史家たち
だけと考えてよい。
日本史も、実は、東洋史の一部でしかない。
またそういう視点で、日本の歴史をながめて、はじめて、
日本人は、日本のルーツを正しく知ることができる。
これは余計なことかも知れないが・・・。
なおさらにつけ加えるなら、ここに出てくる、「豊璋」
という人物は、中臣鎌足ではなかったかという説も
ある(前述、関裕二氏)。
+++++++++++++++++++++++
ここまで書いて、あの「ニセ石器事件」を
思い出した。
日本人の私たちにしてみれば、思い出したくもない
不愉快な事件かもしれない。
が、なぜ、日本の考古学者たちが、
あのニセの石器に飛びついたか。
その心理的背景を知るのには、たいへん象徴的な事件
ということになる。
+++++++++++++++++++++++
●日本史にこだわる日本人
【ニセ石器事件】
●藤木Sの捏造事件
一方こんなこともある。藤木Sという、これまたえらいインチキな考古学者がいた。彼が発掘したという石器のほとんどが捏造(ねつぞう)によるものだというから、すごい。しかも、だ。そういうインチキをインチキと見抜けず、高校の教科書すら書き換えてしまったというから、これまたすごい。
たまたまその事件が発覚したとき、ユネスコの交換学生の同窓会がソウルであった(1999年終わり)。日本側のOBはともかくも、韓国側のOBは、ほとんどが今、大企業の社長や国会議員をしている。
その会に主席した友人のM氏は帰ってきてから私の家に寄り、こう話してくれた。「韓国人は皆、笑っていたよ。中国や韓国より古い歴史が日本にあるわけがないとね」と。当時の韓国のマスコミは、この捏造事件を大きく取りあげ、「そら見ろ」と言わんばかりに、日本をはげしく攻撃した。M氏は、「これで日本の信用は地に落ちた」と嘆いていた。
+++++++++++++++++++
その韓国で、私は、交換学生だった当時、
金素雲氏という人から、こんな話を、直接
聞いた。
当時の韓国を代表する、文学者兼歴史学者
であった。
+++++++++++++++++++
【人間の誇りとは……】
++++++++++++++++++++
2002年の1月に、つぎのような原稿を
私はこんな原稿を書いた。
今、改めて、それを読みなおしている。
++++++++++++++++++++
●私はユネスコの交換学生だった
1967年の夏。私たちはユネスコの交換学生として、九州の博多からプサンへと渡った。日韓の間にまだ国交のない時代で、私たちはプサン港へ着くと、ブラスバンドで迎えられた。が、歓迎されたのはその日、一日だけ。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされた。
私たちを直接指導してくれたのが、金素雲氏だったこともある。韓国を代表する文化学者である。私たちは氏の指導を受けるうち、日本の教科書はまちがってはいないが、しかしすべてを教えていないことを実感した。そしてそんなある日、氏はこんなことを話してくれた。
●奈良は韓国人が建てた?
