【新・胡蝶の夢】(人生、夢のごとし)
Life is but an empty dream.
++++++++++++++++++++
時として、現実が夢なのか、
それとも、夢が現実なのか、
それがわからなくなる。
そこに(現実)があるはずなのに、
日々はまるで夢のように過ぎていく。
そこに(過去)があるはずなのに、
どれも色あせて、つかみどころがない。
「人生、夢のごとし」とだれかに言われても、
今の私は、「そうだな」と、
すなおにそれに従うことができる。
++++++++++++++++++++
●マイ・S
医院で、(マイ・S)という睡眠薬を、処方してもらっている。
睡眠薬にもいろいろあって、(マイ・S)というのは、言うなれば朝方に効く、睡眠持続剤のようなもの。……らしい。
「朝早く目が覚めてしまう」と訴えたら、医師は、それを処方してくれた。
以来、もう10年以上になる。
といっても、毎晩のむわけではない。
週に1、2度、それも4分の1から8分の1に割ってのむ。
1錠ものんだら、気がへんになってしまう。
朝方、現実と区別のつかない、幻覚作用が起こる。
一度、そういうことがあって、こわくなった。
だからそのときの状態に応じて、割ってのむ。
そのことを医師に告げると、「それでは効かない」というようなことを言った。
しかし私には、それでじゅうぶん。
多くて4分の1。
たいていは8分の1。
舌の下で溶かしながら、のむ。
●幻覚
(マイ・S)をのむと、それでも、朝方、幻覚作用が起きることがある。
超リアルな夢であったり、夢の中で、それが夢とわかったりする。
数日前の朝も、そうだった。
私はどこかの駅のプラットフォームに立っていた。
そこで一度ローカル線に乗り、近くの大きな駅で長距離列車に乗り換えるつもりだった。
その前に少し、海岸沿いの細い道を歩いていたように思う。
舗装のない、茶色の道だった。
眼下に豊かな森が見え、その向こうに海が見えた。
たぶんそんなわけで、その駅までは、バスか何かでやってきたのだと思う。
私は長距離列車に乗って、自宅のある浜松市まで帰るつもりでいた。
●床屋
駅の前には坂道があった。
以前、見覚えのある坂道だった。
……というより、別の道から、坂の上にある、みやげ屋まで来たことがある。
そのときは、つまり反対コースを、下から見たことになる。
急な坂道で、歩いては登れるが、車では無理。
そう思いながら、私は坂道を登った。
駅のことは、忘れていた。
たぶんローカル線に乗り遅れて、つぎの電車を待っていたのだと思う。
坂道の途中には、いくつかの店があった。
民宿、菓子屋、それに床屋。
私は床屋へ入った。
大正時代にできたような木造の古い家だった。
●2人の男
そのころだったと思う。
私は「ああ、これは夢だな」と気がついた。
ふつうなら、そう思ったとたん、目が覚める。
が、目は覚めなかった。
私は夢を見つづけた。
床屋には、2人の人がいた。
1人は男で、年齢は50歳くらい。
もう1人は女で、年齢は40歳くらい。
ひまそうに客を待ちながら、テレビを見あげていた。
私は声をかけた。
男が返事をした。
女も返事をした。
しかしそこはもう床屋ではなかった。
旅館だった。
古い、木造の旅館だった。
長い板間の廊下が、奥へとつづいていた。
●幻覚
男が言った。
「奥の部屋があいています」「温泉は、12時までです」と。
女が部屋へ案内してくれた。
私はワイフの姿が見えなくなって、かなり不安になっていた。
電車で先に行ってしまったのかもしれない。
もしそうなら、つぎの駅で私を待っているはず。
……と思った瞬間、私はみやげ屋の中にいて、そこから駅をながめていた。
「これは夢だ」と、私はまた思った。
「私は今、夢を見ている」と。
こんなにクルクルと場面が変わることは、おかしい。
おかしいから、「夢だ」と。
●男
先ほどの男が、話しかけてきた。
「あなたは、どこから来たのか」と。
私は、「旅行中だ」と答えた。
男「どこへ行くのか」
私「電車に乗って、家に帰る」
男「家は、どこだ?」
私「なぜ、そんなことを聞くのか?」
男「なぜって、それはあなたが、この世の人間とは思えないからだ」
私「この世? ハハハ、ここはぼくの夢の中の世界だよ」と。
男は一瞬驚いた顔をしてみせたが、今度は怒ったような声で言った。
