最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●子育てポイント(2)

2009-07-23 07:15:33 | Weblog
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(529)

●タイムトラベル

 突然、一人の少女からメールが入った。オーストラリア人のソフィという少女だった。「小学校で日本語の勉強をしているから、日本のことを教えてほしい」と。その少女は、友人の妹の子どもだった。私はそのメールの返事を書いているとき、なつかしさで涙がこぼれた。

 私は留学時代、休暇になると友人の牧場で過ごした。アデレードから北へ一〇〇キロほどのところにある、ナンタワラというところだった。そこでの生活は、私にとっては、まさに夢のような生活だった。昼は一日中、あの牧場を歩き回った。夜は夜で、寝るのもおしんで、ディンゴー(野生化した犬)の、遠吠えを聞いた。その友人の妹が、イーボンという女の子だった。当時、小学四年生くらいだった。

 そのあたりでは、子どもたちは無線で勉強していた。週に一、二度、スクーリングといって、近くの学校で授業を受けていたが、集団教育はそれだけ。何といっても隣の家まで、数キロという土地がらである。(たまたま隣の家が接近していたので、数キロだが、実際には友人の牧場だけでも、一〇キロ四方はあった。)たいていは親に学校まで、車で送り迎えしてもらっていたが、馬で行くこともあった。馬のほうが牧場を横切っていくので、時間的には早く学校に着くということだった。

 その妹、つまりイーボンの娘が、ソフィという少女だった。私はそのソフィに返事を書いているとき、ソフィとイーボンが区別つかなくなってしまった。名前こそ違うが、しかし現在から過去に向かってメールを書いている。……そんな思いが、頭から離れなかった。いや、もう少し親密に交際していれば、そういう錯覚もないのだろう。が、一〇年単位で時間が途切れると、その一〇年ずつが、どこかでくっついてしまう。今という「時」が、そのまま三〇年前とくっついてしまう。

 友人の父親は数年前になくなった。あのナンタワラも砂漠化が進み、友人一家も、もう二〇年前に、今の土地に移り住んだ。もうあの時代は、さがしても、どこにもない。が、その時代から、一人の少女が生まれ、その少女に、私はメールを書いている。それはまさしく、私にとっては、タイムトラベルそのもの。私はあのときという過去に向かって、あのときの未来から、イーボンにメールを書いている。それは本当に不思議な経験だった。

 「あなたのお母さんのイーボンは、本当に心のやさしい、すてきな女の子でした。いつもナンタワラでは親切にしてもらいました。いつか日本へ来るようなことがあれば、ぜひ、私の家に来るように伝えてください。いつでも大歓迎します。心から大歓迎します。ヒロシより」と。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(530)

●因果な商売

 まだ掛け算もあやしい子ども(小四)がいた。この学年で、掛け算があやしいというのは、致命的といってもよい。小学三年で二桁掛ける二桁の掛け算、小学四年で割り算へと進む(旧教科書)。掛け算があやしいということは、すべてにそれが影響してくる。

 このタイプの子どもは、当然のことながら、学校でも自信をなくしていることが多い。まず自信をもたせることが、指導の中心になる。その子どももそういう方針で教えることにした。一番よい方法は、一学年レベルをさげること。が、親は、それに猛烈に抵抗した。「学年をさげれば、本人がキズつきます。プライドも許さないでしょう。何とか、四年生のクラスで教えてほしい」と。

 で、私は四年生のクラスへ、その子どもを入れた。が、何かにつけて、その子どもが、クラス全体の足を引っ張った。そしてそういう状態が、数か月から半年とつづくと、クラス全体の雰囲気がこわれてしまう。しかしその子どもにとっては、居心地のよい世界だった。やがて何とか、その学年の授業にはついていけるようになった。が、とたん、「BW(私の教室を)やめます」と。

 この世界。できる子どもほど、やめ方がドライ。しかしできない子どもは、もっとドライ。少しでもできるようになると、「もっと……」とか「さらに……」と考えて、大きな進学塾へと移っていく。そういう気持ちはわからないでもないが、しかし結局はキズつくのは、私だけ。「こんなことなら、はじめっから、引きうけなければよかった」と思うことさえある。