「日本の奈良は、韓国人がつくった都だよ」と。「奈良」というのは、「韓国から見て奈落の果てにある国(ナラ)」という意味で、「奈良」になった、と。
昔は「奈落」と書いていたが、「奈良」という文字に変えた、とも。現在の今でも、韓国語で「ナラ」と言えば、「国」を意味する。
もちろんこれは一つの説に過ぎない。偶然の一致ということもある。しかし結論から先に言えば、日本史が日本史にこだわっている限り、日本史はいつまでたっても、世界の、あるいはアジアの異端児でしかない。日本も、もう少しワクを広げて、東洋史という観点から日本史を見る必要があるのではないのか。
ちなみにフランスでは、日本学科は、韓国学部の一部に組み込まれている。またオーストラリアでもアメリカでも東洋学部というときは、基本的には中国研究をさし、日本はその一部でしかない。
●藤木新一の捏造事件(先にあげた原稿と重複します)
一方こんなこともある。藤木S一という、これまたえらいインチキな考古学者がいた。彼が発掘したという石器のほとんどが捏造(ねつぞう)によるものだというから、すごい。しかも、だ。そういうインチキをインチキと見抜けず、高校の教科書すら書き換えてしまった人たちがいるというから、これまたすごい。
たまたまその事件が発覚したとき、ユネスコの交換学生の同窓会がソウルであった(1999年終わり)。日本側のOBはともかくも、韓国側のOBは、ほとんどが今、大企業の社長や国会議員をしている。その会に主席した友人のM氏は帰ってきてから私の家に寄り、こう話してくれた。
「韓国人は皆、笑っていたよ。中国や韓国より古い歴史が日本にあるわけがないとね」と。当時の韓国のマスコミは、この捏造事件を大きく取りあげ、「そら見ろ」と言わんばかりに、日本をはげしく攻撃した。M氏は、「これで日本の信用は地に落ちた」と嘆いていた。
●常識と非常識
私はしかしこの捏造事件を別の目で見ていた。一見、金素雲氏が話してくれた奈良の話と、この捏造事件はまったく異質のように見える。奈良の話は、日本人にしてみれば、信じたくもない風説に過ぎない。
いや、一度、私が金素雲氏に、「証拠があるか?」と問いただすと、「証拠は仁徳天皇の墓の中にあるでしょう」と笑ったのを思えている。しかし確たる証拠がない以上、やはり風説に過ぎない。これに対して、石器捏造事件のほうは、日本人にしてみれば、信じたい話だった。「石器」という証拠が出てきたのだから、これはたまらない。
事実、石器発掘を村おこしに利用して、祭りまで始めた自治体がある。が、よく考えてみると、これら二つの話は、その底流でつながっているのがわかる。金素雲氏の話してくれたことは、日本以外の、いわば世界の常識。一方、石器捏造は、日本でしか通用しない世界の非常識。世界の常識に背を向ける態度も、同じく世界の非常識にしがみつく態度も、基本的には同じとみてよい。
●お前は日本人のくせに!
……こう書くと、「お前は日本人のくせに、日本の歴史を否定するのか」と言う人がいる。事実、手紙でそう言ってきた人がいる。「あんたはそれでも日本人か!」と。
しかし私は何も日本の歴史を否定しているわけではない。また日本人かどうかと聞かれれば、私は100%、日本人だ。日本の政治や体制はいつも批判しているが、この日本という国土、文化、人々は、ふつうの人以上に愛している。
このことと、事実は事実として認めるということは別である。えてしてゆがんだ民族意識は、ゆがんだ歴史観に基づく。そしてゆがんだ民族主義は、国が進むべき方向そのものをゆがめる。これは危険な思想といってもよい。
仮に百歩譲って、「日本民族は誇り高い大和民族である」と主張したところで、少なくとも中国の人には通用しない。何といっても、中国には黄帝(司馬遷の「史記」)の時代から5500年の歴史がある。日本の文字はもちろんのこと、文化のほとんどは、その中国からきたものだ。
その中国の人たちが、「中国人こそ、アジアでは最高の民族である」と主張して、日本人を「下」に見るようなことがあったら、あなたはそれに納得するだろうか。民族主義というのは、もともとそのレベルのものでしかない。
●驚天動地の発見!
