最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●最前線の子育て論byはやし浩司(11-16)

2009-11-16 08:10:30 | Weblog





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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 16日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【私の幼児教育byはやし浩司】

●生徒あっての仕事

 私のばあい、いつもそこにスポンサーがいる。
親というスポンサーがいる。
お金を受け取って、親のニーズに応える。
それが私の仕事。

 親が、こうしてほしいと言えば、そうする。
親が、ああしてほしいと言えば、そうする。
私にとって、教育論というのは、別の世界での話。
現実とは、いつも切り離して考える。
子育て論に至っては、さらに別の世界での話。
親が赤色を求めれば、赤色に自分の体の色を変える。
青色を求めれば、青色に自分の体を変える。

 生徒あっての私の仕事。
親の意向に逆らうなどということは、私の仕事ではありえない。
それにもうひとつ。
私はいつも、生徒に頭をさげなければならない。
もちろん、親にも。
「来てください」と頭をさげる。
すべては、そこから始まる。

●権威主義

 親たちもまた、私をそういう目でしか見ていない。
これは昔も今も、同じ。
皮肉なことに、親たちが、この世界では、もっとも権威主義的なものの考え方をする。
こと子どもの教育となると、さらにそう。
さらに保守的になる。

学校絶対主義。
学歴信仰。
学校神話。
そして受験制度。

 この日本では、教育といえば、受験教育を意味する。
「人間選別機関」という言葉は、私が考えた。
今から25年以上も前、「教材新聞」という新聞の中で、使わせてもらった。
学校という教育機関が、(教育)ではなく、人間を選別するための機関として機能している。
受験教育に、それを見る。

 それをだれもがおかしいと感じている。
私もおかしいと感じている。
しかしそれを口に出して言う勇気は、だれにもない。
もちろん私にも、ない。

●あなたは黙っていろ

 私が最初に、疑問に感じた子どもは、FBという名前の女の子だった。
名前からして、朝鮮半島出身の人とわかった。
しかしそのことは、私の見方に影響を与えることはなかった。
当時の私は、むしろ親朝鮮派。
学生時代、UNESCOの交換学生として、韓国に行っていたこともある。

 しかしその女の子は、どうしようもないほどの、つまり手がつけられないほどのドラ娘
だった。
言い忘れたが、当時幼稚園の年長児。
わがままで自分勝手。
親は市内にパチンコ店を、数店ももち、裕福な生活をしていた。
が、そういう環境の中で、日本人の私たちを、「下」に見ていた。
軽蔑していた。

 で、ある日のこと。
私はその子どものことで、母親にその女の子の問題点を告げようとしたときのこと。
が、すぐさま母親は、私の言葉をさえぎった。
こう言った。
「あんたは、黙って、私の娘の勉強だけをみていてくれればいい」と。
つまり「余計なことは言うな」と。

 私の立場は、当時も、そして今も、基本的には変わっていない。

●浜松市

 浜松市という町は、不思議な町である。
名古屋市の経済圏に身を置きながら、その3倍以上も離れている東京の方に目が向いてい
る。
名古屋の文化が、浜松市へ入ってくるということは、まず、ない。
浜松市へ入ってくる文化のほとんどは、東京からである。
また「東京から来た」というだけで、何でもありがたがる。

 こう書くと浜松市の人たちは不愉快に思うかもしれない。
しかし事実は事実。
浜松の人たちは、東京に対して、かぎりないコンプレックス(劣等感)をもっている。
反対に、ときどき東京から転勤などで浜松市へやってくる人などは、浜松を、かなり「下」
に見る。
おもしろいほど、「下」に見る。
「下」というのは、「田舎」。
「地方」。
浜松の人たちを、遠慮なく「田舎者」と呼ぶ。
先の衆議院議員選挙で落選した、KTさつき氏などは、堂々とこう言い放った。
「私が土下座すれば、(浜松の)田舎者は、イチコロよ」(「諸君」)と。

 だいたいにおいて、浜松の人が、浜松の価値を認めていない。

●高校の序列

 加えてぬぐいがたいほどの学歴信仰。
私が浜松に住み始めたころ、……というのも、そうした風潮は少しずつ変わってきたが、
この浜松では、出身高校で、その人の価値が決められた。
大学ではない。
高校である。

 そのこともあって、浜松市内の高校には、明確な序列があった。
S高校、A高校、B高校、C高校、D高校……、と。
だからこんな会話がよく交わされた。

「あの人、C高校なんですってねエ~」
「えっ、あの人、S高校なんですかア~」と。

 それを本人もよく知っているから、たとえば自分がS高校の出身だったとすると、それ
となく会話の中に、自分の出身高校名を入れる。
「今度、S高校の同窓会がありましてね」とか、など。
あるいは「S高校のOB会で、ゴルフコンペをしました」とか、など。

 何かにつけて、出身高校の名前が、よく出てきた。
今でも、その残像は、かなり色濃く残っている。

●番外教師

 私は午前中から、午後2時ごろまでは、幼稚園で、幼稚園講師の仕事をした。
無資格だった。
当時は、保母という職種はあったが、保父はなかった。
「保父」という名前が世間に出てきたのは、私が30歳を過ぎてからではなかったか。
保育士という名前にいたっては、私が45歳を過ぎてからではなかったか。

 当時の幼稚園教諭は、同じ教師の中でも番外。
ほとんどの幼稚園教師は、高卒で、そのあと簡単な通信教育を受けて幼稚園の教師となっ
た。
中卒のまま保母資格を取り、やはり通信教育で幼稚園教師になった人も、多かった。

 で、なぜ無資格だったか?