「バカなことを言うな。ここがあなたの夢の中の世界なら、私は何だ?」と。
私「……あなたは、ぼくが勝手に創りあげた人間だ」
男「あなたが、ぼくを創ったって? とんでもないこと言うね、あなたは」
私「だって、これはぼくが見ている夢なんだから、しかたないだろ」と。
●やり取り
男の顔はよく覚えていない。
が、夢の中では、その場にいる人のように、輪郭がはっきりしていた。
印象としては、陰険な顔つきをしていた。
暗い表情で、私をにらみつけていた。
男「あなたの頭は、おかしい。見ろ、あそこに海が見えるだろ。あなたはあの海まで、自分で創ったというのか?」
私「創ったわけではないが、この世界では、ぼくが想像した通りの世界になる」
男「だったら、あなたはこの世界の神か?」
私「少なくとも、あなたに関しては、そうだ。ぼくが目を覚ましたら、あなたは消える」
男「……消える! とんでもないことを言うな。君は。ぼくは消えない。夢だかなんだか知らないが、あなたが目をさましても、ぼくは、ここにいる。この世界に、だ」と。
かなりはげしいやり取りだった。
私もその男も、同じように興奮状態になっていた。
●荘子の『胡蝶の夢』
荘子と言えば、『胡蝶の夢』。
荘子の思想を表す逸話に、こんな話がある。
ある日荘子は夢を見る。
荘子が蝶になり、あちこちを舞ったあと、そこで目が覚める。
そこで荘子はこう考える。
「荘子が夢を見て蝶になったのか。それとも蝶が夢を見て荘子になったのか」と。
もちろん夢の中で、私が荘子のことを思い出したわけではない。
ただその男というのが、はたして夢の中に出てきた男なのか、それとも私自身だったのか、今、こうして夢の中の私を思い出しながら書いていると、それがよくわからない。
会話をしているのは、私と1人の男。
しかし私がその1人の男になったり、その男が、私になったりする。
あるいは夢の中で、私は、もう1人の「私」と対話をしていたのかもしれない。
「私が夢を見て、その男と話したのか。それとも、私がその男となって、私と話したのか」と。
●目を覚ます
……このあたりで、夢が覚め始めた。
というより、思い切って目を開いた。
とたん、目の前にいた、その男は消えた。
どこか生意気そうな男だった。
目を覚ます前、かなり強い反感を私は覚えていた。
だからふと、「ザマーミロ!」と思った。
その男が消えたことが、楽しかった。
「あの男は今ごろ、自分が消されて、悔しい思いをしているかもしれないな」と。
しかしすぐ私は現実に戻った。
横を見ると、ワイフが朝の薄日の中で、軽いいびきをかいて眠っていた。
私はそれまで見ていた夢のことを、しばらく考えた。
時刻は午前5時を過ぎていた。
遠くで、スズメが鳴いたような気がした。
●夢判断
私は夢を見た。
私が見た夢だから、自分の姿は見えなかった。
が、男の顔や姿は、よく見えた。
しかしその男が、私でなかったとは、とても思えない。
私が見た夢なら、私自身ということになる。
私の一部が、その男となって、夢の中に出てきた。
不愉快そうな顔をしていた。
その男は、私が、「あなたは、ぼくが勝手に創りあげた人間だ」と言ったとき、本気になって怒った。
それがおかしかった。
私は、自分の夢の中では、神以上の神だった。
すべての創造主。
その気になれば、(もちろん夢と気づいているときの間だけだが)、自分の思い通りの世界を創ることができる。
別の夢で、「これは夢」とわかったようなとき、私はわざと高い山から飛び降りて、空を飛ぶこともある。
そういう神業(わざ)的なことも、可能。
つまり何でもできる。
●逆転
が、ここでおもしろいことに気づく。
もし、仮に今、この世界が、だれかの夢の中の世界だったとしたら……ということ。
そこに1人の男が立っていて、「ここは私の夢の中の世界だ。あなたは私によって創られた人間だ」と言ったとしたら……。
つまり夢の中の「私」が、ちょうど反対の立場になったとする。
するとこの世界の見方が、一変する。
私はその男に向かって、こう言い返すだろう。
私「あなたの頭は、おかしい。見ろ、あそこに海が見えるだろ。あなたはあの海まで、自分で創ったというのか?」
男「創ったわけではないが、ぼくが想像した通りの世界になる」
私「だったら、あなたはこの世の神か?」