 もっともこんなことは日常茶飯事で、それでキズついていたら、この仕事は務まらない。「君は、よくがんばったね。どこへ行っても、もうだいじょうぶだよ」と言い終わると同時に、その子どものことは忘れる。私はやるべきことはした。悔いはない。あとはその子どもの問題。親の問題。私の問題ではない。

 ただこういうことは言える。こういう仕事を、三〇年もしていると、子どもの将来が手に取るようにわかるときがある。その子どものときも、そうだ。「ここ数か月はだいじょうぶだとしても、半年後には、またもとの状態にもどるだろうな」と思った。私の教室は、教室といっても、一クラス、五~八人程度。月謝も、合計しても、学生の家庭教師代より安い。そういう子どもが、一クラス、二〇~三〇人もいる進学塾へ入れば、どうなるか? ……この先は書きたくない。親自身が、自分で失敗して、それを知るしかない。

 ごく最近、私の友人(四五歳)が、二〇年務めた進学塾の講師をやめて、パソコンのソフト会社を起こした。その友人はこう言っている。「二度と、あんな仕事はしたくない。もうコリゴリ」と。「あんな仕事」というのは、進学指導をいう。その気持ちは、よくわかる。痛いほど、よくわかる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(531)

●おかしな計算

 先日も小学生たちが騒いでいたので、「静かにしなさい。今、先生(私)は、四五センチメートル、怒っている」と言ったら、子どもたちは「何、それ?」と。「つまりこれくらい怒っている」と、両手でそのハバを示してみたのだが、「それはおかしい。怒っているのを、センチで言うなんて、おかしい」と。たしかにおかしい。しかしそれと同じようなおかしなことを、おとなたちが今、平気でしている?

 今は、そういうシーズン。いくらかのお金をもってデパートへ行く。そして「AさんとBさんは、七〇〇〇円。CさんとDさんは、五〇〇〇円。EさんとFさんは三〇〇〇円でいい」と。人間関係を、お金という尺度ではかっている。しかし考えてみれば、これほどおかしなことはない。 

 プレゼントをもらうほうもそうだ。最近では少なくなったが、たいていは箱の横に数字が書いてある。三〇とか、五〇とか。そういう数字をみて、「Aさんは三〇〇〇円、Bさんは五〇〇〇円」とかいう。相手の心を、お金という尺度ではかろうとする。しかし考えてみれば、これほどおかしなことはない。

 もっともこうした関係がビジネスの世界でのことならよいが、これが家庭に入ると、親子関係そのものまでおかしくなる。

今、成人男女で、将来、どうしても親のめんどうをみると答えている若者は、一九%(総理府、平成九年)しかいない。あの合理主義のかたまりであるかのようなアメリカの若者でさえ、六三%。東南アジアの国々の若者では、何と七〇~八〇%。日本の若者のほとんどは、「生活力に応じて、みる」(六六%・平成六年)と答えている。これを裏から読むと、「余裕がなければみない」ということになるのだが……。つまり親の恩も金次第。親のめんどうも遺産しだいということになる。

 考えてみれば、これもおかしなことだ。親の恩も金次第ということがおかしいと言っているのではない。今の若者たちは、世界でも類のないほど、飽食とぜいたくを経験した子どもである。もっとも恵まれた環境で育った子どもである。その子どもたちが、「生活力に余裕があれば、みる」と。戦後の私たちは、高度成長という未曾有の経済的発展をなしとげたが、その一方でなくしたものも多い。そのひとつが、人間らしい心ということになる。

 ……とまあ、否定的なことばかり言ってもしかたないので、ひとつの提案。オーストラリアの友人の家では、「プレゼントは買ったものではだめ」という習慣がある。それが徹底しているため、客でいく私のようなものにさえ、みやげに手作りのものをくれる。日本人の私たちからみると、「あれっ」と思うようなものだが、それが彼らの常識ということになる。えてして日本人は、豪かなプレゼントであればあるほど、相手の心をつかんだはずと考える。親子であれば、きずなが太くなったと考える。しかしこれは誤解。あるいはかえって逆効果。が、「買ったものではだめ」という習慣が徹底すると、ものの考え方が一八〇度変わる。一度、試してみる価値はある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(532)