さて日本人も、そろそろ事実を受け入れるべき時期にきているのではないだろうか。これは私の意見というより、日本が今進みつつある大きな流れといってもよい。たとえば2002年のはじめ、日本の天皇ですらはじめて皇室と韓国の関係にふれ、「ゆかり」という言葉を使った。
これに対して韓国の金大統領は、「勇気ある発言」(報道)とたたえた(1月)。さらに同じ月、研究者をして「驚天動地」(毎日新聞大見出し)させるような発見が奈良県明日香村でなされた。
明日香村のキトラ古墳で、獣頭人身像(頭が獣で、体が人間)の絵が見つかったというのだ。詳しい話はさておき、毎日新聞はさらに大きな文字で、こう書いている。「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」と。
京都女子大学の猪熊兼勝教授は、「天文図、四神、十二支の時と方角という貴人に使われる『ローヤルマーク』をいくつも重ねている」とコメントを寄せている。これはどうやらふつうの発掘ではないようだ。それはそれとして、が、ここでもし、「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」の部分を、「百済王族イコール、弓削(ゆげ)皇子」と解釈したらどうなるか。弓削皇子は、天武天皇の皇子である。だから毎日新聞は、「研究者ら驚天動地」という大見出しを載せた。
●人間を原点に
話はぐんと現実的になるが、私は日本人のルーツが、中国や韓国にあったとしても、驚かない。まただからといって、それで日本人のルーツが否定されたとも思わない。先日愛知万博の会議に出たとき、東大の松井T典教授(宇宙学)は、こう言った。「宇宙から見たら、地球には人間など見えないのだ。あるのは人間を含めた生物圏だけだ」(2000年1月16日、東京)と。
これは宇宙というマクロの世界から見た人間観だが、ミクロの世界から見ても同じことが言える。今どき東京あたりで、「私は遠州人だ」とか「私は薩摩人だ」とか言っても、笑いものになるだけだ。
いわんや「私は松前藩の末裔だ」とか「旧前田藩の子孫だ」とか言っても、笑いものになるだけ。日本人は皆、同じ。アジア人は皆、同じ。人間は皆、同じ。ちがうと考えるほうがおかしい。私たちが生きる誇りをもつとしたら、日本人であるからとか、アジア人であるからということではなく、人間であることによる。もっと言えば、パスカルが「パンセ」の中で書いたように、「考える」ことによる。松井教授の言葉を借りるなら、「知的生命体」(同会議)であることによる。
●非常識と常識
いつか日本の歴史も東洋史の中に組み込まれ、日本や日本人のルーツが明るみに出る日がくるだろう。そのとき、現在という「過去」を振り返り、今、ここで私が書いていることが正しいと証明されるだろう。
そしてそのとき、多くの人はこう言うに違いない。「なぜ日本の考古学者は、藤木S一の捏造という非常識にしがみついたのか。なぜ日本の歴史学者は、東洋史という常識に背を向けたのか」と。繰り返すが一見異質とも思われるこれら二つの事実は、その底流で深く結びついている。(以上、2002年1月記)
++++++++++++++++++
今朝(05年12月2日)の朝刊によれば、またまた奈良県の明日香村のカヅマヤマで、石積み石室古墳が見つかったという。
中日新聞は、「百済王族?」と「クエスチョンマーク」をつけて報道している。「時期は7世紀後半、40~50代の男性埋蔵か」と。
「被葬者は渡来系か」と題して、前園・奈良芸術短大の教授は、つぎのように語っている。
「土を焼いて作った朝鮮半島の「せん」を使った石室を意識した構造で、被葬者は天武天皇の客人だった、百済王昌成(こうだらのこきししょうじょう)ら、渡来人の人物がふさわしいのでは。丘陵の斜面を削り墳丘を築造する立地条件は、高松塚古墳など、ほかの終末期古墳と一致するが、規模が大きく、「せき(=石へんに、専の文字)」を積んだ、特殊な石室をもつ点が特徴だ」と。
奈良県の明日香村の西南部には、7~8世紀の終末期古墳が密集している。大半が天皇家に関係があるとされる。
中でも、天武、持統天皇陵は藤原京の中軸、朱雀(すざく)大路の延長線上にあり、そこから南約3キロのエリアを天武天皇一族が、「聖なるライン」として築いた墓域とみる説が有力(同、新聞)。
この周辺に、あの高松古墳、キトラ古墳もある。(カヅマヤマと、キトラは、距離にして、1・5キロほど。)今回発見された古墳も、まさに百済や高句麗の様式をまねたもの……というより、百済や高句麗の様式そのもの。そこで前園教授は、「被葬者は渡来人か?」と。日本人の墓とするには、あまりにも無理があるからである。
日本の天皇は、「ゆかり」という言葉を使って、当時は、大問題になった。しかしこの事実ひとつだけを見ても、日本の天皇家と、朝鮮半島は、密接に結びついている。どうして日本の聖域の中に、百済からやってきたと思われる渡来人の墓が、こうまであるのか。また天皇陵の様式にしても、どうしてこうまで百済、高句麗の様式と酷似しているのか。
この先のことは私にはわからないが、再び、私は、あの金素雲氏が言った言葉を思い出す。
「証拠は仁徳天皇の墓の中にあるでしょう」と。仁徳天皇の墓の中には、何かしら、巨大な謎が隠されているらしい。
(はやし浩司 カヅマヤマ古墳、キトラ古墳 百済 高句麗 弓削王子 金素雲 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist キトラ古墳 豊璋 天智天皇 天武天皇 百済 新羅 天皇家のルーツ はやし浩司 壬申の乱)
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
●百済(くだら)王子
今朝の新聞によると、例のキトラ古墳の内部は、
もぬけのカラだったという(08年5月24日)。
わずかな人骨が、散乱していたにすぎなかったという。
新聞記事によれば、「盗掘によってそうなった」と。
しかし、どこのだれが、人骨など、盗掘するだろうか?