 当時の状況をよく知る人なら、みな知っている。
幼稚園の教師の資格など、わざわざ取ってまでするような仕事ではなかった。
おかしな序列があって、一番上が、大学の教授。
その下が高校の教師、つづいて中学校の教師。
一番下が、小学校の教師。
幼稚園の教師は、そのワクの外にあった。
つまり番外。

 「資格、資格」とうるさくなったのは、私が45歳を過ぎてからのことではなかったか。
中央の官僚たちは、まず資格制度を整備する。
それを管理する団体を作る。
そこを自分たちの天下り先にする。
保育士という資格がうるさくなったのも、そういう(流れ)があったからにほかならない。

●同窓会

 ちょうど30歳になったとき、高校の同窓会があった。
その席でのこと。
担任教師だったTMが、私にこう聞いた。
「林(=私)は、どんな仕事をしているのか?」と。

 が、私には答えようがなかった。
今で言う「フリーター」という言葉さえなかった。
だから、幼稚園での講師をしている話のほか、いくつかを並べた。

 それを聞いてTMは、こう言った。
「お前だけは、訳の分からない仕事をしているな」と。
みなに聞こえるような大きな声だった。

 高校の教師にしてみれば、幼稚園の講師の仕事など、仕事にもならない仕事ということ
になる。
私にはその常識(?)が理解できたから、黙るしかなかった。

●収入

 私の幼稚園での給料は、当初、月額2万円だった。
大卒の初任給が、6万円前後になり始めていたころである。
そこで私は園長と相談して、午後2時以後は、自由にしてもらった。
自由にしてもらって、予備校の講師や塾の講師、それに家庭教師などをした。

いろいろな会社の貿易顧問もした。
M物産時代の経験とノウハウが、役に立った。

 あのYAMAHAにしても、当時、本社の中にすら、貿易部はなかった。
名古屋のM物産が、YAMAHAの貿易を取り仕切っていた。
ほかにパンフレットの翻訳など。
仕事は、あった。
お金になった。

 幼稚園の給料は2万円だったが、当時、つまり20代の半ばで、すでに私は毎月70万
円前後も稼いでいた。

●ほかに

 当時の私は、こんな仕事もしていた。
夕刻、新幹線で東京へ、向かう。
そのまま羽田から、香港や台北へ飛ぶ。
時差もあるから、向こうの時刻で、夕方から夜にかけて商談をまとめる。
そして午前2、3時の飛行機で羽田へ戻る。
羽田へは、午前6時~6時半に着く。
新幹線に飛び乗る。
9時には、浜松へもどり、幼稚園で仕事をする。

 ときどき香港のみやげをもって帰ることもあった。
しかし私が「今朝、香港から帰ってきました」と言っても、だれも信じなかった。
当時、羽田、香港の航空運賃だけでも、10万円前後。
幼稚園の教師の月給が、3万円前後。

 そのほかにも、私はいくつかのテレビ局の企画も書いていた。
代筆もした。
すでにゴーストライターとして、何冊かの本も出していた。

 が、幼稚園での仕事はやめなかった。

●私の天職

 話せば長くなるが、私は自我の同一性の問題に苦しんでいた。
私はもとはと言えば、大工になりたかった。
高校へ入ってからは、工学部の建築学科をめざした。
しかしそれが途中で転向させられてしまった。
文学部から、法学部へ、と。

 私の人生が狂ったのはそのとき。
メチャメチャと言ってもよい。
以来、自分をさがすのに、苦労をした。
で、やっと「天職」と思ったのが、幼稚園での仕事だった。
給料は問題ではなかった。
給料だけを考えたら、とっくの昔に、私は、幼稚園での仕事をやめていただろう。

 たとえば香港へ行く。
上海製のハリ麻酔器(低周波発信機)を、買う。
値段は、5~6万円。
それを日本へもってくると、12~15万円で売れた。
いつも3~5台はもってきたから、それだけでも、30~50万円の利益になった。

●幼児を教える

 この職業観は、今でも変わっていない。
幼児を教えながら、それを仕事と意識することは、めったにない。
むしろ私のほうが、楽しませてもらっている。
私のやりたいように、やらせてもらっている。

 で、話を戻す。

 当時、幼稚園教育の世界には、テキストらしいテキストは、ほとんどなかった。
まったくなかったと断言してもよい。
教育的には、恐ろしく貧弱な世界で、「教育」というよりは、ただ「子どもを預かる」とい
うだけの世界であった。
こう書くと、古い教師は怒るかもしれない。
が、しかしこの私の意見に反論できる教師はいないはず。

 年間の行事を追うだけ。
あとはお絵かきだの、お遊戯だの、まあ、その程度。
さらに知育教育、さらには幼児の心理にまで踏み込んで教育するということは、「絶対」と
いう言葉をつけてよいほど、絶対、なかった。

 はっきり言えば、レベルが低かった。

●教材

 私は香港へ行くたびに、……毎週のように香港へ行っていた。
そこで幼児教育教材を買い求めていた。
香港には、当時は、イギリスの総督府が置かれ、教育はすべてイギリス式で行われていた。
幼児教育の教材も豊富だった。
私はそれを日本へ持ち帰り、翻訳し、私の勤める幼稚園でそれを使った。

 で、そのうち、それらの教材を、東京の出版社へ送るようになった。
今でこそ、中学生や高校生が、修学旅行で外国へ行く時代である。
しかし当時は、そうではなかった。
日本は、まだ貧しかった。
外国は、まだ遠かった。

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