最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●社会的制裁  ●富めるときは貧しく

2009-02-23 06:27:31 | Weblog
●社会的制裁(?)

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世俗をだます言葉が、これ。
「社会的制裁」。

先日もある事件の判決文を読んでいたら、
こんなのがあった。
ある公務員の汚職事件にからんだものだが、
こうだ。

「被告はすでに、公務員としての地位を失うなど、
社会的制裁を受けているので……、よって執行猶予
X年とする」と。

(執行猶予刑というのは、実質的に無罪と同じ。)

教師によるハレンチ事件の判決などでも、同じような
表現が用いられることが多い。
つまり(職を失っているので)、(刑罰を受けたことに
なる)と。

しかしこの論法はおかしい。
完全に、おかしい。
職を失うのは、当然の結末であって、それでもって、
社会的制裁を受けたということにはならない。

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●目には目を!

政治家を例にあげて考えてみよう。
何かの事件で逮捕、投獄されたとする。
その時点で、議員辞職願いを出して、議員を辞職する。
その判決で、「すでに社会的制裁を……」は、おかしい。
もしその(おかしさ)がわからなければ、あなた自身の
こととして考えてみればよい。

たとえば私は、何も失うものがないと言えるほど、
地位や肩書きとは無縁の世界に生きている。
もしこの論法がまかりとおるなら、私は、日常的に
社会的制裁を受けていることになる。

こんな例もある。

数日前、ニュースサイトをのぞいていたら、こんな記事が目についた。
あのイランで、何と、盲目の刑が科せられた人がいるという。
その人は、ある女性の目に薬剤をかけて、その女性を盲目にしてしまった。
そこで裁判所の判決は、その人を盲目にする、と。
「目には目を……」という、イスラム教にのっとった刑罰とか(?)。

しかしこんな刑がまかりとおるとするなら、今、現在、盲目の人たちは、どうなのか、
ということになる。
そういう人たちは、日常的に刑罰を受けていることになってしまう。

私は権力や組織とは無縁の世界に生きている。
だからといって、社会的制裁を受けているわけではない。
同じように盲目の人たちも、刑罰(?)を受けているわけではない。

もっとひどいのに、こんな話がある。

あるテレビタレントが、何かの事件を起こした。
(こうした事件はよく起きるので、どういう事件かを特定する必要はない。)
そのタレントについて、マスコミ(=新聞やテレビ)は、こう言ったりする。
「あのタレントは、すでにマスコミの世界から、追放されている」と。

となると、この私は、どうなのか?
私は、若いときから今に至るまで、マスコミの世界から追放された状態にある。
(ときどき、テレビや新聞に出たことはあるが、それで利益につながったとか、
そういうことはない。)

私だけではない。
この文章を読んでいる、あなただって、そうだ。
あなただって、マスコミから追放された状態にある。
何も、悪いことなどしていなくても、だ。

●社会的制裁

社会的制裁は、刑罰ではない。
またそれらしき結末になったからといって、判決の内容に影響を与えるものではない。
また影響を与えてはならない。

さらに念を押すなら、こういうことも言える。

政治家や公務員が、何かの事件を起こして職を失ったとする。
それについて、裁判官が、「すでに社会的制裁を……」と言ったとする。
たしかに社会的制裁にはちがいないが、もしそれを(制裁)とするなら、
今、現在、職を失い、その日の生活費にすら苦労している人たちは、
どうなのか、ということになる。
その人たちも、やはり日常的に制裁を受けていることになる。
しかしだれによって?
どうして?