これについては、こんな説がある。
その前に、当時の歴史について、説明しておかねば
ならない。
みなさんも、「壬申(じんしん)の乱」という言葉を、
学校の社会科の授業で、聞いたことがあると思う。
当時としては、たいへんな大事件であったらしい。
日本書紀も、この事件について詳しく書いている。
で、その壬申の乱というのは、天智天皇(てんじてんのう)の子
である、大友皇子(おおとものみこ)と、天智天皇の弟である、大海人皇子
(おおあまのみこ)の間で起きた、皇位争奪戦のことをいう。
つまり天智天皇なきあと、天智天皇の子と、天智天皇の
弟が、皇位を争って、「乱」を起こした。
結果、天智天皇の弟の大海人皇子が、皇位を継承する。
名を「天武天皇」と改める。
そこでもう一度、キトラ古墳が発掘された当時(02年)に
私が書いた原稿を、ここに再掲載してみる。
この中で、とくに注意してほしいことは、キトラ
古墳の内部が、百済王室の模様で、飾られていた
ということ。
だからキトラ古墳が発掘された当時、新聞記事の
見出しは、こうなっていた。
「天智天皇の子の大友皇子か、それとも百済皇子の
墓か」と。
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●驚天動地の発見!
さて日本人も、そろそろ事実を受け入れるべき時期にきているのではないだろうか。これは私の意見というより、日本が今進みつつある大きな流れといってもよい。たとえば2002年のはじめ、日本の天皇ですらはじめて皇室と韓国の関係にふれ、「ゆかり」という言葉を使った。
これに対して韓国の金大統領は、「勇気ある発言」(報道)とたたえた(1月)。さらに同じ月、研究者をして「驚天動地」(毎日新聞大見出し)させるような発見が奈良県明日香村でなされた。
明日香村のキトラ古墳で、獣頭人身像(頭が獣で、体が人間)の絵が見つかったというのだ。
詳しい話はさておき、毎日新聞はさらに大きな文字で、こう書いている。「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」と。
京都女子大学の猪熊兼勝教授は、「天文図、四神、十二支の時と方角という貴人に使われる『ローヤルマーク』をいくつも重ねている」とコメントを寄せている。こ
これはどうやらふつうの発掘ではないようだ。それはそれとして、が、ここでもし、「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」の部分を、「百済王族イコール、弓削(ゆげ)皇子」と解釈したらどうなるか。
弓削皇子は、天武天皇の皇子である。だから毎日新聞は、「研究者ら驚天動地」という大見出しを載せた。
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先に書いた壬申の乱の前に、朝鮮半島で、「白村江
(はくそんこう)の戦い」というのが起きている。
西暦663年のことである。
この白村江の戦いというのは、わかりやすく言えば、
滅びつつあった百済が、百済再興をかけて、唐と
新羅(しらぎ)に、最後の一線を挑んだ戦いということになる。
