最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●子育て失敗危険度(2)

2009-02-08 06:27:02 | Weblog































子どもにはナイフを渡せ!
誤解と無知(失敗危険度★★★)

●墓では人骨を見せろ?
 ある日、一人の母親(三〇歳)が心配そうな顔をして私のところへやってきた。見ると一冊の本を手にしていた。日本を代表するH大学のK教授の書いた本だった。題は「子どもにやる気を起こす法」(仮称)。
 そしてその母親はこう言った。「あのう、お墓で、故人の遺骨を見せたほうがよいのでしょうか」と。私が驚いていると、母親はこう言った。「この本の中に、命の尊さを教えるためには、お墓へつれていったら、子どもには遺骨を見せるとよい」と。その本にはほかにもこんなことが書いてあった。
●遊園地で子どもを迷子にさせろ?
 親子のきずなを深めるためには、遊園地などで、子どもをわざと迷子にさせてみるとよい。家族のありがたさを教えるために、子どもは、二、三日、家から追い出してみるとよい、など。本の体裁からして、読者対象は幼児をもつ親のようだった。が、きわめつけは、「夫婦喧嘩は子どもの前でするとよい。意見の対立を教えるのによい機会だ」と。これにはさすがの私も驚いた。
●子どもにはナイフをもたせろ?
 その一つずつに反論したいが、正直言って、あまりのレベルの低さに、どう反論してよいかわからない。その前後にこんなことを書く別の評論家もいた。「子どもにはナイフを渡せ」と。「子どもにナイフを渡すのは、親が子どもを信じている証(あかし)になる」と。そのあとしばらくしてから、関東周辺で、中学生によるナイフ殺傷事件がつづくと、さすがにこの評論家は自説をひっこめざるをえなかったのだろう。彼はナイフの話はやめてしまった。しかし証拠は残った。その評論は、日本を代表するM新聞社の小冊子として発行された。その小冊子は今も私の手元にある。
●ゴーストライターの書いた本
 これはまた元教師の話だが、数一〇万部を超えるベストセラーを何冊かもっている評論家がいた。彼の教育論も、これまたユニーク(?)なものだった。「子どもの勉強に対する姿勢は、筆箱の中を見ればわかる」とか、「たまには(老人用の)オムツをして、幼児の気持ちを理解することも大切」とかなど。「筆箱の中を見る」というのは、それで子どもの勉強への姿勢を知ることができるというもの。たしかにそういう面はあるが、しかしそういうスパイのような行為をしてよいものかどうか? そう言えば、こうも書いていた。「私は家庭訪問のとき、必ずその家ではトイレを借りることにしていた。トイレを見れば、その家の家庭環境がすべてわかった」と。たまたま私が仕事をしていたG社でも、彼の本を出した担当者がいたので、その担当者に話を聞くと、こう教えてくれた。
 「ああ、あの本ね。実はあれはあの先生が書いた本ではないのですよ。どこかのゴーストライターが書いてね、それにあの先生の名前を載せただけですよ」と。そのG社には、その先生専用のライター(担当者)がいて、そのライターがその評論家のために原稿を書いているとのことだった。もう二〇年も前のことだが、彼の書いた(?)数学パズルブックは、やがてアメリカの雑誌からの翻訳ではないかと疑われ、表に出ることはなかったが、出版界ではかなり話題になったことがある。
●タレント教授の錬金術
 先のタレント教授は、つぎのようにして本を書く。まず外国の文献を手に入れる。それを学生に翻訳させる。その翻訳を読んで、あちこちの数字を適当に変えて、自分の原稿にする。そして本を出す。こうした手法は半ば常識で、私自身も、医学の世界でこのタイプのゴーストライターをした経験があるので、内情をよく知っている。
 こうした常識ハズレな教授は、決して少数派ではない。数年前だが私がH社に原稿を持ちこんだときのこと、編集部の若い男は遠慮がちに、しかしどこか人を見くだしたような言い方で、こう言った。「あのう、N大学のI名誉教授の名前でなら、この本を出してもいいのですが……」と。もちろん私はそれを断った。
が、それから数年後のこと。近くの本屋へ行くと、入り口のところでH社の本が山積みになっていた。ワゴンセールというのである。見ると、その中にはI教授の書いた(?)本が、五~六冊あった。手にとってパラパラと読んでみたが、しかしとても八〇歳を過ぎた老人が書いたとは思われないような本ばかりだった。漢字づかいはもちろんのこと、文体にしても、若々しさに満ちあふれていた。
●インチキと断言してもよい
 こうしたインチキ、もうインチキと断言してよいのだろうが、こうしたインチキは、この世界では常識。とくに文科系の大学では、その出版点数によって教官の質が評価されるしくみになっている。(理科系の大学では論文数や、その論文が権威ある雑誌などでどれだけ引用されているかで評価される。)だから文科系の教官は、こぞって本を出したがる。そういう慣習が、こうしたインチキを生み出したとも考えられる。が、本当の問題は、「肩書き」に弱い、日本人自身にある。
●私の反論
 私は相談にやってきた母親にこう言った。「遺骨なんか見せるものではないでしょ。また見せたからといって、生命の尊さを子どもが理解できるようにはなりません」と。一応、順に反論しておく。
 生命の尊さは、子どものばあいは死をていねいに弔うことで教える。ペットでも何でも、子どもと関係のあったものの死はていねいに弔う。そしてその死をいたむ。こうした習慣を通して、子どもは「死」を知り、つづいて「生」を知る。
 また子どもをわざと遊園地で迷子にしてはいけない。もしそれがいつか子どもにわかったとき、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。またこの種のやり方は、方法をまちがえると、とりかえしのつかない心のキズを子どもに残す。分離不安にさえなるかもしれない。親子のきずなは、信頼関係を基本にして、長い時間をかけてつくるもの。こうした方法は、子育ての世界ではまさに邪道!
 また子どもを家から二、三日追い出すということが、いかに暴論かはあなた自身のこととして考えてみればよい。もしあなたの子どもが、半日、あるいは数時間でもいなくなったら、あなたはどうするだろうか。あなたは捜索願だって出すかもしれない。
 最後に夫婦喧嘩など、子どもの前で見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするならまだしも、夫婦喧嘩というのは、たいていは聞くに耐えない痴話喧嘩。そんなもの見せたからといって、子どもが「意見の対立」など学ばない。学ぶはずもない。ナイフをもたせろと説いた評論家の意見については、もう書いた。
●批判力をもたない母親たち
 しかし本当の問題は、先にも書いたように、こうした教授や評論家にあるのではなく、そういうとんでもない意見に対して、批判力をもたない親たちにある。こうした親たちが世間の風が吹くたびに、右へ左へと流される。そしてそれが子育てをゆがめる。子どもをゆがめる。






















