●ディア・マイ・ファーザー
DVD『ディア・マイ・ファーザー』に話を戻す。
この映画が実話なら、私はやはり、俳優の選択ミスということになる。
ライモンドの父親は、家具職人である。
鉄の棒を熱で曲げながら、いろいろな家具を作る。
そういう職歴の男性が、こうまで高邁(こうまい)な愛を、はたして
もちうるものだろうか。
(何も、職人という職業がどうのこうのと言っているのではない。
しかしあまりにも、高邁すぎる?)
それに若い。
映画の中では、30歳前後の男性として登場している。
つまり基礎的人間性が、それなりにあるとしても、映画で表現されているほどはない。
……という点で、不自然。
私はその(不自然さ)を感じてしまった。
あとの判断は、映画を観た人に任せる。
「林の言ったとおりだな」と思う人もいるかもしれない。
あるいは「林の言っていることは、まちがっている」と思う人もいるかもしれない。
一度、そういう視点で、あの映画を観てみたらどうだろうか。
家庭で観て、損はない映画である。
よい映画であることには、まちがいない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 ライモンド レイモンド ディア・マイ・ファーザー オーストラリア映画 基礎的人間性 基礎人間性 周囲人間性)
Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司
●病気見舞い
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冠婚葬祭というと、派手であればあるほどよい
と考える人は多い。
しかしそれはちょうど、子どもに与えるプレゼント
のようなもの。
高価なものであればあるほど、子どもは喜ぶはずと
親は考える。
しかし実際には、逆効果。
(物欲)には、麻薬性がある。
つぎに子どもは、つぎにもっと高価なものを求めるようになる。
また高価なものでないと、満足しなくなる。
さらに言えば、これを繰り返していると、子どもはかえってドラ息子化するだけ。
で、最近は、冠婚葬祭を質素にすます人がふえてきた。
(形)より(中身)、(中身)より(心)を求める人が、
それだけふえてきたと考えてよい。
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●山城新伍
私の好きな俳優に、山城新伍という人がいた。
おととい(12日)、亡くなったという。
享年、70歳。
長い間、糖尿病を患っていたという。
その山城新伍について、ちょうど1年前(08年の8月)、
こんな原稿を書いていた。
(このとき母は、まだ特別養護老人ホームに入居していた。)
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●見舞い
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週刊B春の中で、映画俳優のYS(山城新伍)は、こう語っている。
記者が、「友人の方々が心配しているようです」と語りかけたことに対して、
「そんなもん、会いたくないやろ。それで連絡もとっていない。このまま
消えてしまいたいぐらいや」(「週刊B春・08・9・4日号」と。
YS(69歳)は、現在、特別養護老人ホームに入居している。
持病の糖尿病が悪化、今は介護なしでは、生活できないような状態らしい。
週刊B春のほうは、「消えてしまいたい」という言葉を、新聞広告の
見出しに並べていたが、私はその前の言葉のほうが、気になった。
YSは、こう言っている。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。
同じような言葉を、以前、ある末期がんの人が言っていたのを思い出した。
「だれにも会いたくない」「本当に心が安まる人だけと、静かに時間を過ごしたい」と。
それを心配するまわりの人たちは、(本気で心配しているかどうかという問題もあるが)、
「会いたい」と思うかもしれない。
「相手は、私に会いたがっているはず」と思うかもしれない。
しかし当の本人にとっては、ありがた迷惑。
私も母の介護をしていて、それを感じたことがある。
ときどき親類の人たちや、元近所の人たちから、「見舞いに行きたい」などというような
連絡を受ける。
しかし私はそういう申し出を、たいてい、ていねいに断るようにしている。
私の立場というよりは、母の立場で、断わるようにしている。
仮に私が母なら、だれにも会いたくない。
「だれも見舞いに来なければ、さみしいだろう」と、その人は思うかもしれない。
が、それこそ、いらぬお節介。
母にしても、本当に会い人などというのは、そうはいない。
家族とか親友、その範囲の数人と考えてよい。
母にしても、自分の無様(ぶざま)な姿など、見せたくもないだろう。
が、無神経な人は、それほど親しくもないのに、「喜んでくれるはず」と、