その白村江の戦いに、天皇家は、百済にたいして、
援軍を送っている。
その中心的人物が、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)
と言われているが、確かではない。
それはそれとして日本の天皇家と、百済は、きわめて近い関係に
あった。
が、ご存知のように、白村江の戦いでは、百済が敗退。
同時に日本の天皇家は、手痛い打撃を受ける。
ここから先は、関裕二氏の書いた「古代史の秘密を握る
人たち」(PHP)を引用させてもらう。
関裕二氏の書いた本の中には、こうある。
「(日本書紀によれば)、中臣鎌足が出現する直前、
百済の皇子の豊璋(ほうしょう)が、人質として、
来日している」(同、P83)と。
以下、同書には、つぎのようにある。
「豊璋は、西暦631年に来日、660年に百済がいったん滅亡したのち、王朝復興の機運の高まりの中で、百済の名将、鬼室福信に呼び戻され、擁立される。しかし(豊璋は)、鬼室福信の手腕と名声をねたみ、これを殺し、首を塩漬けにして、自ら王朝の衰弱を招いてしまう。白村江の戦いで百済王朝は、永遠にこの世から姿を消し、豊璋は行方をくらましたままだった」と。
年代を整理してみよう。
631年・・・豊璋、来日
660年・・・百済滅亡
663年・・・白村江の戦い(百済、永遠に滅亡)
672年・・・壬申の乱が起きる。
673年・・・天武天皇(大海人皇子)即位
キトラ古墳は、こうした歴史を背景として、作られた。
ウィキペディア百科事典によれば、つぎのようにある。
「壁画などにみられる唐の文化的影響が、高松塚古墳ほどには色濃くないことから、遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳であると見られている」(ウィキペディア百科事典)と。
つまり西暦600年の末から、西暦700年のはじめである、と。
この時期は、白村江の戦い~壬申の乱と、ピタリと重なる。
さらにつけ加えるなら、壬申の乱は、天智天皇の子と、
天智天皇の弟との間の皇位争奪戦だったということに
なっているが、関裕二氏の見解は、少しちがう。
それまでの百済派だった大友皇子(天智天皇の子)と、
新羅派になりつつあった大海人皇子(天智天皇の弟、
のちの天武天皇)との間の戦いだった、と。
わかりやすく言えば、百済派の天智天皇の子と、
新羅派の天武天皇の戦いだった、と。
これを裏づける資料としては、つぎのような
ものがある。
「天武は遣唐使は一切行わず、代わりに新羅から
新羅使が倭国へ来朝し、また倭国から新羅への
遣新羅使も頻繁に派遣されており、
その数は天武治世だけで14回に上る」(ウィキペディア百科事典)と。
が、最大の謎は、なぜ天智天皇は、それほどまでに百済に
肩入れをしたのかということ。
天智天皇は、ウィキペディア百科事典によれば、3派に分けて、
計4万人という兵力を送っている。
事実、白村江の戦いで百済は滅亡し、そのあと天皇家も滅亡の
危機を迎える。
が、こうした事実と、キトラ古墳を重ね合わせてみると、
答は自然と出てくるのでは?
