最前線の子育て論byはやし浩司(2010年3月4日)
●負け戦
++++++++++++++++
負け戦ということは、よくわかっている。
英語で言えば、「loser(負け犬)」。
その私が精一杯、虚勢を張って生きている。
虚勢だ。
ありもしない名声を、あたかもあるかの
ように見せかけ、それにしがみついて
生きている。
ありもしない名誉を、あたかもあるかの
ように見せかけ、それにしがみついて
生きている。
できれば、何かの肩書きがほしい。
しかしそんなものは、どこにもない。
どこをさがしても、ない。
加えて自分の人生を振り返っても、
充実感などどこにもない。
やったことと言えば、自分の名誉と
財産づくりのため。
それだけ。
そのために、人を利用しただけ。
そういう私を知っている人は、私のような
人間など、相手にしない。
むしろ陰でこう言っている。
「あの林(=私)は、偉そうなことを
書いているが、中身は何もない」と。
弟子もいない。
恩師のTK先生にしても、そうだ。
私のほうで勝手に、「恩師」「恩師」と
言っているが、肝心のTK先生のほうは、
私のことなど、何とも思っていない。
「弟子」の中にも入っていない。
TK先生の文章のどこを読んでも、
「はやし浩司」の名前など、どこにも
出てこない。
出てくるはずもない。
ひがんでいるのではない。
私は、つまりは、その程度の人間でしかない。
「私は偉い」「私は立派だ」「私はすばらしい」と、
いくら人に訴えても、だれも見向きもして
くれない。
返ってくるのは、寒々とした孤独感だけ。
孤立感だけ。
そう言えば、昔、こんなバカがいた。
いつも私の家(=実家)にやってきて、
金儲けの自慢話ばかりしていた。
「今月は、いくら儲けた」
「来月は、いくら儲ける」と。
何でもだれかと、現金で1億円づくりを
競ったそうだ。
で、その競争に勝ったとか。
賞金の100万円を手にしたとか。
そんな話も聞かされた。
本人は、それで楽しいかもしれない。
おもしろいかもしれない。
しかしそれを聞かされるほうは、
たまったものではない。
当時、私の家は、貧しかった。
貧乏のどん底を這うような生活をしていた。
母は、その男が帰るたびに、玄関に
塩をまいていた。
よほど悔しかったのだろう。
が、そのバカのしたことと同じことを、
今、私がしている。
何のことはない。
この私が、だ。
私が同じことをしている。
いっぱしの教育者づらをして、いっぱしの
ことを書いて、威張っている。
ときに哲学者らしい文章を書くこともある。
しかしそれがどうしたというのだ。
何になるというのだ。
その答を聞くのが恐ろしいから、
あえて目をそむけ、生きているだけ。
今さら引き返そうにも、引き返すことも
できない。
人生をやり直そうにも、やり直すことも
できない。
「まちがっていた」と敗北を認めることも
できない。
認めたとたん、そこは自己否定の世界。
無間地獄。
だからまたまた虚勢を張って、生きる。
虚勢にしがみついて、生きる。
そこに何もないことを知っている。
明日に、何もないことも、知っている。
しかしここで虚勢を棄てることもできない。
ひょっとしたら、何かあるかもしれない。
明日になれば、何か変わるかもしれない。
そんな思いに希望を託して、今日も
がんばる。
がんばるしかない。
裸の体に、赤や青の鳥の羽をつけて、
それらしく体裁を整えて生きていく。
「講演会の感想が届きました」
「HPやBLOGへのアクセス数が、
月間30万件を超えました」と。
だからといって、それがどうしたというのか。
だからといって、だれが私を、それで認めて
くれるというのか。
それで周囲の人たちの心が、少しは
変わるとでもいうのか。
答はわかっている。
わかっているが、そこまで。
あえて自分の耳をふさぐ。
ふさいで、知らぬ顔をする。
今日も始まった。
今日も虚勢を張って生きる。
虚勢を張って生きる。
虚勢にしがみついて生きるしかない。
それしかない。
+++++++++++++++++
●モーフィング
昨日は、数時間、ひまがあったので、モーフィングに挑戦してみた。
以前からやってみたかったが、きっかけがなかった。
だから昨日、やってみた。
モーフィングというのは、ひとつの顔から、別の顔に変身させる技術をいう。
よくSF映画などに、それが出てくる。
映画『ターミネーター』の中にも、出てきた。
で、処女作は、まあまあのでき。