●心理テスト

 こんな心理テストを考えてみた。以前、何かの本で読んだテストだが、それを参考に、子ども用(小学生用)に、つくりなおしてみた。

「一人の女の子が、夜遅くまで、ネコさんと公園で遊んでいました。お母さんは『早く帰っておいで』と言ったのですが、ネコさんが、『もっと遊ぼう』と言って、女の子を帰してくれませんでした。が、あたりがまっ暗になったので、ネコさんと別れて、家に帰ることにしました。女の子が家に向かって歩いていると、橋の上に、オオカミがいました。そこで女の子は、橋の近くに仲のよい犬さんが住んでいたのを思い出し、犬さんの家に行き、一緒に行ってほしいと頼みました。犬さんは、『夜はこわいからイヤだ』と言って、それを断りました。しかたないので、女の子は、橋を走って渡ることにしました。が、女の子は、オオカミにつかまり、食べられてしまいました」

 この文を子どもの前で、ゆっくりと二度読み、「このお話の中で、一番悪いのはだれかな」と聞いてみる。子どもが、「悪い」と言った相手によって、子どもの心理を知ることができる。

ネコ……ものの考え方が受動的。依存心、依頼心が強い。行動も追従的かつ服従的。
犬……正義感が強く、ものの考え方が積極的。クラスでもリーダー的な存在。
オオカミ……単純。ものごとを深く考えない。短絡的なものの考え方をする。
女の子……善悪の倫理観が強く、自分を律する力が強い。責任感も強い。

 低学年児ほど、ネコ、オオカミが悪いと答え、高学年になればなるほど、犬、女の子が悪いと答えるようになる。※

 なお子どもの善悪の判断力は、年中から年長児にかけて、急速に発達する。こんなテストをしてみると、それがわかる。

 「男の子が歩いていると、お金を拾いました。その男の子は、そのお金でアイスを買って、公園でみんなに分けてあげました。みんなは、『ありがとう』と言って、喜んで食べました。この男の子は、いい子ですか、悪い子ですか」と。

 このテストをすると、年中児のほとんどは、「いい子」と答える。年長児でも、三~四割の子どもは、「いい子」と答える。しかしその段階で、「お金を拾ったら、そのお金はどうしますか?」「拾ったお金をつかってもいいのかな?」「アイスを、子どもが勝手に食べてもいいのかな?」「お母さんが、食べてもいいと言っていないものを、食べてもいいのかな?」などと問いかけると、ほとんどの子どもは、「やっぱり悪い子だ」と言う。もっともこうした道理がわからない子どもも、年長児で一~二割はいる。日常的に、静かに考える習慣のない子どもとみる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(533)

●心理テスト(2)

先のテストで、小四~中学生、二〇人の子どもの意見を聞いてみた。

「犬が悪い。いっしょに女の子についていってあげなかったから。女の子が困っているのだから、ついていってあげるべきだった」(小四女子)
「ネコが悪い。夜遅くまで遊んでいた。女の子をもっと早く、家に帰してあげるべき」(小四女子)
「女の子が悪い。ネコさんの挑発にのったのが悪い。ネコさんにもっとはっきりと断るべきだった。ネコというのは、オオカミとグルかもしれない」(小四男子)
「ネコが悪い。自分勝手だと思う。女の子としつこくいっしょに遊ぼうとした。だからオオカミに食べられてしまった」(小四女子)
「ネコが悪い。夜遅くまで遊んでいたから」(小四女子)
「オオカミが悪い。女の子を食べたから」(小四男子)
 最後の男の子が、「オオカミが悪い」と発言したら、いっしょにいた小四の子どもたち全員(五人)が、「タンジュ~ン(単純)!」と声をあげた。これもひとつの意見と考えてよい。
「女の子が悪い。帰ろうと思えば帰れたのに、帰らなかったのは女の子の責任」(小五男子)
「ネコが悪い。女の子が帰りたいと言ったのに帰してあげなかったので、ネコが悪い。女の子の責任ではない」(中一女子)
「女の子が悪い。自分の意思で帰らなかった女の子が悪い。オオカミに食べられたのは、自業自得。しかたのないこと」(中三男子)
「オオカミが悪い。女の子を食べたのはオオカミ。何といってもオオカミが悪い」(中三女子)

