最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●子供の人格論(2)

2009-07-30 06:44:06 | Weblog


 それから10年近くになるが、私のこの考え方は変わっていない。子どもというのは、
皮肉なことに使えば使うほど、その「いい子」になる。生活力が身につく。忍耐力も生ま
れる。が、なぜか、日本の親たちは、子どもを使うことにためらう。はからずもある母親
はこう言った。「子どもを使うといっても、どこかかわいそうで、できません」と。子ども
を使うことが、かわいそうというのだが、どこからそういう発想が生まれるかといえば、
それは言うまでもなく、「子どもを人間として認めていない」ことによる。私の考え方は、
どこか矛盾しているかのように見えるかもしれないが、その前に、こんなことを話してお
きたい。

●友として、子どもの横を歩く

 昔、オーストラリアの友人がこう言った。親には3つの役目がある、と。ひとつはガイ
ドとして、子どもの前を歩く。もうひとつは、保護者として、子どものうしろを歩く。そ
して3つ目は、友として、子どもの横を歩く、と。

 日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし友として、子どもの横を歩くの
が苦手。苦手というより、そういう発想そのものがない。もともと日本人は、上下意識の
強い国民で、たった1年でも先輩は先輩、後輩は後輩と、きびしい序列をつける。男が上、
女が下、夫が上、妻が下。そして親が上で、子が下と。親が子どもと友になる、つまり対
等になるという発想そのものがない。ないばかりか、その上下意識の中で、独特の親子関
係をつくりあげた。私がしばしば取りあげる、「親意識」も、そこから生まれた。

 ただ誤解がないようにしてほしいのは、親意識がすべて悪いわけではない。この親意識
には、善玉と悪玉がある。善玉というのは、いわゆる親としての責任感、義務感をいう。
これは子どもをもうけた以上、当然のことだ。しかし子どもに向かって、「私は親だ」と親
風を吹かすのはよくない。その親風を吹かすのが、悪玉親意識ということになる。「親に向
かって何だ!」と怒鳴り散らす親というのは、その悪玉親意識の強い人ということになる。
先日もある雑誌に、「父親というのは威厳こそ大切。家の中心にデーンと座っていてこそ父
親」と書いていた教育家がいた。そういう発想をする人にしてみれば、「友だち親子」など、
とんでもない考え方ということになるに違いない。

 が、やはり親子といえども、つきつめれば、人間関係で決まる。「親だから」「子どもだ
から」という「ダカラ論」、「親は~~のはず」「子どもは~~のはず」という「ハズ論」、
あるいは「親は~~すべき」「子は~~すべき」という、「ベキ論」で、その親子関係を固
定化してはいけない。固定化すればするほど、本質を見誤るだけではなく、たいていのば
あい、その人間関係をも破壊する。あるいは一方的に、下の立場にいるものを、苦しめる
ことになる。

●子どもを大切にすること

 話を戻すが、「子どもを人間として認める」ということと、「子どもを使う」ということ
は、一見矛盾しているように見える。また「子どもを一人の人間として大切にする」とい
うことと、「子どもを使う」ということも、一見矛盾しているように見える。とくにこの日
本では、子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせ、子どもに楽をさせ
ることだと思っている人が多い。そうであるなら、なおさら、矛盾しているように見える。
しかし「子育ての目標は、よき家庭人として、子どもを自立させること」という視点に立
つなら、この考えはひっくりかえる。こういうことだ。

 いつかあなたの子どもがあなたから離れて、あなたから巣立つときがくる。そのときあ
なたは、子どもに向かってこう叫ぶ。

 「お前の人生はお前のもの。この広い世界を、思いっきり羽ばたいてみなさい。たった
一度しかない人生だから、思う存分生きてみなさい」と。

つまりそういう形で、子どもの人生を子どもに、一度は手渡してこそ、親は親の務めを
果たしたことになる。安易な孝行論や、家意識で子どもをしばってはいけない。もちろ
んそのあと、子どもが自分で考え、親のめんどうをみるとか、家の心配をするというの
であれば、それは子どもの問題。子どもの勝手。しかし親は、それを子どもに求めては
いけない。期待したり、強要してはいけない。あくまでも子どもの人生は、子どものも
の。

 この考え方がまちがっているというのなら、今度はあなた自身のこととして考えてみれ
ばよい。もしあなたの子どもが、あなたのためや、あなたの家のために犠牲になっている
姿を見たら、あなたは親として、それに耐えられるだろうか。もしそれが平気だとするな
ら、あなたはよほど鈍感な親か、あるいはあなた自身、自立できない依存心の強い親とい
うことになる。同じように、あなたが親や家のために犠牲になる姿など、美徳でも何でも
ない。仮にそれが美徳に見えるとしたら、あなたがそう思い込んでいるだけ。あるいは日
本という、極東の島国の中で、そう思い込まされているだけ。