2作目は、うまくできた。
「ここが最前線の子育て論」の中に、収録しておいた。
6歳の時の顔から、60歳のときの顔にモーフィングさせてみた。
で、夜になって、ワイフが、「映画に行かない?」と、私を誘った。
時計を見ると、8時を回っていた。
で、映画を観に行ってきた。
映画は、『パーシー・ジャクソンと、オリンポスの神々』。
日本語吹き替え版。
ちょうどよい時間帯のものは、それしかなかった。
映画そのものは、星2つ前後の、★★(マイナス)。
10日もすれば、題名すら忘れてしまうような映画だった。
ただ地獄のシーンは、圧巻だった。
その映画を観ながら、あちこちで、モーフィング技術が使われているのを知った。
「あちこち」というより、「いたるところ」。
「映画は、こんなふうにして作るのだ」と、感心しながら映画を観た。
あとは、時間の問題。
つまり時間さえかけれれば、私にだって、同じような映画ができる。
映画が終わって家に帰ってみると、深夜0時を回っていた。
が、寝る前に、もう1作、モーフィングを使って、映像を作ってみた。
コアラが私の顔に変身するものだった。
しかしこれは失敗。
時間こそ、10分足らずでできたが、コアラと私では、あまりにも違いすぎた。
それを見て、ワイフとゲラゲラ笑った。
我ら、不良老人!
ついでに、先週は、『恋するベイカリー』(メリル・ストリープ主演)という映画と、『インビクタス』(モーガン・フリーマン主演)の2本の映画を観てきた。
メリル・ストリープの映画は、『マジソン郡の橋』以来、すべて、観ている。
評価は、星は2つか3つの、★★。
『インビクタス』は、星3つか4つの、★★★★(-)。
印象に残る映画だった。
週末から、新しい映画が、つぎつぎと封切りになる。
楽しみ。
全部、観る!
●手続き記憶
パソコンを使って、映像を加工する。
いろいろな方法がある。
いろいろな映像に、加工できる。
今はモーフィングだが、少し前、こんな経験をした。
似たような技術に、「FLASH」というのがある。
ホームページなどを開くと、パッパツと映像が、勝手に変わっていくのがある。
あれが「FLASH」である。
数年前は、それを自由に使いこなすことができた。
で、先月、再び、それを使ってみた。
が、使い始めて、がっかり。
何度やっても、うまくいかない。
「そんなはずはない」と思ってやってみたが、うまくいかない。
方法はビデオ編集と似ている。
要領はわかっているはず。
……ということで、またまた「脳みその底の穴」を、経験した。
たった数年だが、その間に、脳みその底の穴から、知識や記憶が、流れ落ちてしまった。
老後の恐ろしいところは、ここにある。
若いときには、こんなことはなかった。
しかし今は、ちがう。
新しい技術を覚えても、しばらく使わないでいると、どんどんと忘れてしまう。
で、今は、モーフィング。
簡単な技術だから、忘れることはないかもしれない。
しかしその可能性は、ないとも言えない。
心のどこかで、そんなことを心配しながら、モーフィングを楽しんだ。
要するに大切なことは、忘れることを恐れないこと。
その分だけ、新しいことを、どんどんと覚えていけばよい。
たとえて言うなら、川の流れのようなもの。
水を涸(か)らさないようにすること。
水の流れを止めないようにすること。
●中国の大干ばつ
中国の南部で、大干ばつが起きているらしい。
1500万人近くの人たちが、水不足で、苦しんでいるという。
つい先週には、「数百万人……」と報道していたから、干ばつが深刻化している(?)。
CRI-online(3月2日)は、つぎのように伝えている。
『…… 中国国家洪水干ばつ対策総指揮部の最新統計によりますと、3月2日現在、全国で干ばつの被害を受けた農作物の面積は430万ヘクタール余りに達し、1501万人の飲用水が不足しています。
そのうち、雲南と貴州、広西、重慶、四川の5つの地域が総被災面積の8割を占め、被害状況も極めて深刻です。3月に入ってからも、降雨量は例年を下回り、干ばつによる被害は、引き続き広がると見られています。
これを受けて、中国国家洪水干ばつ対策総指揮部は2日、緊急対策会議を開き、住民の飲用水を優先した上で、工業用水と農業用水を確保し、現地の状況に応じた措置を講じるよう各地方政府に求めました』と。
中国というところは、なにごとにつけ、スケールが日本より1桁、大きい。
「430万ヘクタール」「1501万人」!
