最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●嫉妬

2009-06-05 10:39:49 | Weblog
●嫉妬(しっと)

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私も嫉妬をよく覚える。
「ねたみ」と言った方が、わかりやすい。
「嫉妬」というと、そこに色恋沙汰を感ずる。
しかし何も、色恋沙汰にかぎらない。
その(ねたみ)をよく覚える。
覚えないとは、言わない。
しかし最近は、ぐんとそれが少なくなった。
なぜか?

このところ、「私は私、人は人」と思うことが多くなった。
割り切って考えることが、多くなった。

そういう意味では、「私は私」という思いと、それは反比例の関係にあるのでは?
つまり「私は私」という思いが強くなればなるほど、
人に嫉妬することは、その分だけ、少なくなる。
このことを言いかえると、こうも言えるのでは?
つまり、「私」がない人ほど、人に嫉妬しやすい、と。

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 自己概念(「私はこうありたい」)という思いは、だれにでもある。
人はその自己概念に合わせて、現実の自分を作りあげようとする。
自己概念をもつことは、悪いことではない。
自己概念がないと、それこそ人は、糸の切れた凧のようになる。
フワフワと空中をさまよい、自分でも何をしているのか、わからなくなる。
が、それにも限度がある。
つまり自己概念が肥大化すると、やがてその落差に苦しむことになる。
わかりやすく言えば、「夢は大きい方がよい。しかし大きすぎるのも困る」と
いうことになる。

 嫉妬は、その(落差)の間から生まれる。
が、ここで誤解してはいけないことがある。
「嫉妬」というと、それ自体が「悪」と考える人は多い。
しかしその嫉妬が、生きる原動力として働くこともある。
たとえばすばらしい家を見かけると、「私もほしい」と思う。
それが明日への(やる気)につながることもある。

あるいはスタスタと走っている人を見かけると、「私もああして走ってみたい」と思う。
それが自分の健康法につながることもある。

大切なことは、その嫉妬を、どうコントロールするかということ。
嫉妬を、どう向上心に結びつけていくかということ。
その前に、嫉妬の原点を、もう一度考えてみたい。

●兄弟を殺す

 毎年庭先の木の間に、野生のドバトが巣を作る。
そのドバトには、興味深い習性がある。
たいてい1組のつがいは、2羽の雛(ひな)を孵(かえ)す。
そのあとのこと。
たまに1羽のこともあるが、たいてい2羽である。

 そのときのこと。
その双方がおとなの握りこぶし大くらいにになると、1羽のより強い雛が、もう1羽の
より弱い雛を、巣から追い落としてしまう。
追い落とされた雛のほうは、そのまま犬や猫に襲われて、死んでしまう。
理由はわからないが、空腹感が基本にあって、親が与える餌を独り占めしたいから
ではないか。
私は勝手にそう解釈しているが、私はそこに嫉妬の原点を見る。

 つまり嫉妬の原点には、「生存欲」がからんでいる。
生存欲がからんでいるだけに、原始的な感情と言うこともできる。
それこそ「相手を殺してでも……」という感情に結びつくこともある。
現に嫉妬がからむと、人間関係も陰湿なものになりやすい。
子育ての世界でも、ときどき経験する。

●子どもの世界で

 市内のある幼稚園でこんなことがあった。
その母親は、その幼稚園でPTAの役員をしていた。
その立場をよいことに、いつもその幼稚園に出入りしていたのだが、ライバルの
母親の娘(年中児)を見つけると、その子どもに執拗ないじめを繰り返していた。
手口はこうだ。

その子どもの横を通り過ぎながら、わざとその子どもを足蹴りにして倒す。
そして「ごめんなさいね」と作り笑いをしながら、その子どもを抱きかかえて起こす。
起こしながら、その勢いで、またその子どもを放り投げて倒す。

以後、その子どもはその母親の姿を見かけただけで、顔を真っ青にしておびえるように
なったという。

ことのいきさつを子どもから聞いた母親は、相手の母親に、それとなく話をしてみたが、
その母親は最後までとぼけて、取りあわなかったという。
父親同士が、同じ病院に勤める医師だったということもあった。
被害にあった母親はそれ以上に強く、問いただすことができなかった。

