●団塊ブルース(Young Old men’s Blues)
We, those who were born just after the War are now retiring from our jobs. We have been the people who worked for the companies or organizations, in most cases sacrificing ourselves. Before the War young people were educated to be obedient soldiers but after the War we were educated to be also obedient workers who work for the companies and organizations.
Meanwhile we could experience this dynamic change of our country, from the bottom of poverty to one of the countries of highest standard. But at the same time we have many thing that we have lost. Some people say that “What was my life?”, when they are fired and retire from the companies.
This is the story about this;
++++++++++++++++
戦前の「国のため」が、戦後は、「会社のため」となった。
それもそのはず。敗戦で日本は大きく変わったが、
ときの文部省だけは、変わらなかった。敗戦と
同時に、クビになった官僚は、ひとりもいない。
制度も、そっくりそのまま残された。
私たちは、戦前とそれほどちがわない教育を、そのまま
受けた。もっと言えば、明治以来の、富国強兵をめざした、
あの教育をそのまま受けた。
結果として、私たちは、当時の私たちになった。
私たち団塊の世代、それにつづく戦後派の人たちは、
何らためらうことなく、企業戦士となっていった。
それは恐ろしいほどの忠誠心であった。
たとえば私が勤めたことがある、M物産という
会社では、当時は、6か月以内の海外出張は、
「短期出張」と呼ばれ、単身赴任が原則だった。
今のようにリッチな時代ではなかった。一度海外に
赴任すれば、最低でも、6か月は、日本に帰って
来られなかった。
が、その単身赴任には、単身赴任のハシゴというの
があった。任地先から、さらに別のところに単身赴任
するということも珍しくなった。中には、こうした
単身赴任のハシゴで、2年近くも、日本を離れて
いた人もいた。私の直接の上司だった、K氏もそうである。
その団塊の世代、それにつづく戦後派の人たちが、
今、つぎつぎと職場を離れている。民間会社だと、
50歳を過ぎるころから、肩たたきが始まる。子会社へ
移動できる人は、まだラッキーなほう。たいていは、
そのまま会社の外へ、放り出された。
で、そのとき、ほとんどの人は、こう気がつく。
「今までの私の人生は、何だったのか?」と。
会社人間の悲しさ。会社を離れれば、存在価値
そのものがない。その世界ではエキスパート
だったかもしれないが、それは社会全体からみると、
小さな、どこまでも小さな特殊分野でしかない。
つぶしがきくとか、応用がきくということは、
まず、ない。
それまで頭をさげていた人まで、顔をそむけるように
なる。それもそのはず。まわりの人たちは、その人
に、頭をさげていたのではない。その人が
もつ肩書き、あるいはその背後にある会社という
組織に頭をさげていた。
退職と同時に、それに気がつく。と、同時に、深い後悔と、
反省の念に包まれる。
「これからオレは、何をすればいいのか?」と。
+++++++++++++++++++++++
●1クラス、55人
私たちの時代には、1クラス55人が、当たり前だった(中学時代)。「すし詰め教育」とよく呼ばれた。が、すしでも、あそこまでは詰めない。しかしそうした教育に疑問をいだく子どもは、いなかった。疑問をいだく親も、いなかった。
で、あの時代を振り返ってみて、そうした過密教育の弊害は何だったのかと問われると、それがよくわからない。私は私であり、私たちは、私たちであった。しかしたしかに弊害はあった。あったはずである。その結果が、今である。
私たちは社会人になると、何も疑わず、サラリーマンの道を選んだ。今でこそ、「ベンチャー企業」などという言葉があるが、当時、ベンチャー企業のようなものを考える学生は、まずいなかった。サラリーマンになること。それが第一。しかも都会の大企業ほど、「出世組」と考えられていた。
●作られた意識
つまり弊害の第一は、ここにある。こうした意識こそが、あの時代の、あの流れの中でつくられた意識でしかなかった。しかしそれは「今」という、あとになってわかったこと。当時の私たちの中で、それに気づいていた人は、いったい、どれだけいただろうか。
そして結果として、私たちは、会社に貢献し、日本という国の繁栄に貢献した。「貢献した」という意識は、ほとんどないかもしれないが、今に見るこの繁栄は、その結果であることには、まちがいない。