地域によっては、今年に入ってから、雨量ゼロのところもあるという。
(しかしどうして、「1500万人」ではなく、「1501万人」なのだろう?)
都会に住んでいると、それがわからないかもしれない。
しかし「水不足」ほど、恐ろしいものはない。
このあたりでも、水田に水を引く時期になると、あちこちで騒動が起きる。
水がじゅうぶんあっても、騒動が起きる。
水不足ともなれば、なおさら。
村の人たちの様子も、殺気だってくる。
私の山荘のほうでも、1~2月の渇水期に、ときどき水が涸れることがある。
「不便」などというものではない。
長くつづけば、山荘を放棄しなければならない。
そんなことも考えなくてはならない。
「水は、生活の命」。
それを忘れてはいけない。
電気やガスは、なくても、何とかなる。
しかし水がなければ、生活そのものができない。
今ごろ、中国のそのあたりでは、私たちの想像もつかないようなドラマが展開されているにちがいない。
どうか、中国のみなさん、心安らかに!
●ビデオカメラ
この1年以上、V社のビデオカメラを、よく使った。
YOUTUBEへの動画だけでも、1500本(1本、10分)近く、それを使って撮った。
使い方が荒っぽいせいか、今では傷だらけ。
あちこちにガタが出てきた。
モニター画面を開くと、自動的に録画スタンバイになるはずなのに、ときどき電源が入らなくなる、など。
保証期間は、延長保証をつけてもらったから、4年。
近く修理に出すつもり。
が、修理に出している間、どうするか?
……ということで、数日前、近くの大型店へ足を運んでみた。
新しいビデオカメラを物色してみた。
で、そこへ行ってみて、驚いた。
この1年で、ビデオカメラが、またまた進歩した。
今では、フル・ハイビジョンは、常識。
手ぶれ防止付きも、常識。
S社のビデオカメラなどは、手のひらのすっぽりと収まるほど、小さくなっていた。
さらにビデオカメラをDVDライターに直接つなげて、そのまま動画を保存することもできるという。
(従来は、一度、パソコンを経由しなければならなかった。)
「ヘエ~」と驚きながら、カメラをいじらせてもらった。
……ところで、テレビのほうでは、すでに3D放送が始まっている。
特殊なメガネをかけて観る。
この世界は、いったい、どこまで進むのか?
おもしろい……というより、恐ろしい。
「だから、それがどうしたの?」という部分だけが、置き去りになったまま、技術だけがどんどんと進歩していく。
だから恐ろしい。
●悪あがき
さて、冒頭に書いた話に戻る。
定年退職したあとも、過去の地位や肩書きにこだわる人は多い。
さらに最後の最後まで、地位や肩書きを、追い求める人も多い。
しかしそんなものにこだわっているかぎり、安穏とした日々は、ぜったいにやってこない。
こないが、そういう人たちは、その(こだわり)を棄てることができない。
棄てたとたん、自己否定の世界に陥ってしまう。
だから、こ・だ・わ・る。
「オレは、偉いんだぞ!」と。
しかしこれだけは言える。
統合性の確立(やるべきことと、現実にしていることの一致)を目指すなら、過去の地位や肩書きは、早く棄てた方がよい。
忘れたほうがよい。
一度、「無」の状態で、裸になる。
そこから老後の第二の人生を、設計する。
でないと、ますます人に相手にされなくなる。
言い替えると、「悪あがき」だけは、やめたほうがよい。
言うなれば、それは麻薬のようなもの。
それに溺れれば溺れるほど、後遺症は、深くなる。
そこにあるのは、底なしの孤独という、無間地獄。
何が恐ろしいかといって、「孤独」ほど、恐ろしいものはない。
あのイエス・キリストだって、「渇き」、つまり「孤独」に苦しんだ。
今の私がそうだが、「負け犬」を認めることは、たしかにつらい。
しかし人生は、ここから始まる。
始めるしかない。
さあ、今日もがんばろう!