ほかに、一五人(小六~中一、計二五人)の集計を加えると、結果はつぎようになった。
  女の子……10人(40%)
              ネコ …… 8人(32%)
              オオカミ… 5人(20%)
              イヌ …… 2人( 8%)、ということになった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(534)

●名前と自尊心

 自分を大切にする。それが子どもの自尊心につながり、この自尊心が、子どもの道徳や倫理の基礎となる。その第一歩が、「名前を大切にする」。

 子どもの名前は、大切にする。子どもの名前が書いてあるものは、粗末にあつかわない。新聞や雑誌に、子どもの名前が出たら、その新聞や雑誌は、ていねいにあつかう。切り抜いて壁に張ったり、アルバムにしまったりする。そして日ごろから、「あなたの名前はいい名前ね」「あなたの名前を大切にしようね」と教える。

子どもは自分の名前を大切にすることから、自分を大切にすることを学ぶ。まちがっても、子どもの名前を茶化したり、からかってはいけない。名前は、その子どもの人格そのものと考える。

 実のところ、この私も、自分の名前(はやし浩司)だけは大切にしている。人格的にも、道徳的にもボロボロの人間だが、名前を大切にすることによって、かろうじて自分を支えている。「名前を汚したくない」という思いが、いろいろな場面で、心のブレーキとして働くことが多い。それは他人の目に届くとか、届かないとかいうことではない。

たとえばこうして文を書いているが、いまだかって(当然だが)、他人の文章を盗用したことは一度もない。だれにも読んでもらえない文とわかっていても、それはしない。できない。もしそれをしたら、そのとき、「はやし浩司」という「私」は終わる。

 一方、こんな子どもがいた、その家は、女の子ばかりの三人姉妹。上から、麗菜、晴美、みどり。その「みどり」という子ども(小四)にある日、「名前を漢字で書いてごらん」と指示すると、その女の子はさみしそうにこう言った。「だって私には漢字がないもん」と。女の子が三人もつづくと、親もそういう気持ちになるらしい。しかしこういうことは、本来、あってはならない。

 そう言えば以前、自分の子どもに、「魔王」とかそんなような名前をつけた、親がいた。とんでもない名前である。ときどきこうした私の常識では理解できない親が現れる。あまりにも私の常識からはずれているため、論ずることもできない。ただ、今ごろあの子どもはどうしているかと、ときどき考える。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(535)

●親の気負い、子どもの気負い

 不幸にして不幸に育った人ほど、「いい親でなければならない」「いい家庭をつくらねばならない」という気負いが強い。その気負いが親子関係をぎくしゃくさせる。そして結果として、よい家庭づくりに失敗しやすい。

 親ばかりではない。子ども自身が、「いい子でいなければならない」という気負いをもつことがある。たいていはこうした気負いはプラスに作用するが、しかしその気負いが強すぎると、子ども自身が疲れてしまう。疲れるならまだしも、あるとき突然、プッツンということにもなりかねない。これがこわい。

 子どもにかぎらず、人は、無意識のうちにも、自分の周囲に居心地のよい世界をつくろうとする。もっとも手っ取り早い方法は、「いい人ぶること」。弱者のフリをする。庶民の味方のフリをする。善人のフリをする。遠慮深く、控え目な人間のフリをする。正義や道徳をことさらおおげさに説き、返す刀で悪人を批判しながら、自分はよい人間であるということを強調する。

 実のところこうした「フリ」は、ものを書く人間が一番おちいりやすいワナでもある。そういう自分をよく知っているから、私は他人の、そうしたフリを見抜くことができる。だれとはここに書けないが、そのタイプの人はいくらでもいる。

いやいや、私自身がそうかもしれない。私はいつもこうして偉そうな(?)文章を書いているが、本当の私を知ったら、皆さんは驚くかもしれない。情緒は不安定だし、精神力も弱い。私はひょっとしたら、懸命に教育者のフリをして生きているだけかもしれない。しかしこういう自分は長くはつづかない。やがてボロが出る。私が今、一番恐れているのは、そういうボロが、いつ、どのような形で出てくるか、だ。