もちろん悪い面ばかりではない。日本のみならず、世界の歴史の中でも、生涯にわたって戦争を経験しなかった世代というのは、そうはない。日本だけを見ても、明治以来、日本は、常に他国との戦争を繰り返してきた。
それに戦後直後はともかくも、私たちの世代ほど、ダイナミックな変化を経験した世代もない。日本は、どん底の貧乏国にから、世界でもトップクラスの先進国へと躍り出た。そんな日本を直接、経験することができた。
●一(社)懸命
が、同時に、失ったものも多い。「私の人生」というときの、「私」を失った。たいした冒険もせず、たいした夢も果たせず、たいした結果も出せず、家と会社を往復した。「仕事のため」と、家族を犠牲にした人も多い。犠牲にしているという意識もないまま、犠牲にした。家庭を預かる妻にしても、自分が犠牲になっているなどとは思わなかった。
M物産に話にもどるが、夫が単身赴任で外地へ赴くとき、家族は、みな、あの伊丹空港(大阪)で夫を見送った。私も、数度、そういう現場に立たされたことがある。そのときのこと。「がんばってくるからなあ。あとのことは頼むぞ」と言って夫は、飛行機に乗り込んだ。「がんばってきてね。うちのことは、心配しないでね」と言って、妻はそれに手を振った。中に、「お国のため」という言葉を使った人もいたように思う。「会社のため」という言葉だったかもしれない。
その姿は、まさに、戦前のあの様子を想像させるものだった。戦地におもむく夫。それを送る妻。「国」と「会社」のちがいこそあったが、中身は、そのまま。つまり私たちの意識は、何も変わらなかった。
それがあの時代の、「弊害」だったということになる。
が、これについても、それに気づいた人は、少ない。私たちは、それがあるべき道と信じて、その流れに従った。
しかし、だ。改めて、問う。私たちの人生は、何だったのか、と。
●自由に生きる
実際、こんな人がいる。私の友人のT氏・・・「T氏」と書いたのでは、ウソと思われる。だから、実名を書く。高橋Y氏である。その高橋Y氏の義兄(妻の兄)は、50歳前後で退職。そのあと単身、マレーシアに渡り、そこでヨットを購入。そのヨットで世界を数周した。
以前、その男性について、「今ごろは、フランス人の女性と、インド洋を航海中」と書いた。高橋Y氏から聞いた話を、そのまま書いた。
で、今は、タイに向かっているという。タイには、以前買った土地があるそうだ。そこにそのまま永住するつもりらしい。この話は、つい先日の、07年12月9日に聞いた話である。興味がある人がいたら、その男性を紹介してもよい。
つまり世の中には、そういう人生を、あたかも自由に空を舞う鳥のように送っている人がいる。そういう人生と比べると、「私の人生は、何だったのか」となる。「まじめ」と言えば、聞こえはよいが、中身は、ただの「歯車」。
そういう「歯車」に仕立てられながら、仕立てられたという意識すら、ない。ないから、その弊害に気づくこともない。カルトにハマっている信者が、自分をおかしいと思わないのと同じ理由で、そういう自分がおかしいとは、思わない。
●「これからは自分のしたいことをするよ」
先日も、学生時代からの友人のZ君は、こう言った。つい先月、定年で、会社を退職した。いわく、「これからは自分のしたいことをするよ」と。
その言葉の中に、私たち団塊の世代、そしてそれにつづく戦後生まれの人たちの悲しみ、わびしさ、むなしさが、集約されている。心理学的に言えば、(自己概念)と(現実自己)を一致させることもできず、悶々とした気持ちで、一生を終えた。自己の同一性の確立さえままならなかった。
その不完全燃焼感には、相当なものがある。割と自由に生きてきた私ですら、その不完全燃焼感とは、無縁ではない。「何かができたはず」「何かやりのこした」「何かをしたかった」と、ふと我にかえったとき、そう思う。
が、「これでいいのか?」と叫んだところで、この話は、おしまい。いまさら、どうしようもない。いくら後悔しても、また反省しても、人生は、もどってこない。ただこれからは、ちがう。これからは、そうであってはいけない。残りの人生がそこにあるなら、それに自分をかける。燃やせるものがあれば、それを燃やす。
・・・しかし、実のところ、私たちは、そのキバさえ抜かれてしまっている。あのすし詰め教育の中で、もの言わぬ従順な民に、育てられてしまっている。いまさらキバをむけと言われても、そのむきかたすら、わからない。結局は、死ぬまで、まじめ(?)に生きていくしかないのか?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 団塊世代ブルース ブルース)
We, those who were born just after the War are now retiring from our jobs. We have been the people who worked for the companies or organizations, in most cases sacrificing ourselves. Before the War young people were educated to be obedient soldiers but after the War we were educated to be also obedient workers who work for the companies and organizations.