2010年3月4日。
外では、冷たい小雨が降っている。
Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司
●負け戦
++++++++++++++++
負け戦ということは、よくわかっている。
英語で言えば、「loser(負け犬)」。
その私が精一杯、虚勢を張って生きている。
虚勢だ。
ありもしない名声を、あたかもあるかの
ように見せかけ、それにしがみついて
生きている。
ありもしない名誉を、あたかもあるかの
ように見せかけ、それにしがみついて
生きている。
できれば、何かの肩書きがほしい。
しかしそんなものは、どこにもない。
どこをさがしても、ない。
加えて自分の人生を振り返っても、
充実感などどこにもない。
やったことと言えば、自分の名誉と
財産づくりのため。
それだけ。
そのために、人を利用しただけ。
そういう私を知っている人は、私のような
人間など、相手にしない。
むしろ陰でこう言っている。
「あの林(=私)は、偉そうなことを
書いているが、中身は何もない」と。
弟子もいない。
恩師のTK先生にしても、そうだ。
私のほうで勝手に、「恩師」「恩師」と
言っているが、肝心のTK先生のほうは、
私のことなど、何とも思っていない。
「弟子」の中にも入っていない。
TK先生の文章のどこを読んでも、
「はやし浩司」の名前など、どこにも
出てこない。
出てくるはずもない。
ひがんでいるのではない。
私は、つまりは、その程度の人間でしかない。
「私は偉い」「私は立派だ」「私はすばらしい」と、
いくら人に訴えても、だれも見向きもして
くれない。
返ってくるのは、寒々とした孤独感だけ。
孤立感だけ。
そう言えば、昔、こんなバカがいた。
いつも私の家(=実家)にやってきて、
金儲けの自慢話ばかりしていた。
「今月は、いくら儲けた」
「来月は、いくら儲ける」と。
何でもだれかと、現金で1億円づくりを
競ったそうだ。
で、その競争に勝ったとか。
賞金の100万円を手にしたとか。
そんな話も聞かされた。
本人は、それで楽しいかもしれない。
おもしろいかもしれない。
しかしそれを聞かされるほうは、
たまったものではない。
当時、私の家は、貧しかった。
貧乏のどん底を這うような生活をしていた。
母は、その男が帰るたびに、玄関に
塩をまいていた。
よほど悔しかったのだろう。
が、そのバカのしたことと同じことを、
今、私がしている。
何のことはない。
この私が、だ。
私が同じことをしている。
いっぱしの教育者づらをして、いっぱしの
ことを書いて、威張っている。
ときに哲学者らしい文章を書くこともある。
しかしそれがどうしたというのだ。
何になるというのだ。
その答を聞くのが恐ろしいから、
あえて目をそむけ、生きているだけ。
今さら引き返そうにも、引き返すことも
できない。
人生をやり直そうにも、やり直すことも
できない。
「まちがっていた」と敗北を認めることも
できない。
認めたとたん、そこは自己否定の世界。
無間地獄。
だからまたまた虚勢を張って、生きる。
虚勢にしがみついて、生きる。
そこに何もないことを知っている。
明日に、何もないことも、知っている。
しかしここで虚勢を棄てることもできない。
ひょっとしたら、何かあるかもしれない。
明日になれば、何か変わるかもしれない。
そんな思いに希望を託して、今日も
がんばる。
がんばるしかない。
裸の体に、赤や青の鳥の羽をつけて、
それらしく体裁を整えて生きていく。
「講演会の感想が届きました」
「HPやBLOGへのアクセス数が、
月間30万件を超えました」と。
だからといって、それがどうしたというのか。
だからといって、だれが私を、それで認めて
くれるというのか。
それで周囲の人たちの心が、少しは
変わるとでもいうのか。
答はわかっている。
わかっているが、そこまで。
あえて自分の耳をふさぐ。
ふさいで、知らぬ顔をする。
今日も始まった。
今日も虚勢を張って生きる。
虚勢を張って生きる。
虚勢にしがみついて生きるしかない。
それしかない。
+++++++++++++++++
●モーフィング
昨日は、数時間、ひまがあったので、モーフィングに挑戦してみた。
以前からやってみたかったが、きっかけがなかった。
だから昨日、やってみた。
モーフィングというのは、ひとつの顔から、別の顔に変身させる技術をいう。
よくSF映画などに、それが出てくる。
映画『ターミネーター』の中にも、出てきた。