勝手にそう決めて、やってくる。
さらに無神経な人は、興味本位で電話をかけてくる。
「お母さんの、具合はいかがですか?」と。
母は元気なころ、陰で、その人の悪口ばかり言っていた。
そういう母の気持ちを私はよく知っている。
だから、断る。
YSは、そういう心情を、率直に表現した。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。
週刊B春によれば、こうある。
「実は今年の春先、山城の友人や知人の間で、山城の所在を
めぐり、ちょっとした騒動が持ちあがっていたのである。
『S伍の携帯に何度かけても、つながらないんだ。こっちが
いやがっても電話をしてくるような男なのに、何かあったんじゃ
ないだろうか」
「どこかの病院に入院したと聞いたんだが、S吾が、『面会に
来ないでくれ』と言っているそうだ」と。
治る見込みのある病気ならまだしも、そうでない病気なら、
そうかもしれない。
私自身は、まだそういう大病を経験していないので、本当の
ところ、YSの心情を理解できるというわけではない。
しかし私がYSの立場なら、おそらくYSと同じように考えるに
ちがいない。
希薄な人間関係など、いくら重ねても、自分の心の隙間を
埋めることはできない。
かえって騒々しいだけ。
わずらわしいだけ。
それがわからなければ、都会の雑踏の中をひとりで歩いてみることだ。
相手がそういう状態なら、そっとしておいてやることこそ、思いやり。
相手から「会いたい」という連絡でもあれば、話は別だが、
そうでないなら、そっとしておいてやる。
これは人生の末期にいる人たちへの、たいへん重要なマナーのひとつと
考えてよい。
Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司
●「形」だけの人間社会
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形だけの言葉、形だけのあいさつ、形だけの心配、
形だけの喜び、形だけの行為、形だけの悲しみ……。
ふと気がついてみると、私のまわりには、「形」だけ……
ということは多い。
私も他人に対してそうだし、他人も、私に対してそうである。
身内にも、それがある。
親子にも、それがある。
夫婦にも、それがある。
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総じてみれば、この世は「形」だけ。
そう言い切るのは、少し乱暴すぎるかもしれないが、
否定するのは、もっとむずかしい。
つまりまず形をつくって、自分への責任を回避しようとする。
それだけ人間関係が希薄になったとも考えられる。
あるいは人間関係が広がりすぎ、その分だけ複雑になったとも考えられる。
そのつどいちいち心を入れていたら、それこそ身がもたない。
よい例が、冠婚葬祭
とくに葬儀。
葬儀は、「形」の集合。
私は兄の葬儀のときに、そう感じた。
何からなにまで「形」が決まっていて、まるで流れ作業のよう。
形、形、形……また、形。
線香の立て方から、焼香のしかた、さらには僧侶への礼の仕方まで。
「形」から踏み出すことを、みな、恐れているかのようですらあった。喪主ということで、
葬儀社の人から、ことこまかく、指示を受けた。
それぞれが自分のやり方をしたら、かえって葬儀が混乱してしまう。
参列する人にしても、そうだろう。
しかし、葬儀といえども、どうして個性的であってはいけないのか。
自分で考えた葬儀では、どうしていけないのか。
「形」を決めておけば、楽は楽。
しかしそうした葬儀のあり方には、疑問ばかりが残る。
というのも、兄は、生前において人間関係が、きわめて希薄だった。
弟という私に対しても、一度だって、何かの祝いをしてくれたことはない。
結婚したときも、子どもが生まれたときも……。
そういう意味では、生まれながらにして、きわめて依存心の強い人だった。
生活能力も、ほとんどなかった。
そういう兄を、母は、よく「生まれつき」と言ったが、
生まれつきそうであるかどうか、そんなことがわかる親はいない。
病院の医師だってそうだろう。
母の異常なまでの溺愛と過関心、過干渉が、兄をして、兄のような
人間にした。
だから葬儀に来た人の中でも、兄と個人的な思い出、あるいは
つながりのある人は、ほとんどいなかった。
この私ですら、9歳、齢が離れていることもあったが、
一度とて、兄といっしょに遊んだ記憶そのものがない。
むしろそういう兄であったがために、私に対する社会的重圧感には、
相当なものがあった。
経済的重圧感というより、社会的重圧感である。
とくにあのG県の郷里では、それを許してくれなかった。
「家意識」も色濃く残っている。
それこそ「借金をしてでも、実家を守れ」と言う人さえいる。
「兄のめんどうは、弟のお前がみるべき」と。
だから参列に来てくれた人たちが、それなりにしおらしい顔をして、
「ご愁傷様です」などと言ってくれても、私にはピンとこなかった。