 話は脱線したが、子どもを見るときは、そのフリを見抜かねばならない。「この子どもは、本当の自分の姿をさらけ出しているか。それとも自分をごまかしているか」と。本当の自分をさらけ出しているなら、それでよし。そうでなければ、心の開放をまず第一に考えて指導する。もっとも効果的な方法は、大声で笑わせること。大声で笑うと、同時に、心が開放される。そして互いに心を開くことができる。気負いがとれる。

 結論を言えば、「気負い」などというのは、できるだけないほうがよい。とくに家族の中では、ないほうがよい。家族はあるがまま。たがいにあるがままをさらけ出し、あるがままを受け入れる。気負うことはない。その気楽さが、家族の風通しをよくする。「親だからとか、子どもだから」という「だから」論。「親だから~~のはず、子どもだから~~のはず」という「はず」論。「親は~~すべき、子どもは~~すべき」という、「べき」論は、それがあればあるほど、結局は、親子関係をぎくしゃくさせる。

 そこで私のこと。私もこうしてものを書いているが、気負うのはもうやめる。気負えば気負うほど、疲れる。これからは、さらに(?)、あるがままの自分を書くことにする。それでだめなら、それはそれでしかたのないことだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(536)

●エセ文化人
 
週刊誌だが、T氏という文化人のコラムを読んで驚いた。ことあるごとに、日本を代表する文化人として表彰されている人物である。

 そのコラムは、ワールドカップの前に書かれたものだが、要するにめちゃくちゃ。「予選リーグを勝ち抜くためには、ロシアにボールを配れ。ベルギーには経済援助をちらつかせよ。チュニジアには……」と。

(もっと内容はひどいものだったが、正確に記憶して書かねばならないような記事ではない。)こうした意見でも冗談ですむところが、あの人物の人徳(?)といえば人徳だが、しかし日本の若者たちは、こういう人物の言うことのほうを真に受けてしまう。ものごとを、まじめに考えなくなってしまう。

 実際、この日本。まじめに考えるよりも、ギャグのほうが若者に受ける。反対にまじめな意見ほど、「ダサイ」と、はねのけられてしまう。ためしに大学生や高校生に、政治の話をもちかけてみたらよい。「一〇年後の日本をどう思う?」というような話でもよい。少し前だが、私が女子高校生のグループに、「日本がかかえる借金をどう思う?」と聞いたときのこと。その高校生たちは口々にこう言った。「私ら、そんな借金、関係ないもんネ~」と。
 決してそのタイプの高校生ではない。私が図書館で会った高校生である。たまたまテスト週間で、図書館へ来ていた高校生である。

 ……と考えながら、私はときどき、ふとまじめに生きるのがバカらしくなることがある。いや、自分ではそれほどまじめな人間とは思っていないが、しかし懸命に自分を支えながら生きている。酒やタバコはもちろんのこと、夜遊びもしたことがない。商社マン時代のほんの一時期をのぞいて、バーとかキャバレーとか、そういうところへも行ったことはない。借金もつくらなかったし、払うべきお金は、一週間以上先へのばしたことは一度もない。道路へゴミはもちろん、ツバを吐いたこともない。人に迷惑をかけたことはないとは言えないが、記憶の中では、ない。

今でも、電話相談はもちろん、メールによる相談でも、すべて答えている。一度だって断ったことはない。お金を受け取ったこともない。(だからといって、「まじめ」ということにはならないことは、自分でもわかっている。たぶんT氏のような人から見れば、私は「バカ」に見えるのだろうが……。)

 が、T氏という人は、世俗的な人気を背景に、好き勝手なことをし、書いている。原稿料にしても、私たちの想像をはるかに超えたものだろう。が、T氏という人に腹がたつのは、そういうことではない。文化人という顔をしながら、目立たないところで懸命に私たちがつくっているものを、平気で破壊していることだ。

それはちょうど、清掃した海辺に、大きなトラックがやってきて、ゴミをまきちらすようなもの。無力感すら覚える。しかし日本中がこの無力感に襲われたら、それこそ日本はおしまい。そういう日本だけは作ってはいけない。いや、もうこの日本は、そのおしまいに近づきつつあるのでは……と心配する。皆さんも一度でよいから、T氏のような人物が、本当に文化人なのかどうか、冷静に考えてみてほしい。(それとも私がまちがっているのか?) 

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