……ということで、私は、あの「社会的制裁」という言葉を聞くたびに、
なんとも言われない不快感を覚える。
視点そのものが、「上」にあって、私たちを、「下」に見ている。
下の世界にいる者は、いわゆる価値のない大衆にすぎない、と。

だから裁判官に私は、こう言いたい。

名誉や地位、さらに仕事を失うのは、あくまでも結末であって、その結末を
先にもってきて、「すでに社会的制裁を……」とは、言ってほしくない。

私たちには、名誉も地位もない。
大半の人たちは、みな、そうだ。
マスコミにも相手にされていない。
だからといって、私は、制裁を受けているとは思わない。
それがわからなければ、もう一度、あのイランでの判決を思い出してみればよい。

刑罰によって、その人を盲目にするということは、それ自体が、盲目の人
たちへの冒涜(ぼうとく)以外の何ものでもない。
はっきり言えば、バカにしている。
一見、合理的に見えるが、合理性は、どこにもない。
「盲目になって苦しんでいる人のために、お前も同じ苦しみを味わえ」という
ことだろう。
が、しかしそれは同時に、今、現在、病気などによって盲目になった
人たちの苦しみを、もてあそぶことになる。

繰り返す。
こういうバカげた、(後付け理由)は、もうやめにしてほしい。

(補記)
さらにダメ押し。
2人の人が、同じハレンチ事件を起こしたとする。
1人は学校の教師、もう1人はフリーターである。

「すでに社会的制裁を……」という論法がまかりとおるとするなら、
教師には、執行猶予がつく。
それはわかる。
しかしフリーターには、もとから失う仕事すら、ない。
日常的に社会的制裁を受けた状態にある。
社会的制裁を受けようにも、受けようがない。
だとするなら、フリーターには、執行猶予はつかないことになる。
この不公平感こそが、そのままこの言葉の不合理性を表していることになる。

さらに言えば、繰り返しになるが、この論法がまかりとおるとするなら、
リストラなどで職を失った人は、どうなのかということになる。
それを「社会的制裁」というのは、あまりにも酷である。

わかったか、裁判官の諸君!
少しは人間社会を、「下」から見ろ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
社会的制裁 社会的制裁論 刑罰 刑罰論 判決)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●富めるときは貧しく……

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今の若い夫婦を見ていて、かなり前から
ハラハラしていたことがある。
どの夫婦も、目いっぱいの生活をしている。
仮に給料が30万円あったとする。
すると30万円、ギリギリの生活をしている。

今の若い夫婦は、貧しい時代を知らない。
知らないから、日本は昔から豊かで、
またこの豊かさは、いつまでもつづくと思っている。

しかし今回の大不況で、それが土台から、崩れ去った。
つまり若い夫婦がもっている常識が、土台から
崩れ去った。

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私たち団塊の世代は、極貧の時代から、世界でも類を見ないほど豊かな時代へと、
言うなれば、地獄と天国を、両方経験している。
その(坂)を知っている。

が、今の若い夫婦は、それを知らない。
「すべてのものが、あるのが当たり前」という生活をしている。
結婚当初から、自動車や電気製品にいたるまで、すべて、だ。
そのため、いつも目いっぱいの生活をしている。
30万円の給料があったとすると、30万円ギリギリの生活をしている。
大型の自動車を買い、子どもを幼稚園に預けながら、それを当然の
ことのように考えている。

そういう意味で、貧しい時代を知らない人は、かわいそうだ。
そこにある(豊かさ)に気がつかない。

私たちの時代など参考にならないかもしれないが、あえて書く。

私たち夫婦も、自動車を買った。
HONDAの軽。
水色の中古車だった。
それでもうれしかった。

つぎにアパートに移り住んだ。
そこでのトイレは、水洗だった。
それまでは、部屋の間借り。
ボットン便所だった。
トイレの水を流しながら、においのしないトイレに感動した。

幼稚園にしても、当時は約5%の子どもは、通っていなかった。
2年保育がやっと主流になりつつあった。
たいていは1年保育。

さらにクーラーがある。
数年前、あまりの暑さに耐えかねて、私の家にもクーラーをつけた。
しかし使ったのは、ほんの一か月足らず。
かえって体調を崩してしまった。

が、今ではそういう(貧しさ)そのものが、どこかへ行ってしまった。
今の若い夫婦は、この日本は昔から豊かで、そしてこの豊かさは、いつまでも
つづくものと思い込んでいる。
しかしそれはどうか?