壬申の乱で政権を継承した大海人皇子(天武天皇)は、新羅への
忠誠をたてる必要性からも、キトラ古墳をつぶさなければ
ならなかった(?)。
その結果が、今朝の新聞ということになる。
なお、こうした歴史観というのは、日本の外では常識で、
「そうではない」「まちがっている」と、かたくなに、
「日本史」にこだわっているのは、日本の歴史家たち
だけと考えてよい。
日本史も、実は、東洋史の一部でしかない。
またそういう視点で、日本の歴史をながめて、はじめて、
日本人は、日本のルーツを正しく知ることができる。
これは余計なことかも知れないが・・・。
なおさらにつけ加えるなら、ここに出てくる、「豊璋」
という人物は、中臣鎌足ではなかったかという説も
ある(前述、関裕二氏)。
+++++++++++++++++++++++
ここまで書いて、あの「ニセ石器事件」を
思い出した。
日本人の私たちにしてみれば、思い出したくもない
不愉快な事件かもしれない。
が、なぜ、日本の考古学者たちが、
あのニセの石器に飛びついたか。
その心理的背景を知るのには、たいへん象徴的な事件
ということになる。
+++++++++++++++++++++++
●日本史にこだわる日本人
【ニセ石器事件】
●藤木Sの捏造事件
一方こんなこともある。藤木Sという、これまたえらいインチキな考古学者がいた。彼が発掘したという石器のほとんどが捏造(ねつぞう)によるものだというから、すごい。しかも、だ。そういうインチキをインチキと見抜けず、高校の教科書すら書き換えてしまったというから、これまたすごい。
たまたまその事件が発覚したとき、ユネスコの交換学生の同窓会がソウルであった(1999年終わり)。日本側のOBはともかくも、韓国側のOBは、ほとんどが今、大企業の社長や国会議員をしている。
その会に主席した友人のM氏は帰ってきてから私の家に寄り、こう話してくれた。「韓国人は皆、笑っていたよ。中国や韓国より古い歴史が日本にあるわけがないとね」と。当時の韓国のマスコミは、この捏造事件を大きく取りあげ、「そら見ろ」と言わんばかりに、日本をはげしく攻撃した。M氏は、「これで日本の信用は地に落ちた」と嘆いていた。
+++++++++++++++++++
その韓国で、私は、交換学生だった当時、
金素雲氏という人から、こんな話を、直接
聞いた。
当時の韓国を代表する、文学者兼歴史学者
であった。
+++++++++++++++++++
【人間の誇りとは……】
++++++++++++++++++++
2002年の1月に、つぎのような原稿を
私はこんな原稿を書いた。
今、改めて、それを読みなおしている。
++++++++++++++++++++
●私はユネスコの交換学生だった
1967年の夏。私たちはユネスコの交換学生として、九州の博多からプサンへと渡った。日韓の間にまだ国交のない時代で、私たちはプサン港へ着くと、ブラスバンドで迎えられた。が、歓迎されたのはその日、一日だけ。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされた。
私たちを直接指導してくれたのが、金素雲氏だったこともある。韓国を代表する文化学者である。私たちは氏の指導を受けるうち、日本の教科書はまちがってはいないが、しかしすべてを教えていないことを実感した。そしてそんなある日、氏はこんなことを話してくれた。
●奈良は韓国人が建てた?
「日本の奈良は、韓国人がつくった都だよ」と。「奈良」というのは、「韓国から見て奈落の果てにある国(ナラ)」という意味で、「奈良」になった、と。
昔は「奈落」と書いていたが、「奈良」という文字に変えた、とも。現在の今でも、韓国語で「ナラ」と言えば、「国」を意味する。
もちろんこれは一つの説に過ぎない。偶然の一致ということもある。しかし結論から先に言えば、日本史が日本史にこだわっている限り、日本史はいつまでたっても、世界の、あるいはアジアの異端児でしかない。日本も、もう少しワクを広げて、東洋史という観点から日本史を見る必要があるのではないのか。
ちなみにフランスでは、日本学科は、韓国学部の一部に組み込まれている。またオーストラリアでもアメリカでも東洋学部というときは、基本的には中国研究をさし、日本はその一部でしかない。
●藤木新一の捏造事件(先にあげた原稿と重複します)