 子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間として自立させること。自立さ
せるということは、子どもを一人の人間として認めること。そしてそういう視点に立つな
ら、子どもに社会性を身につけさえ、ひとりで生きていく力を身につけさせるということ
だということがわかってくる。「子どもを使う」というのは、そういう発想にもとづく。子
どもを奴隷のように使えということでは、決して、ない。

●冒頭の話

 さて冒頭の話。実の娘に向かって、ストーカー行為を繰り返す母親は、まさに自立でき
ない親ということになる。いや、私はこの話を最初に聞いたときには、その母親の精神状
態を疑った。ノイローゼ? うつ病? 被害妄想? アルツハイマー型痴呆症? 何であ
れ、ふつうではない。嫉妬に狂った女性が、ときどき似たような行為を繰り返すという話
は聞いたことがある。そういう意味では、「娘を取られた」「夢をつぶされた」という点で
は、母親の心の奥で、嫉妬がからんでいるかもしれない。が、問題は、母親というより、
娘のほうだ。

 純粋にストーカー行為であれば、今ではそれは犯罪行為として類型化されている。しか
しそれはあくまでも、男女間でのこと。このケースでは、実の母親と、実の娘の関係であ
る。それだけに実の娘が感ずる重圧感は相当なものだ。遠く離れて住んだところで、解決
する問題ではない。また実の母親であるだけに、切って捨てるにしても、それ相当の覚悟
が必要である。あるいは娘であるがため、そういう発想そのものが、浮かんでこない。そ
の娘にしてみれば、母親からの電話におびえ、ただ一方的に母親にわびるしかない。

実際、親に、「産んでやったではないか」「育ててやったではないか」と言われると、子
どもには返す言葉がない。実のところ、私も子どものころ母親に、よくそう言われた。
しかしそれを言われた子どもはどうするだろうか。反論できるだろうか。……もちろん
反論できない。そういう子どもが反論できない言葉を、親が言うようでは、おしまい。
あるいは言ってはならない。仮にそう思ったとしても、この言葉だけは、最後の最後ま
で言ってはならない。言ったと同時に、それは親としての敗北を認めたことになる。

が、その娘の母親は、それ以上の言葉を、その娘に浴びせかけて、娘を苦しめている。
もっと言えば、その母親は「親である」というワクに甘え、したい放題のことをしてい
る。一方その娘は、そのワクの中に閉じ込められて、苦しんでいる。

 私もこれほどまでにひどい事件は、聞いたことがない。ないが、親子の関係もゆがむと、
ここまでゆがむ。それだけにこの事件には考えさせられた。と、同時に、輪郭(りんかく)
がはっきりしていて、考えやすかった。だから考えた。考えて、この文をまとめた。
(02-9-14)※

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(2)【育児の一貫性】

子育ての一貫性

 以前、「信頼性」についての原稿を書いた。この中で、親子の信頼関係を築くためには、
一貫性が大切と書いた。その「一貫性」について、さらにここでもう一歩、踏みこんで考
えてみたい。

 その前に、念のため、そのとき書いた原稿を、再度掲載する。

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信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外で
はない。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本
である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、
反対にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような
調子で、同じようなパターンで、答えてあげること。こうしたあなたの一貫性を見ながら、
子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことができる。こうした安定的な人間関係が、
ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基
本的信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの3つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。
これを第1世界という。園や学校での世界。これを第2世界という。そしてそれ以外の、
友だちとの世界。これを第3世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第2世界、つづいて第3世界へと、応用して
いく。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第2世界、第3世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の
基本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親
側の情緒不安や、親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなば
あい、子どもは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、
人間関係になる。これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分
野で現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ね
たみ症状などは、こうした基本的不信関係から生まれる。第2世界、第3世界においても、
良好な人間関係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れ
る。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安
心して」というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分
をさらけ出せる環境」をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役
目ということになる。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよ
い。

● 「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
● 子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じよう
に接する。
● きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くな
るというのは、避ける。

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 よくても悪くても、親は、子どもに対して、一貫性をもつ。子どもの適応力には、もの
すごいものがある。そういう一貫性があれば、子どもは、その親に、よくても、悪くても、
適応していく。

 ときどき、封建主義的であったにもかかわらず、「私の父は、すばらしい人でした」と言
う人がいる。A氏(60歳男性)が、そうだ。「父には、徳川家康のような威厳がありまし
た」と。

 こういうケースでは、えてして古い世代のものの考え方を肯定するために、その人はそ
う言う。しかしその人が、「私の父は、すばらしい人でした」と言うのは、その父親が封建
主義的であったことではなく、封建主義的な生き方であるにせよ、そこに一貫性があった
からにほかならない。

 子育てでまずいのは、その一貫性がないこと。言いかえると、子どもを育てるというこ
とは、いかにしてその一貫性を貫くかということになる。さらに言いかえると、親がフラ
フラしていて、どうして子どもが育つかということになる。
(030623)
(はやし浩司 一貫性)

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