Meanwhile we could experience this dynamic change of our country, from the bottom of poverty to one of the countries of highest standard. But at the same time we have many thing that we have lost. Some people say that “What was my life?”, when they are fired and retire from the companies.
This is the story about this;
++++++++++++++++
戦前の「国のため」が、戦後は、「会社のため」となった。
それもそのはず。敗戦で日本は大きく変わったが、
ときの文部省だけは、変わらなかった。敗戦と
同時に、クビになった官僚は、ひとりもいない。
制度も、そっくりそのまま残された。
私たちは、戦前とそれほどちがわない教育を、そのまま
受けた。もっと言えば、明治以来の、富国強兵をめざした、
あの教育をそのまま受けた。
結果として、私たちは、当時の私たちになった。
私たち団塊の世代、それにつづく戦後派の人たちは、
何らためらうことなく、企業戦士となっていった。
それは恐ろしいほどの忠誠心であった。
たとえば私が勤めたことがある、M物産という
会社では、当時は、6か月以内の海外出張は、
「短期出張」と呼ばれ、単身赴任が原則だった。
今のようにリッチな時代ではなかった。一度海外に
赴任すれば、最低でも、6か月は、日本に帰って
来られなかった。
が、その単身赴任には、単身赴任のハシゴというの
があった。任地先から、さらに別のところに単身赴任
するということも珍しくなった。中には、こうした
単身赴任のハシゴで、2年近くも、日本を離れて
いた人もいた。私の直接の上司だった、K氏もそうである。
その団塊の世代、それにつづく戦後派の人たちが、
今、つぎつぎと職場を離れている。民間会社だと、
50歳を過ぎるころから、肩たたきが始まる。子会社へ
移動できる人は、まだラッキーなほう。たいていは、
そのまま会社の外へ、放り出された。
で、そのとき、ほとんどの人は、こう気がつく。
「今までの私の人生は、何だったのか?」と。
会社人間の悲しさ。会社を離れれば、存在価値
そのものがない。その世界ではエキスパート
だったかもしれないが、それは社会全体からみると、
小さな、どこまでも小さな特殊分野でしかない。
つぶしがきくとか、応用がきくということは、
まず、ない。
それまで頭をさげていた人まで、顔をそむけるように
なる。それもそのはず。まわりの人たちは、その人
に、頭をさげていたのではない。その人が
もつ肩書き、あるいはその背後にある会社という
組織に頭をさげていた。
退職と同時に、それに気がつく。と、同時に、深い後悔と、
反省の念に包まれる。
「これからオレは、何をすればいいのか?」と。
+++++++++++++++++++++++
●1クラス、55人
私たちの時代には、1クラス55人が、当たり前だった(中学時代)。「すし詰め教育」とよく呼ばれた。が、すしでも、あそこまでは詰めない。しかしそうした教育に疑問をいだく子どもは、いなかった。疑問をいだく親も、いなかった。
で、あの時代を振り返ってみて、そうした過密教育の弊害は何だったのかと問われると、それがよくわからない。私は私であり、私たちは、私たちであった。しかしたしかに弊害はあった。あったはずである。その結果が、今である。
私たちは社会人になると、何も疑わず、サラリーマンの道を選んだ。今でこそ、「ベンチャー企業」などという言葉があるが、当時、ベンチャー企業のようなものを考える学生は、まずいなかった。サラリーマンになること。それが第一。しかも都会の大企業ほど、「出世組」と考えられていた。
●作られた意識
つまり弊害の第一は、ここにある。こうした意識こそが、あの時代の、あの流れの中でつくられた意識でしかなかった。しかしそれは「今」という、あとになってわかったこと。当時の私たちの中で、それに気づいていた人は、いったい、どれだけいただろうか。
そして結果として、私たちは、会社に貢献し、日本という国の繁栄に貢献した。「貢献した」という意識は、ほとんどないかもしれないが、今に見るこの繁栄は、その結果であることには、まちがいない。