男「少なくとも、あなたに関しては、そうだ。ぼくが目を覚ましたら、あなたは消える」
私「……消えるだと! とんでもないことを言うね、君は。ぼくは消えないよ。夢だかなんだか知らないが、あなたが目をさましても、ぼくは、ここにいる。この世界に、ね」と。
●現実
実のところ、私は今、私が生きているこの世界そのものが、よくわからない。
そこに見えるのは、光と分子の織りなす世界。
それを見て、(もちろん音も聞いて)、そこにモノがあることを知る。
しかし目を閉じれば、一瞬にして、それらのモノは、視界から消える。
そこにモノが見えるのは、たまたまそれが見えるように目ができているからにほかならない。
たとえば暗い闇の世界を泳ぐイルカは、音波探知機のような機能を鼻先にもっていて、それでモノがあることを知るという。
一方、土の中に生きるミミズは、目が退化してしまっていて、モノを見ることができない。
(現実)といっても、それは人間にとっての現実であり、その(現実)は、動物によってみなちがう。
で、死ねば、どうなるか?
モノを見る「私」自身が消えるわけだから、モノを見ることはもうない。
その時点で、私たちが「現実」と呼んでいるものすべてが、消える。
この大宇宙もろとも、消える。
●すべてが夢の中
もちろん(現実)は(現実)。
(夢)は(夢)。
しかし私の年齢になると、どちらがどちらでも、もう構わないという心境になる。
「夢の中の方が現実」とだれかが言っても、「そうだな」と思う。
「現実は夢のようなもの」とまただれかが言っても、「そうだな」と思う。
自分の過去を振り返っても、それが(現実)というよりは、すべてが(夢)の中のできごとだったような気がする。
少なくとも「今」という時点から振り返ると、数日前に見た夢も、50年前に経験したことも、同じように見える。
夢の中で見た床屋も、どこか知らない土地で見かけた床屋も、同じように見える。
頭の中で区別するのが、むずかしい。
だから荘子のように……というふうに考えるのは危険なことかもしれないが、この世の中のモノすべてが、ナッシング(Nothing)のように思えてくる。
もっとわかりやすく言えば、私たちは、だれかが見ている夢の中で、それがそのだれかの夢とも気づかず、踊らされているだけ(?)。
そのだれかが目を覚ませば、私もろとも、この世の中のモノすべてが、消える。
●現実主義者
……といっても、私は現実主義者。
今までもずっとそうだった。
これからも、死ぬまでそうだろう。
霊的な世界の存在を信じていない。
が、冷酷な現実主義者ではない。
ちょうど子どもがサンタクロースの存在を信ずるように、「この世は、ひょっとしたら夢のようなものかもしれない」と思うことはある。
やがて私もあの世へ行くわけだが、その程度、つまりサンタクロース程度には死後の世界を信じている。
……とまあ、自分でも何を書いているか、よくわからなくなってきた。
ただ私がここに書きたいことは、現実だけがけっしてすべてではないということ。
現実にとらわれすぎると、かえって自分を見失ってしまうこともある。
ときには、そこに見える(現実)を疑ってみる必要もある。
そこにある世界がけっしてすべてではない。
同時に、そこにないからといって、別の世界を否定してはいけない。
窓の外から注ぎ込む白い光を見ながら、私はそんなことを考えた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 夢と現実 現実と夢 荘子 胡蝶の夢 荘周 新胡蝶の夢 夢論)
(補記)
私自身の過去を振り返っても、すべて夢の中のできごとだったように思うことは、よくある。
ただ(過去)といっても、それぞれの人や場所と、つながりがある。
そういった人に出会うと、それが現実だったことを知る。
しかしもしそういう人もいなくなってしまったら……。
そういう場所もなくなってしまったとしたら……。
そのとき私は、現実と夢を区別できるだろうか。
加齢とともに、だんだんとその自信が薄らいできた。
人生は夢のように短くはかないものである(李白「春夜宴従弟桃李園序」)。
Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司
Life is but an empty dream.