 似たようなケースだが、ほかにマンションのエレベータの中で、隣人の子ども
(3歳男児)を、やはり足蹴りにしていた母親もいた。
この話を、80歳を過ぎた私の母(当時)にすると、母は、こう言って笑った。
「昔は、田舎のほうでは、子殺しというものまであったからね」と。

 子どものいじめとて例外ではない。
Tさん(小三女児)は、陰湿なもの隠しで悩んでいた。
体操着やカバン、スリッパは言うに及ばず、成績表まで隠されてしまった。
しかもそれが一年以上も続いた。
Tさんは転校まで考えていたが、もの隠しをしていたのは、Tさんの親友と思われていた
Uという女の子だった。

それがわかったとき、Tさんの母親は言葉を失ってしまった。
「いつも最後まで学校に残って、なくなったものを一緒にさがしていてくれたのは
Uさんでした」と。
Tさんは、クラスの人気者。背が高くて、スポーツマンだった。
一方、Uは、ずんぐりした体格の、どうみてもできがよい子どもには見えなかった。
Uは、親友のふりをしながら、いつもTさんのスキをねらっていた。
そして最近でも、こんなことがあった。

 ある母親から、「うちの娘(中二)が、陰湿なもの隠しに悩んでいます。
どうしたらいいでしょうか」と。
先のTさんの事件のときもそうだったが、こうしたもの隠しが長期にわたって続くときは、
身近にいる子どもをまず疑ってみる。

 そこで私が、「今一番、身近にいる友人は誰か」と聞くと、
その母親は、「そういえば、毎朝、迎えにきてくれる子がいます」と。
そこで私は、こうアドバイスした。

「朝、その子どもが迎えにきたら、じっとその子どもの目をみつめて、
『おばさんは、何でも知っていますからね』とだけ言いなさい」と。
その母親は、私のアドバイス通りに、その子どもにそう言った。
以後、その日を境に、もの隠しはウソのように消えた。

●では、どうコントロールするか

 繰り返しになるが、嫉妬は、それ自体が問題ではなく、……というのも、
本脳として人間の脳に刻まれているが故に、私たちがもつ知性や理性の力に
は限界があるので……、つまりどう扱うかが問題ということ。
わかりやすく言えば、(扱い方の問題)ということになる。

 もっとも私の年齢になると、限界を感ずることが多くなる。
その限界の中で、「まあ、こんなもの」と思うことが多くなる。
それは心さみしい瞬間でもあるが、同時にこうも思う。
「今、残っているものを大切にしよう」と。

 喪失感といえば、喪失感ということになる。
人生そのものが、どんどんと減っていく。
あといくらがんばってみたところで、10年がよいところ。
それ以後は、あくまでも平均論に従えば、もろもろの病気をかかえ、そのあと
10年くらいをして寿命が尽きる。

 それに諸行無常とまではいかないにしても、常に『だから、それがどうしたの?』
というブレーキが、心の中で働いてしまう。
いい車を買った……だから、それがどうしたの?
いい家を買った……だから、それがどうしたの?
有名になって、名誉や地位を手に入れた……だから、それがどうしたの?、と。

 若い人たちから見れば、ジジ臭い考え方ということになるが、そう決めつけるのは
少し待ってほしい。
だからといって、そこで車を止めてしまうわけではない。
生きるエネルギーはたしかに弱くなるが、なくなってしまったわけではない。
ただその方向性というか、進むべき道を選択するようになる。
その分だけ、「エネルギーを無駄なことはしたくない」とか、
「無駄に時間を過ごしたくない」と考えるようになる。
そう考えた上で、「では、私は何をすべきか」を考えるようになる。

 そんなわけで嫉妬と闘う方法があるとするなら、(1)「私」の確立と、(2)統合性
の確立ということになる。
「統合性」というのは、何度も書いてきたように、(すべきこと)と(現実にしている
こと)を一致させることをいう。
この2つが確立できれば、(まだ私は暗中模索の段階だが……)、おそらく嫉妬という
原始的な感情からは解放されることになる。
そしてそれ自体がもつ、(生きるエネルギー)を、もっと有意義な方向へ、もっていく
ことができる。

 どうであるにせよ、嫉妬に毒されると、人間性まで腐る。
それだけは、何としても避けたい。
そのためにここでこうして2つの方法を考えてみた。

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