あんたさ、英語教育に反対してよ!
おめでたママ(失敗危険度★★★★★)ダブリ

●「どうやって補充するか」
 自分の子どものことがまったくわかっていない親というのは、多い。わかっていないと言っても、それが度を超えている。先日もある母親から電話がかかってきた。受話器をとると、「どうしても相談したいことがある」と言ったので、会うことにした。見知らぬ人だった。で、会うと、こう言った。「今度、学習内容が三割削減されるというではありませんか。親としてどうやって補充したらよいでしょうか」と。その母親はこう言った。「うちの子のように、学校の勉強についていくだけでも精一杯という子どもから、その上、三割も内容が減らされたら、どうしたらいいのですか?」と。その母親は「(三割も学習量が減ったら)ますます学力がさがる」と考えたようだ。しかしもしそうなら、つまり「ついていくだけでも精一杯」という状態なら、三割削減されたことを、まっさきに喜ばねばならないはずである。それをその母親は、「どうやって補充するか」と。私は頭の中で、脳細胞がショートして火花を散らすのを感じた。
●英語教育は日本語をだめにする?
 同じような例だが、こんな相談も。「今度うちの小学校でも英語教育が始まったが、今、英語なんか教えてもらったら、うちの子(小三男児)の日本語がおかしくなってしまう。英語教育には反対してほしい」と。こう書くと、まともな日本語で母親が話したかのように思う人がいるかもしれないが、実際にはこうだ。「今度、英語ね、ほら、小学校で、英語。ありゃ、うちの子に、必要ないって。あんな英語やらやあ、さあ、かえって日本語、ダメになるさ。あんたさ、評論家ならさ、反対してよ」と。日本語すらまともに話せない母親が、子どもの国語力を心配するから、おかしい。
●この子には、力があるはずです
 が、子どもの受験のことになると、ほとんどの親は自分の姿を見失う。数年前だが、一人の中学生(中一男子)が、両親に連れられて私のところにやってきた。両親は、ていねいだが、こう言った。「この子には、力があるはずです。今までB教室といういいかげんな塾へ行っていたので、力が落ちてしまった。ついては、先生に任せるから、どうしてもS高校へ入れてほしい」と。
S高校といえば、この静岡県でも偏差値が最上位の進学高校である。そこで私は一時間だけその中学生をみてみることにした。が、すわって数分もしないうちに、鉛筆で爪をほじり始めた。視線があったときだけ、何となく頭をかかえて、勉強しているフリはするものの、まったくはかどらない。明らかに親の過関心と過干渉が、子どものやる気を奪ってしまっていた。私は隣の部屋に待たせていた両親を呼んで、「あとで返事をする」と言って、その場は逃げた。
●「はっきり言ったらどうだ」
 数日置いて、私はていねいな手紙を書いた。「今は、時間的に余裕もないから、希望には添えない」という内容の手紙だった。が、その直後、案の定、父親から猛烈な怒りの電話が入った。父親は電話口の向こうでこう怒鳴った。「お前は、うちの子は、S高校は無理だと思っているのか。失敬ではないか。無理なら無理と、はっきり言ったらどうだ」と。
●デパートの販売拒否
 本当にこのタイプの親は、つきあいにくい。どこをどうつついても、ああでもない、こうでもないとつっかかってくる。公立の、つまり税金で動いている学校ですら、選抜試験をするではないか。私のような、まったく私立の、一円も税金の恩恵を受けていない教室が、どうしてある程度の選抜をしてはいけないのか。
ほとんど親がそうだが、私が入会を断ったりすると、まるでデパートで販売拒否にでもあったかのように、怒りだす。気持ちはわからないわけではないが、つまりは、それだけ私たちは「下」に見られている。しかし昔からこう言うではないか。『一寸の虫にも五分の魂』と。そういうふうにしか見られていないとわかったとたん、私たちだって、教える気はうせる。






























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