もちろん悪い面ばかりではない。日本のみならず、世界の歴史の中でも、生涯にわたって戦争を経験しなかった世代というのは、そうはない。日本だけを見ても、明治以来、日本は、常に他国との戦争を繰り返してきた。
それに戦後直後はともかくも、私たちの世代ほど、ダイナミックな変化を経験した世代もない。日本は、どん底の貧乏国にから、世界でもトップクラスの先進国へと躍り出た。そんな日本を直接、経験することができた。
●一(社)懸命
が、同時に、失ったものも多い。「私の人生」というときの、「私」を失った。たいした冒険もせず、たいした夢も果たせず、たいした結果も出せず、家と会社を往復した。「仕事のため」と、家族を犠牲にした人も多い。犠牲にしているという意識もないまま、犠牲にした。家庭を預かる妻にしても、自分が犠牲になっているなどとは思わなかった。
M物産に話にもどるが、夫が単身赴任で外地へ赴くとき、家族は、みな、あの伊丹空港(大阪)で夫を見送った。私も、数度、そういう現場に立たされたことがある。そのときのこと。「がんばってくるからなあ。あとのことは頼むぞ」と言って夫は、飛行機に乗り込んだ。「がんばってきてね。うちのことは、心配しないでね」と言って、妻はそれに手を振った。中に、「お国のため」という言葉を使った人もいたように思う。「会社のため」という言葉だったかもしれない。
その姿は、まさに、戦前のあの様子を想像させるものだった。戦地におもむく夫。それを送る妻。「国」と「会社」のちがいこそあったが、中身は、そのまま。つまり私たちの意識は、何も変わらなかった。
それがあの時代の、「弊害」だったということになる。
が、これについても、それに気づいた人は、少ない。私たちは、それがあるべき道と信じて、その流れに従った。
しかし、だ。改めて、問う。私たちの人生は、何だったのか、と。
●自由に生きる
実際、こんな人がいる。私の友人のT氏・・・「T氏」と書いたのでは、ウソと思われる。だから、実名を書く。高橋Y氏である。その高橋Y氏の義兄(妻の兄)は、50歳前後で退職。そのあと単身、マレーシアに渡り、そこでヨットを購入。そのヨットで世界を数周した。
以前、その男性について、「今ごろは、フランス人の女性と、インド洋を航海中」と書いた。高橋Y氏から聞いた話を、そのまま書いた。
で、今は、タイに向かっているという。タイには、以前買った土地があるそうだ。そこにそのまま永住するつもりらしい。この話は、つい先日の、07年12月9日に聞いた話である。興味がある人がいたら、その男性を紹介してもよい。
つまり世の中には、そういう人生を、あたかも自由に空を舞う鳥のように送っている人がいる。そういう人生と比べると、「私の人生は、何だったのか」となる。「まじめ」と言えば、聞こえはよいが、中身は、ただの「歯車」。
そういう「歯車」に仕立てられながら、仕立てられたという意識すら、ない。ないから、その弊害に気づくこともない。カルトにハマっている信者が、自分をおかしいと思わないのと同じ理由で、そういう自分がおかしいとは、思わない。
●「これからは自分のしたいことをするよ」
先日も、学生時代からの友人のZ君は、こう言った。つい先月、定年で、会社を退職した。いわく、「これからは自分のしたいことをするよ」と。
その言葉の中に、私たち団塊の世代、そしてそれにつづく戦後生まれの人たちの悲しみ、わびしさ、むなしさが、集約されている。心理学的に言えば、(自己概念)と(現実自己)を一致させることもできず、悶々とした気持ちで、一生を終えた。自己の同一性の確立さえままならなかった。
その不完全燃焼感には、相当なものがある。割と自由に生きてきた私ですら、その不完全燃焼感とは、無縁ではない。「何かができたはず」「何かやりのこした」「何かをしたかった」と、ふと我にかえったとき、そう思う。
が、「これでいいのか?」と叫んだところで、この話は、おしまい。いまさら、どうしようもない。いくら後悔しても、また反省しても、人生は、もどってこない。ただこれからは、ちがう。これからは、そうであってはいけない。残りの人生がそこにあるなら、それに自分をかける。燃やせるものがあれば、それを燃やす。
・・・しかし、実のところ、私たちは、そのキバさえ抜かれてしまっている。あのすし詰め教育の中で、もの言わぬ従順な民に、育てられてしまっている。いまさらキバをむけと言われても、そのむきかたすら、わからない。結局は、死ぬまで、まじめ(?)に生きていくしかないのか?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 団塊世代ブルース ブルース)