私のほうも、それらしい顔をして、「ありがとうございます」と答える。
形だけの心配、形だけのあいさつ、形だけの言葉。
晩年の兄が感じていただろう(孤独)にしても、それを孤独として
本当に理解していた人は、何人いただろう。
仮に理解していたとしても、だれにも、何もできなかった。
だからといって、いいかげんな葬儀でよかったと言っているのではない。
むしろ、その逆。
そういう兄だったからこそ、私は人並み以上の葬儀に……と思った。
広い会場だったこともあり、参列者はガラガラだった。
空いている椅子は、参列者の数倍は、あった。
で、結局、何ごともなかったかのように、葬儀は終わった。
だれも、兄が背負ったであろう孤独感や絶望感について話題にしなかった。
(もちろん私も、しなかった。)
死んだ人は、仏……ということか。
あるいは「終わった人は、終わり」ということか。
食べて、飲んで、雑談をして、おしまい。
それも「形」なのかもしれない。
が、だとするなら
葬儀というよりは、「人の死」とは何かということになる。
さらに言えば、「命」とは何かということになる。
こうして1人の人間が、あたかも何ごともなかったかのように、
この世から消えた。
その人間にしてみれば、この宇宙もろともに、である。
葬儀……もっと心を大切にすべきではないか。
故人の心を、である。
でないと、それこそ兄の死は、本当に無駄死で終わってしまう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 山城新伍 山城S伍 形だけの人間関係)
+++++++++++++以上、08年8月記+++++++++++++
●「そんなもん、会いたくないやろ」
山城新伍は、こう言ったという。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。
この一言だけで、山城新伍を判断するわけではないが、しかしこの
一言だけでも、山城新伍は、ものすごい人ということがわかる。
大物というか、自分に正直。
だれしも山城新伍のような生き方をしたいと思いつつ、それができないでいる。
見栄や体裁に振り回される。
こんなことがあった。
私の母が死んでちょうど1年になる。
その当時を思い出しながら、ある女性(66歳)がこう言った。
「もっと、あなたのお母さんを見舞ってやればよかった」と。
私はその言葉を聞いて、その女性の自己中心性に驚いた。
まるで自分のことがわかっていない。
生前、母は、その女性のことをたいへん嫌っていた。
私が知るかぎり、死ぬ間際まで、嫌っていた。
母にしてみれば、見舞いに来てほしくない第一の女性だった。
そんな女性が、自分だけの判断で、「もっと見舞ってやればよかった」とは!
またこんな話もある。
ワイフの友人(55歳・女性)が、子宮筋腫の手術で、1週間ほど
病院に入院した。
それについて、ワイフの友人は、そのことをだれにも話さなかった。
自分の夫にすら、「だれにも言わないでほしい」と念を押していたという。
さらにこんな話もある。
このことは以前にも書いたが、Yさんという友人の夫(43歳)が、交通事故
で入院した。
それについて夫の友人の1人が、その日のうちにあちこちへ電話をかけ、みなに
知らせてしまった。
親切心からそうしたのだろうが、Yさんの気持ちを、先に確かめるべきだった。
Yさんは、こう言った。
「入院したその日に、ドヤドヤと、いろいろな人が見舞いに来て、その応対だけで
疲れてしまいました」と。
見舞いといっても、みながみな、それを望んでいるわけではない。
また来てほしい人というのは、かぎられている。
で、それなりの立場でないなら、安易に見舞うというのは、やめたほうがよい。
かえってありがた迷惑になるだけ。
Yさんのケースにしても、そっとしておいてやることこそ、大切。
もう一例、こんな話もある。
2年前に、私の友人が亡くなった。
で、その初盆が昨年の7月にあった。
私はすっかりその日を忘れてしまっていた。
(私の生まれ故郷では、8月に盆供養をする習わしになっている。)
それでそれをわびるために出向くと、奥さんは、こう言った。
「正直に言いますとね、初盆のほうが、葬式よりたいへんでした。
そのあと体の調子を崩してしまい、1週間ほど、寝込んでしまいました」と。
周囲の人にしても、そうだ。
「親だから・・・」「子だから・・・」という理由だけで、それを前提として
ものを考えてはいけない。
親といってもさまざま。
子どもといってもさまざま。
親子関係となると、さらにざまざま。
「親の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
「子の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
それがわからないのは、あなただけ。
いろいろなケースがある。
しかしこと病気の見舞いとなると、それを望まない人のほうが多いのでは?