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時として、現実が夢なのか、
それとも、夢が現実なのか、
それがわからなくなる。
そこに(現実)があるはずなのに、
日々はまるで夢のように過ぎていく。
そこに(過去)があるはずなのに、
どれも色あせて、つかみどころがない。
「人生、夢のごとし」とだれかに言われても、
今の私は、「そうだな」と、
すなおにそれに従うことができる。
++++++++++++++++++++
●マイ・S
医院で、(マイ・S)という睡眠薬を、処方してもらっている。
睡眠薬にもいろいろあって、(マイ・S)というのは、言うなれば朝方に効く、睡眠持続剤のようなもの。……らしい。
「朝早く目が覚めてしまう」と訴えたら、医師は、それを処方してくれた。
以来、もう10年以上になる。
といっても、毎晩のむわけではない。
週に1、2度、それも4分の1から8分の1に割ってのむ。
1錠ものんだら、気がへんになってしまう。
朝方、現実と区別のつかない、幻覚作用が起こる。
一度、そういうことがあって、こわくなった。
だからそのときの状態に応じて、割ってのむ。
そのことを医師に告げると、「それでは効かない」というようなことを言った。
しかし私には、それでじゅうぶん。
多くて4分の1。
たいていは8分の1。
舌の下で溶かしながら、のむ。
●幻覚
(マイ・S)をのむと、それでも、朝方、幻覚作用が起きることがある。
超リアルな夢であったり、夢の中で、それが夢とわかったりする。
数日前の朝も、そうだった。
私はどこかの駅のプラットフォームに立っていた。
そこで一度ローカル線に乗り、近くの大きな駅で長距離列車に乗り換えるつもりだった。
その前に少し、海岸沿いの細い道を歩いていたように思う。
舗装のない、茶色の道だった。
眼下に豊かな森が見え、その向こうに海が見えた。
たぶんそんなわけで、その駅までは、バスか何かでやってきたのだと思う。
私は長距離列車に乗って、自宅のある浜松市まで帰るつもりでいた。
●床屋
駅の前には坂道があった。
以前、見覚えのある坂道だった。
……というより、別の道から、坂の上にある、みやげ屋まで来たことがある。
そのときは、つまり反対コースを、下から見たことになる。
急な坂道で、歩いては登れるが、車では無理。
そう思いながら、私は坂道を登った。
駅のことは、忘れていた。
たぶんローカル線に乗り遅れて、つぎの電車を待っていたのだと思う。
坂道の途中には、いくつかの店があった。
民宿、菓子屋、それに床屋。
私は床屋へ入った。
大正時代にできたような木造の古い家だった。
●2人の男
そのころだったと思う。
私は「ああ、これは夢だな」と気がついた。
ふつうなら、そう思ったとたん、目が覚める。
が、目は覚めなかった。
私は夢を見つづけた。
床屋には、2人の人がいた。
1人は男で、年齢は50歳くらい。
もう1人は女で、年齢は40歳くらい。
ひまそうに客を待ちながら、テレビを見あげていた。
私は声をかけた。
男が返事をした。
女も返事をした。
しかしそこはもう床屋ではなかった。
旅館だった。
古い、木造の旅館だった。
長い板間の廊下が、奥へとつづいていた。
●幻覚
男が言った。
「奥の部屋があいています」「温泉は、12時までです」と。
女が部屋へ案内してくれた。
私はワイフの姿が見えなくなって、かなり不安になっていた。
電車で先に行ってしまったのかもしれない。
もしそうなら、つぎの駅で私を待っているはず。
……と思った瞬間、私はみやげ屋の中にいて、そこから駅をながめていた。
「これは夢だ」と、私はまた思った。
「私は今、夢を見ている」と。
こんなにクルクルと場面が変わることは、おかしい。
おかしいから、「夢だ」と。
●男
先ほどの男が、話しかけてきた。
「あなたは、どこから来たのか」と。
私は、「旅行中だ」と答えた。
男「どこへ行くのか」
私「電車に乗って、家に帰る」
男「家は、どこだ?」
私「なぜ、そんなことを聞くのか?」
男「なぜって、それはあなたが、この世の人間とは思えないからだ」
私「この世? ハハハ、ここはぼくの夢の中の世界だよ」と。
男は一瞬驚いた顔をしてみせたが、今度は怒ったような声で言った。