一方こんなこともある。藤木S一という、これまたえらいインチキな考古学者がいた。彼が発掘したという石器のほとんどが捏造(ねつぞう)によるものだというから、すごい。しかも、だ。そういうインチキをインチキと見抜けず、高校の教科書すら書き換えてしまった人たちがいるというから、これまたすごい。
たまたまその事件が発覚したとき、ユネスコの交換学生の同窓会がソウルであった(1999年終わり)。日本側のOBはともかくも、韓国側のOBは、ほとんどが今、大企業の社長や国会議員をしている。その会に主席した友人のM氏は帰ってきてから私の家に寄り、こう話してくれた。
「韓国人は皆、笑っていたよ。中国や韓国より古い歴史が日本にあるわけがないとね」と。当時の韓国のマスコミは、この捏造事件を大きく取りあげ、「そら見ろ」と言わんばかりに、日本をはげしく攻撃した。M氏は、「これで日本の信用は地に落ちた」と嘆いていた。
●常識と非常識
私はしかしこの捏造事件を別の目で見ていた。一見、金素雲氏が話してくれた奈良の話と、この捏造事件はまったく異質のように見える。奈良の話は、日本人にしてみれば、信じたくもない風説に過ぎない。
いや、一度、私が金素雲氏に、「証拠があるか?」と問いただすと、「証拠は仁徳天皇の墓の中にあるでしょう」と笑ったのを思えている。しかし確たる証拠がない以上、やはり風説に過ぎない。これに対して、石器捏造事件のほうは、日本人にしてみれば、信じたい話だった。「石器」という証拠が出てきたのだから、これはたまらない。
事実、石器発掘を村おこしに利用して、祭りまで始めた自治体がある。が、よく考えてみると、これら二つの話は、その底流でつながっているのがわかる。金素雲氏の話してくれたことは、日本以外の、いわば世界の常識。一方、石器捏造は、日本でしか通用しない世界の非常識。世界の常識に背を向ける態度も、同じく世界の非常識にしがみつく態度も、基本的には同じとみてよい。
●お前は日本人のくせに!
……こう書くと、「お前は日本人のくせに、日本の歴史を否定するのか」と言う人がいる。事実、手紙でそう言ってきた人がいる。「あんたはそれでも日本人か!」と。
しかし私は何も日本の歴史を否定しているわけではない。また日本人かどうかと聞かれれば、私は100%、日本人だ。日本の政治や体制はいつも批判しているが、この日本という国土、文化、人々は、ふつうの人以上に愛している。
このことと、事実は事実として認めるということは別である。えてしてゆがんだ民族意識は、ゆがんだ歴史観に基づく。そしてゆがんだ民族主義は、国が進むべき方向そのものをゆがめる。これは危険な思想といってもよい。
仮に百歩譲って、「日本民族は誇り高い大和民族である」と主張したところで、少なくとも中国の人には通用しない。何といっても、中国には黄帝(司馬遷の「史記」)の時代から5500年の歴史がある。日本の文字はもちろんのこと、文化のほとんどは、その中国からきたものだ。
その中国の人たちが、「中国人こそ、アジアでは最高の民族である」と主張して、日本人を「下」に見るようなことがあったら、あなたはそれに納得するだろうか。民族主義というのは、もともとそのレベルのものでしかない。
●驚天動地の発見!
さて日本人も、そろそろ事実を受け入れるべき時期にきているのではないだろうか。これは私の意見というより、日本が今進みつつある大きな流れといってもよい。たとえば2002年のはじめ、日本の天皇ですらはじめて皇室と韓国の関係にふれ、「ゆかり」という言葉を使った。
これに対して韓国の金大統領は、「勇気ある発言」(報道)とたたえた(1月)。さらに同じ月、研究者をして「驚天動地」(毎日新聞大見出し)させるような発見が奈良県明日香村でなされた。
明日香村のキトラ古墳で、獣頭人身像(頭が獣で、体が人間)の絵が見つかったというのだ。詳しい話はさておき、毎日新聞はさらに大きな文字で、こう書いている。「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」と。
京都女子大学の猪熊兼勝教授は、「天文図、四神、十二支の時と方角という貴人に使われる『ローヤルマーク』をいくつも重ねている」とコメントを寄せている。これはどうやらふつうの発掘ではないようだ。それはそれとして、が、ここでもし、「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」の部分を、「百済王族イコール、弓削(ゆげ)皇子」と解釈したらどうなるか。弓削皇子は、天武天皇の皇子である。だから毎日新聞は、「研究者ら驚天動地」という大見出しを載せた。