で、処女作は、まあまあのでき。
2作目は、うまくできた。
「ここが最前線の子育て論」の中に、収録しておいた。
6歳の時の顔から、60歳のときの顔にモーフィングさせてみた。
で、夜になって、ワイフが、「映画に行かない?」と、私を誘った。
時計を見ると、8時を回っていた。
で、映画を観に行ってきた。
映画は、『パーシー・ジャクソンと、オリンポスの神々』。
日本語吹き替え版。
ちょうどよい時間帯のものは、それしかなかった。
映画そのものは、星2つ前後の、★★(マイナス)。
10日もすれば、題名すら忘れてしまうような映画だった。
ただ地獄のシーンは、圧巻だった。
その映画を観ながら、あちこちで、モーフィング技術が使われているのを知った。
「あちこち」というより、「いたるところ」。
「映画は、こんなふうにして作るのだ」と、感心しながら映画を観た。
あとは、時間の問題。
つまり時間さえかけれれば、私にだって、同じような映画ができる。
映画が終わって家に帰ってみると、深夜0時を回っていた。
が、寝る前に、もう1作、モーフィングを使って、映像を作ってみた。
コアラが私の顔に変身するものだった。
しかしこれは失敗。
時間こそ、10分足らずでできたが、コアラと私では、あまりにも違いすぎた。
それを見て、ワイフとゲラゲラ笑った。
我ら、不良老人!
ついでに、先週は、『恋するベイカリー』(メリル・ストリープ主演)という映画と、『インビクタス』(モーガン・フリーマン主演)の2本の映画を観てきた。
メリル・ストリープの映画は、『マジソン郡の橋』以来、すべて、観ている。
評価は、星は2つか3つの、★★。
『インビクタス』は、星3つか4つの、★★★★(-)。
印象に残る映画だった。
週末から、新しい映画が、つぎつぎと封切りになる。
楽しみ。
全部、観る!
●手続き記憶
パソコンを使って、映像を加工する。
いろいろな方法がある。
いろいろな映像に、加工できる。
今はモーフィングだが、少し前、こんな経験をした。
似たような技術に、「FLASH」というのがある。
ホームページなどを開くと、パッパツと映像が、勝手に変わっていくのがある。
あれが「FLASH」である。
数年前は、それを自由に使いこなすことができた。
で、先月、再び、それを使ってみた。
が、使い始めて、がっかり。
何度やっても、うまくいかない。
「そんなはずはない」と思ってやってみたが、うまくいかない。
方法はビデオ編集と似ている。
要領はわかっているはず。
……ということで、またまた「脳みその底の穴」を、経験した。
たった数年だが、その間に、脳みその底の穴から、知識や記憶が、流れ落ちてしまった。
老後の恐ろしいところは、ここにある。
若いときには、こんなことはなかった。
しかし今は、ちがう。
新しい技術を覚えても、しばらく使わないでいると、どんどんと忘れてしまう。
で、今は、モーフィング。
簡単な技術だから、忘れることはないかもしれない。
しかしその可能性は、ないとも言えない。
心のどこかで、そんなことを心配しながら、モーフィングを楽しんだ。
要するに大切なことは、忘れることを恐れないこと。
その分だけ、新しいことを、どんどんと覚えていけばよい。
たとえて言うなら、川の流れのようなもの。
水を涸(か)らさないようにすること。
水の流れを止めないようにすること。
●中国の大干ばつ
中国の南部で、大干ばつが起きているらしい。
1500万人近くの人たちが、水不足で、苦しんでいるという。
つい先週には、「数百万人……」と報道していたから、干ばつが深刻化している(?)。
CRI-online(3月2日)は、つぎのように伝えている。
『…… 中国国家洪水干ばつ対策総指揮部の最新統計によりますと、3月2日現在、全国で干ばつの被害を受けた農作物の面積は430万ヘクタール余りに達し、1501万人の飲用水が不足しています。
そのうち、雲南と貴州、広西、重慶、四川の5つの地域が総被災面積の8割を占め、被害状況も極めて深刻です。3月に入ってからも、降雨量は例年を下回り、干ばつによる被害は、引き続き広がると見られています。
これを受けて、中国国家洪水干ばつ対策総指揮部は2日、緊急対策会議を開き、住民の飲用水を優先した上で、工業用水と農業用水を確保し、現地の状況に応じた措置を講じるよう各地方政府に求めました』と。
中国というところは、なにごとにつけ、スケールが日本より1桁、大きい。
「430万ヘクタール」「1501万人」!