「バカなことを言うな。ここがあなたの夢の中の世界なら、私は何だ?」と。
私「……あなたは、ぼくが勝手に創りあげた人間だ」
男「あなたが、ぼくを創ったって? とんでもないこと言うね、あなたは」
私「だって、これはぼくが見ている夢なんだから、しかたないだろ」と。
●やり取り
男の顔はよく覚えていない。
が、夢の中では、その場にいる人のように、輪郭がはっきりしていた。
印象としては、陰険な顔つきをしていた。
暗い表情で、私をにらみつけていた。
男「あなたの頭は、おかしい。見ろ、あそこに海が見えるだろ。あなたはあの海まで、自分で創ったというのか?」
私「創ったわけではないが、この世界では、ぼくが想像した通りの世界になる」
男「だったら、あなたはこの世界の神か?」
私「少なくとも、あなたに関しては、そうだ。ぼくが目を覚ましたら、あなたは消える」
男「……消える! とんでもないことを言うな。君は。ぼくは消えない。夢だかなんだか知らないが、あなたが目をさましても、ぼくは、ここにいる。この世界に、だ」と。
かなりはげしいやり取りだった。
私もその男も、同じように興奮状態になっていた。
●荘子の『胡蝶の夢』
荘子と言えば、『胡蝶の夢』。
荘子の思想を表す逸話に、こんな話がある。
ある日荘子は夢を見る。
荘子が蝶になり、あちこちを舞ったあと、そこで目が覚める。
そこで荘子はこう考える。
「荘子が夢を見て蝶になったのか。それとも蝶が夢を見て荘子になったのか」と。
もちろん夢の中で、私が荘子のことを思い出したわけではない。
ただその男というのが、はたして夢の中に出てきた男なのか、それとも私自身だったのか、今、こうして夢の中の私を思い出しながら書いていると、それがよくわからない。
会話をしているのは、私と1人の男。
しかし私がその1人の男になったり、その男が、私になったりする。
あるいは夢の中で、私は、もう1人の「私」と対話をしていたのかもしれない。
「私が夢を見て、その男と話したのか。それとも、私がその男となって、私と話したのか」と。
●目を覚ます
……このあたりで、夢が覚め始めた。
というより、思い切って目を開いた。
とたん、目の前にいた、その男は消えた。
どこか生意気そうな男だった。
目を覚ます前、かなり強い反感を私は覚えていた。
だからふと、「ザマーミロ!」と思った。
その男が消えたことが、楽しかった。
「あの男は今ごろ、自分が消されて、悔しい思いをしているかもしれないな」と。
しかしすぐ私は現実に戻った。
横を見ると、ワイフが朝の薄日の中で、軽いいびきをかいて眠っていた。
私はそれまで見ていた夢のことを、しばらく考えた。
時刻は午前5時を過ぎていた。
遠くで、スズメが鳴いたような気がした。
●夢判断
私は夢を見た。
私が見た夢だから、自分の姿は見えなかった。
が、男の顔や姿は、よく見えた。
しかしその男が、私でなかったとは、とても思えない。
私が見た夢なら、私自身ということになる。
私の一部が、その男となって、夢の中に出てきた。
不愉快そうな顔をしていた。
その男は、私が、「あなたは、ぼくが勝手に創りあげた人間だ」と言ったとき、本気になって怒った。
それがおかしかった。
私は、自分の夢の中では、神以上の神だった。
すべての創造主。
その気になれば、(もちろん夢と気づいているときの間だけだが)、自分の思い通りの世界を創ることができる。
別の夢で、「これは夢」とわかったようなとき、私はわざと高い山から飛び降りて、空を飛ぶこともある。
そういう神業(わざ)的なことも、可能。
つまり何でもできる。
●逆転
が、ここでおもしろいことに気づく。
もし、仮に今、この世界が、だれかの夢の中の世界だったとしたら……ということ。
そこに1人の男が立っていて、「ここは私の夢の中の世界だ。あなたは私によって創られた人間だ」と言ったとしたら……。
つまり夢の中の「私」が、ちょうど反対の立場になったとする。
するとこの世界の見方が、一変する。
私はその男に向かって、こう言い返すだろう。
私「あなたの頭は、おかしい。見ろ、あそこに海が見えるだろ。あなたはあの海まで、自分で創ったというのか?」
男「創ったわけではないが、ぼくが想像した通りの世界になる」
私「だったら、あなたはこの世の神か?」