(あるいは私の意見が、否定的すぎるかな?)
そこで大切なことは、一度家族の人の意見を聞いてみるということ。
その上で、見舞いに行くかどうかを決めればよい。
「私が見舞いに行けば、相手は喜ぶはず」という、「ハズ論」だけでものを
考えてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 見舞い 病気見舞い エチケット)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●リバウンド(?)
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飢えた摂取細胞が、猛烈な勢いで、
反撃に転じている……らしい。
今朝、体重を測定したら、2キロオーバーの
62・5キロ。
ここ2日、風邪気味。
病院で出してもらった
薬をのむためには、食事をきちんと
とらなければならない。
それが災い(?)した。
加えて、休みに入って、運動不足?
今日からしばらく、菜食主義+2食。
このあと、サイクリングをしてくる。
目標は、佐鳴湖一周。
それにしても、たった1日で2キロとは!
+++++++++++++++++
●使わない筋肉は、衰える?
こんなおもしろい現象を経験しつつある。
2週間ほど前、ジョギング中に、こむら返りを経験した。
突然、足がひきつって、歩けなくなった。
それから数日間、歩くのもままならなかった。
が、自転車をこいでみて、驚いた。
そんな足でも、自転車のほうは、平気!
いつものようにスイスイと自転車をこぐことができた。
ジョギングで使う足の筋肉と、サイクリングで使う
足の筋肉は、ちがうらしい。
言い換えると、ジョギングで鍛えたからといって、
サイクリングができるようになるとはかぎらない。
サイクリングで鍛えたからといって、ジョギングが
できるようになるとはかぎらない。
こういうのを専門用語で、「廃用性機能低下」という。
平たく言えば、「使っていない機能は、低下する」ということ。
何も筋肉にかぎらない。
脳みそだって、そうだ。
それが顕著に現れるのが、(ものを書く力)。
しばらくものを書いていないと、とたんに勘が鈍る。
パソコンに向かっても、文そのものが、わいてこない。
書いても、考えがまとまらない。
仮にこんな生活を半年とか1年もつづけたら、
それこそ本当に文章を書けなくなってしまうだろう。
しかしこのことは、別の重要な教訓を、私たちに
教えている。
ある特定のことに秀(ひい)でることはよいとしても、
そればかりに集中していると、そのほかの部分が、
おろそかになるということ。
機能そのものが、低下する。
体を鍛えるにしても、脳を鍛えるにしても、いつも(全体)
を見ながら、鍛える。
毎日ジョギングしているから、それでよいということには
ならない。
文章を毎日書いているから、それでよいということには
ならない。
「廃用性機能低下」というのには、そういう意味も含まれる。
たとえば知人の中に、何かにつけて、こまかいことに
こだわる女性(60歳)がいる。
実にこまかい。
孫の話などをするときも、不必要なことまで話す。
「靴下の色はどうだった」「汚れていた」「実家へ来るなら、
(嫁は)洗濯した靴下をはかせるべきだ」とかなど。
一見、よく気がつく女性に思うかもしれないが、その
ほかの部分は、眠ったような状態になっている。
つい1週間前の約束すら、忘れてしまう。
少し難解な説明書になると、読んでそれを理解することも
できない。
つまり脳みそでも、使っている部分は、ほんの一部と
いうことになる。
そのほかの部分は、機能そのものが低下してしまっている。
こうした現象も、「廃用性機能低下」という言葉で
説明できる。
ではどうするか。
体にせよ、脳にせよ、いろいろな場面で、いろいろな方法で
使う必要がある。
そのためには、生活そのものを豊かにする。
バラエティ豊かなものにする。
単調でマンネリ化した生活は、体にとっても、また脳みそにとっても、
よくない。
さて今日から数日、またまた苦しい闘いが始まる。
まだ咳が少し残っている。
体重が60キロに戻るまで、がんばろう!
……では、これからサイクリングに!
時刻は、午前6時、少し前。
雲が多いが、その向うに水色の澄んだ空が見える。
サイクリングをするには、よい朝だ。
では、みなさん、おはようございます!
2009年8月14日、金曜日
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 廃用性機能低下)
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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