●人間を原点に
話はぐんと現実的になるが、私は日本人のルーツが、中国や韓国にあったとしても、驚かない。まただからといって、それで日本人のルーツが否定されたとも思わない。先日愛知万博の会議に出たとき、東大の松井T典教授(宇宙学)は、こう言った。「宇宙から見たら、地球には人間など見えないのだ。あるのは人間を含めた生物圏だけだ」(2000年1月16日、東京)と。
これは宇宙というマクロの世界から見た人間観だが、ミクロの世界から見ても同じことが言える。今どき東京あたりで、「私は遠州人だ」とか「私は薩摩人だ」とか言っても、笑いものになるだけだ。
いわんや「私は松前藩の末裔だ」とか「旧前田藩の子孫だ」とか言っても、笑いものになるだけ。日本人は皆、同じ。アジア人は皆、同じ。人間は皆、同じ。ちがうと考えるほうがおかしい。私たちが生きる誇りをもつとしたら、日本人であるからとか、アジア人であるからということではなく、人間であることによる。もっと言えば、パスカルが「パンセ」の中で書いたように、「考える」ことによる。松井教授の言葉を借りるなら、「知的生命体」(同会議)であることによる。
●非常識と常識
いつか日本の歴史も東洋史の中に組み込まれ、日本や日本人のルーツが明るみに出る日がくるだろう。そのとき、現在という「過去」を振り返り、今、ここで私が書いていることが正しいと証明されるだろう。
そしてそのとき、多くの人はこう言うに違いない。「なぜ日本の考古学者は、藤木S一の捏造という非常識にしがみついたのか。なぜ日本の歴史学者は、東洋史という常識に背を向けたのか」と。繰り返すが一見異質とも思われるこれら二つの事実は、その底流で深く結びついている。(以上、2002年1月記)
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今朝(05年12月2日)の朝刊によれば、またまた奈良県の明日香村のカヅマヤマで、石積み石室古墳が見つかったという。
中日新聞は、「百済王族?」と「クエスチョンマーク」をつけて報道している。「時期は7世紀後半、40~50代の男性埋蔵か」と。
「被葬者は渡来系か」と題して、前園・奈良芸術短大の教授は、つぎのように語っている。
「土を焼いて作った朝鮮半島の「せん」を使った石室を意識した構造で、被葬者は天武天皇の客人だった、百済王昌成(こうだらのこきししょうじょう)ら、渡来人の人物がふさわしいのでは。丘陵の斜面を削り墳丘を築造する立地条件は、高松塚古墳など、ほかの終末期古墳と一致するが、規模が大きく、「せき(=石へんに、専の文字)」を積んだ、特殊な石室をもつ点が特徴だ」と。
奈良県の明日香村の西南部には、7~8世紀の終末期古墳が密集している。大半が天皇家に関係があるとされる。
中でも、天武、持統天皇陵は藤原京の中軸、朱雀(すざく)大路の延長線上にあり、そこから南約3キロのエリアを天武天皇一族が、「聖なるライン」として築いた墓域とみる説が有力(同、新聞)。
この周辺に、あの高松古墳、キトラ古墳もある。(カヅマヤマと、キトラは、距離にして、1・5キロほど。)今回発見された古墳も、まさに百済や高句麗の様式をまねたもの……というより、百済や高句麗の様式そのもの。そこで前園教授は、「被葬者は渡来人か?」と。日本人の墓とするには、あまりにも無理があるからである。
日本の天皇は、「ゆかり」という言葉を使って、当時は、大問題になった。しかしこの事実ひとつだけを見ても、日本の天皇家と、朝鮮半島は、密接に結びついている。どうして日本の聖域の中に、百済からやってきたと思われる渡来人の墓が、こうまであるのか。また天皇陵の様式にしても、どうしてこうまで百済、高句麗の様式と酷似しているのか。
この先のことは私にはわからないが、再び、私は、あの金素雲氏が言った言葉を思い出す。
「証拠は仁徳天皇の墓の中にあるでしょう」と。仁徳天皇の墓の中には、何かしら、巨大な謎が隠されているらしい。
(はやし浩司 カヅマヤマ古墳、キトラ古墳 百済 高句麗 弓削王子 金素雲 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist キトラ古墳 豊璋 天智天皇 天武天皇 百済 新羅 天皇家のルーツ はやし浩司 壬申の乱)
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司