男「少なくとも、あなたに関しては、そうだ。ぼくが目を覚ましたら、あなたは消える」
私「……消えるだと! とんでもないことを言うね、君は。ぼくは消えないよ。夢だかなんだか知らないが、あなたが目をさましても、ぼくは、ここにいる。この世界に、ね」と。
●現実
実のところ、私は今、私が生きているこの世界そのものが、よくわからない。
そこに見えるのは、光と分子の織りなす世界。
それを見て、(もちろん音も聞いて)、そこにモノがあることを知る。
しかし目を閉じれば、一瞬にして、それらのモノは、視界から消える。
そこにモノが見えるのは、たまたまそれが見えるように目ができているからにほかならない。
たとえば暗い闇の世界を泳ぐイルカは、音波探知機のような機能を鼻先にもっていて、それでモノがあることを知るという。
一方、土の中に生きるミミズは、目が退化してしまっていて、モノを見ることができない。
(現実)といっても、それは人間にとっての現実であり、その(現実)は、動物によってみなちがう。
で、死ねば、どうなるか?
モノを見る「私」自身が消えるわけだから、モノを見ることはもうない。
その時点で、私たちが「現実」と呼んでいるものすべてが、消える。
この大宇宙もろとも、消える。
●すべてが夢の中
もちろん(現実)は(現実)。
(夢)は(夢)。
しかし私の年齢になると、どちらがどちらでも、もう構わないという心境になる。
「夢の中の方が現実」とだれかが言っても、「そうだな」と思う。
「現実は夢のようなもの」とまただれかが言っても、「そうだな」と思う。
自分の過去を振り返っても、それが(現実)というよりは、すべてが(夢)の中のできごとだったような気がする。
少なくとも「今」という時点から振り返ると、数日前に見た夢も、50年前に経験したことも、同じように見える。
夢の中で見た床屋も、どこか知らない土地で見かけた床屋も、同じように見える。
頭の中で区別するのが、むずかしい。
だから荘子のように……というふうに考えるのは危険なことかもしれないが、この世の中のモノすべてが、ナッシング(Nothing)のように思えてくる。
もっとわかりやすく言えば、私たちは、だれかが見ている夢の中で、それがそのだれかの夢とも気づかず、踊らされているだけ(?)。
そのだれかが目を覚ませば、私もろとも、この世の中のモノすべてが、消える。
●現実主義者
……といっても、私は現実主義者。
今までもずっとそうだった。
これからも、死ぬまでそうだろう。
霊的な世界の存在を信じていない。
が、冷酷な現実主義者ではない。
ちょうど子どもがサンタクロースの存在を信ずるように、「この世は、ひょっとしたら夢のようなものかもしれない」と思うことはある。
やがて私もあの世へ行くわけだが、その程度、つまりサンタクロース程度には死後の世界を信じている。
……とまあ、自分でも何を書いているか、よくわからなくなってきた。
ただ私がここに書きたいことは、現実だけがけっしてすべてではないということ。
現実にとらわれすぎると、かえって自分を見失ってしまうこともある。
ときには、そこに見える(現実)を疑ってみる必要もある。
そこにある世界がけっしてすべてではない。
同時に、そこにないからといって、別の世界を否定してはいけない。
窓の外から注ぎ込む白い光を見ながら、私はそんなことを考えた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 夢と現実 現実と夢 荘子 胡蝶の夢 荘周 新胡蝶の夢 夢論)
(補記)
私自身の過去を振り返っても、すべて夢の中のできごとだったように思うことは、よくある。
ただ(過去)といっても、それぞれの人や場所と、つながりがある。
そういった人に出会うと、それが現実だったことを知る。
しかしもしそういう人もいなくなってしまったら……。
そういう場所もなくなってしまったとしたら……。
そのとき私は、現実と夢を区別できるだろうか。
加齢とともに、だんだんとその自信が薄らいできた。
人生は夢のように短くはかないものである(李白「春夜宴従弟桃李園序」)。
Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司