私たちは(坂)を知っている。
貧しい時代からの豊かな時代への(坂)である。
その(坂)には、上り坂もあれば、下り坂もある。
だから下り坂があっても、私は驚かない。
またその覚悟は、いつもできている。
「できている」というよりは、豊かな生活を見ながら、その向こうにいつも、あの
貧しい時代を見ている。

が、今度の大不況で、その土台が、ひっくり返った。
崩れた。
これから先のことはわからないが、へたをすれば、10年単位の、長い下り坂が
つづくかもしれない。
が、私が心配するのは、そのことではない。
こういう長い下り坂に、今の若い夫婦が、耐えられるかどうかということ。
何しろ、(あるのが当たり前)という生活をしている。
もしだれかが、「明日から、ボットン便所の部屋に移ってください」と言ったら、
今の若い夫婦は、それに耐えられえるだろうか。
「大型の車はあきらめて、中古の軽にしてください」でもよい。
「幼稚園は、1年保育にしてください」でもよい。

悶々とした閉塞感。
悶々とした不満感。
悶々とした貧困感。

これからの若い夫婦は、それにじっと耐えなければならない。

……と書くと、こう反論する人がいるかもしれない。
「それがわかっていたなら、どうしてもっと早く、言ってくれなかったのか」と。

実は、私たちの世代は、常に、若い夫婦に対して、そう警告してきた。
聞く耳をもたなかったのは、若い夫婦、あなたがた自身である。
スキーへ行くときも、そこから帰ってくるときも、道具は宅配便で運んでいた。
それに対して、「ぜいたくなことをするな」と言っても、あなたがたは、こう言った。
「今では、みな、そうしている」と。

スキーを楽しむということ自体、私たちの世代には、夢のような話だった。
しかしそれが、原点。
もっとわかりやすく言えば、生活の基盤。
今の若い夫婦は、スキーができるという喜びすら、知らない。
さらに言えば、私たちの世代は、稼いだお金にしても、そのうちの何割かは、
実家に仕送りをしていた。
私のばあいは、50%も、仕送りをしていた。

が、今、そんなことをしている若い夫婦が、どこにいる?
むしろ生活費を、実家に援助してもらっている(?)。

この愚かさにまず気がつくこと。
それがこれからの時代を生きる知恵ということになる。

『豊かな時代には、貧しく生きる』。
これが人生の大鉄則である。
同時に、こうも言える。
『貧しい時代には、豊かに生きる』。

「豊か」といっても、お金を使えということではない。
「心の豊かさ」をいう。
その方法が、ないわけではない。
この大不況を逆に利用して、つまり自分自身を見直す好機と考える。
その心の豊かさを、もう一度、考え直してみる。

偉そうなことを書いたので、不愉快に思っている人もいるかもしれない。
しかし私は、心底、そう思う。
そう思うから、このエッセーを書いた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 豊かな時代 貧しい時代 豊かさの中の貧しさ 貧しさの中の豊かさ)

Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●貧しさの中の豊かさ

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貧しいのに、損をしたことがないという人がいる。
損をすることに、たいへん警戒心が強い。
それこそビタ一文、他人のためには、出さない。
いや、出すこともあるが、いつも計算づく。
他人の目を意識したもの。
しかし小銭は出しても、いつもそこまで。
ケチはケチだが、自分ではケチとは思っていない。
「私は金がない」「私は賢い節約家」を口癖にする。

このタイプの人は、住む世界も小さいが、
それ以上に、心も狭い。
会って話をしていても、息苦しさを感ずるほど。

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フロイト学説によれば、2~4歳の肛門期に何か問題があると、ためこみ屋、
守銭奴、さらにはここでいうケチになりやすいという。
生活態度が防衛的で、その分だけ、自分の小さな世界に閉じこもりやすい。