地域によっては、今年に入ってから、雨量ゼロのところもあるという。
(しかしどうして、「1500万人」ではなく、「1501万人」なのだろう?)
都会に住んでいると、それがわからないかもしれない。
しかし「水不足」ほど、恐ろしいものはない。
このあたりでも、水田に水を引く時期になると、あちこちで騒動が起きる。
水がじゅうぶんあっても、騒動が起きる。
水不足ともなれば、なおさら。
村の人たちの様子も、殺気だってくる。
私の山荘のほうでも、1~2月の渇水期に、ときどき水が涸れることがある。
「不便」などというものではない。
長くつづけば、山荘を放棄しなければならない。
そんなことも考えなくてはならない。
「水は、生活の命」。
それを忘れてはいけない。
電気やガスは、なくても、何とかなる。
しかし水がなければ、生活そのものができない。
今ごろ、中国のそのあたりでは、私たちの想像もつかないようなドラマが展開されているにちがいない。
どうか、中国のみなさん、心安らかに!
●ビデオカメラ
この1年以上、V社のビデオカメラを、よく使った。
YOUTUBEへの動画だけでも、1500本(1本、10分)近く、それを使って撮った。
使い方が荒っぽいせいか、今では傷だらけ。
あちこちにガタが出てきた。
モニター画面を開くと、自動的に録画スタンバイになるはずなのに、ときどき電源が入らなくなる、など。
保証期間は、延長保証をつけてもらったから、4年。
近く修理に出すつもり。
が、修理に出している間、どうするか?
……ということで、数日前、近くの大型店へ足を運んでみた。
新しいビデオカメラを物色してみた。
で、そこへ行ってみて、驚いた。
この1年で、ビデオカメラが、またまた進歩した。
今では、フル・ハイビジョンは、常識。
手ぶれ防止付きも、常識。
S社のビデオカメラなどは、手のひらのすっぽりと収まるほど、小さくなっていた。
さらにビデオカメラをDVDライターに直接つなげて、そのまま動画を保存することもできるという。
(従来は、一度、パソコンを経由しなければならなかった。)
「ヘエ~」と驚きながら、カメラをいじらせてもらった。
……ところで、テレビのほうでは、すでに3D放送が始まっている。
特殊なメガネをかけて観る。
この世界は、いったい、どこまで進むのか?
おもしろい……というより、恐ろしい。
「だから、それがどうしたの?」という部分だけが、置き去りになったまま、技術だけがどんどんと進歩していく。
だから恐ろしい。
●悪あがき
さて、冒頭に書いた話に戻る。
定年退職したあとも、過去の地位や肩書きにこだわる人は多い。
さらに最後の最後まで、地位や肩書きを、追い求める人も多い。
しかしそんなものにこだわっているかぎり、安穏とした日々は、ぜったいにやってこない。
こないが、そういう人たちは、その(こだわり)を棄てることができない。
棄てたとたん、自己否定の世界に陥ってしまう。
だから、こ・だ・わ・る。
「オレは、偉いんだぞ!」と。
しかしこれだけは言える。
統合性の確立(やるべきことと、現実にしていることの一致)を目指すなら、過去の地位や肩書きは、早く棄てた方がよい。
忘れたほうがよい。
一度、「無」の状態で、裸になる。
そこから老後の第二の人生を、設計する。
でないと、ますます人に相手にされなくなる。
言い替えると、「悪あがき」だけは、やめたほうがよい。
言うなれば、それは麻薬のようなもの。
それに溺れれば溺れるほど、後遺症は、深くなる。
そこにあるのは、底なしの孤独という、無間地獄。
何が恐ろしいかといって、「孤独」ほど、恐ろしいものはない。
あのイエス・キリストだって、「渇き」、つまり「孤独」に苦しんだ。
今の私がそうだが、「負け犬」を認めることは、たしかにつらい。
しかし人生は、ここから始まる。
始めるしかない。
さあ、今日もがんばろう!
2010年3月4日。
外では、冷たい小雨が降っている。
Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司