一方、人は、損をし、その損を乗り越えることで、自分の住む世界を大きく
することができる。
損をする……というよりは、損得を考えないで行動する。
できれば無私無欲で行動する。

そのもっともよい例が、ボランティア活動ということになる。
ためしにあなたの近くで、ボランティア活動を進んでしている人がいたら、
その人と話してみるとよい。
そうでない人には感じない、心の広さを感ずるはず。

たとえば私の近所に、MRさんという女性がいる。
年齢は50歳くらい。
折につけ、ボランティア活動ばかりしている。
そのMRさんの家へ行くと、いつもスイスから来た夫婦がきている。
親類ではない。
親類ではないが、MRさんは、その夫婦の子ども(幼児2人)のめんどうをみている。
無料というより、その夫婦の親になりきって、めんどうをみている。
ことの発端は、スイスから来た夫婦の妻が、病気になったことだそうだ。
それが縁でたがいに行ったり、来たりするようになった。
今ではスイスから来た夫婦が、MRさんの家に住みついたような形になっている。

ほかに自宅を外国人に開放し、個展を開いてやったりしたこともある。

ほかに休みになると、外国まで行って、着物の着付けのしかたを指導している。
ときにそれが数か月から半年単位になることもあるそうだ。
しばらく見かけないと思っていたら、「カナダに4か月、行ってきました」と。
平気な顔をして、そう言う。

そういう女性は、輝いている。
体の奥から、輝いている。

が、そうでない人も、多い。
こうして書くのもつらいほど、住んでいる世界が小さく、超の上に「超」がつくケチ。
息がつまるほど、ケチ。

ケチといっても、何もお金の問題だけではない。
自分の時間や、体力を使うことにも、ケチ。
損になることは、何もしない。
まったく、しない。

が、そういう人ほど、外の世界では、妙に寛大ぶったりする。
反動形成というのである。
自分の心を見透かされないように、その反動として、反対の自分を演じてみせる。
が、もともと底が浅い。
浅いから、どこか軽薄な印象を与える。
一本の筋のとおった、哲学を感じない。

では、どうするか?

いつか私は、『損の哲学』について書いた。
損をするのは、たとえば金銭的な損であればなおさらそうだが、だれだって、避けたい。
そう願っている。
しかし損に損を重ねていると、やがてやけっぱちになってくる。
で、ここが重要だが、やけっぱちになったとき、それに押しつぶされるか、
それを乗り越えるかで、その人の人生観は、そのあと大きく変わってくる。

押しつぶされてしまえば、それだけの人。
しかし乗り越えれば、さらに大きな人になる。
そういう意味で、私は若いころ、今東光という人物と知り合いになれたのを、
たいへん光栄に思っている。

いつか今東光について詳しく書くこともあると思うが、ともかくも、あの人は、
損に損を重ねて、あそこまでの大人物になった。
何かあるたびに、「まあ、いいじゃねエか」と、ガラガラと笑っていた。

言い忘れたが、今東光というのは、「こん・とう・こう」と読む。
若い人たちは知らないかもしれない。
当時、ある宗派の大僧正であり、国会議員であり、大作家であった。
何度か原稿を書くのを横で見ていたが、一字一句、まるで活字のようなきれいな
文字を書いていた。

……というわけで、損をすることを恐れてはいけない。
大切なことは、その損を乗り越えること。
金銭的な損であれば、それをバネにして、さらに儲ければよい。
時間的な損であれば、その分だけ、睡眠時間を削ればよい。
体力については、それを使って損をするということは、ありえない。
ゴルフ場でコースを回る体力があったら、近所の雑草を刈ればよい。

こうして損を乗り越えていく。
が、それができない人は、自分の住む世界を、小さくしていくしかない。
つまらない、どこまでもつまらない人間になっていくしかない。

50代、60代になってくると、そのちがいが、よくわかるようになる。
その人の(差)となって、表に出てくるようになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
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