最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●介護と葬儀

2008-07-11 09:04:51 | Weblog
【今朝・あれこれ】(7月11日)

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今度、岐阜県の山中を、7キロも歩くことになった。
そういうツアーに参加することになった。
で、そのためのシューズを、昨日、買ってきた。
今、使っているのは底が薄く、デコボコ道を
長く歩いていると、足が痛くなる。

値段は、私のが3000円弱、ワイフのが4000円弱。
「安い」というより、私は、4000円以上の靴は、
買わないようにしている。
もの持ちが悪いというか、そのほうが気楽に使える。
「これは(値段が)高い靴で……」「あれが安い靴で……」と
考えているだけで、疲れてしまう。

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●雨つづき

このところの雨つづきで、運動不足を強く感ずる。
昨日も1単位しか、運動をしていない。
体がかたいというか、朝起きても、スッキリしない。

パソコンの前に座っても、モヤモヤするだけ。
頭の中の(考え)が、表に出てこない。
どうしたらよいものか?

ニュースを読んでも、「ああそう……」という感じで、
脳の表面を上すべりしてしまう。
「どうでもいいや」「勝手にどうぞ」と思うだけ。

窓の外を見る。
涼しいのはよいのだが、灰色の曇天が、空を覆っている。
「今日は2単位、運動をする」と心に誓うが、
どうなることやら?


●介護問題

介護のし方も、県、あるいは市や町単位で、かなりちがうようだ。
もちろん、個人によってもちがう。

先日、私の知人(男性)が、90歳という年齢でなくなった。
元内科医である。
その知人のばあい、病院付属のケア・センターに入居してからまもなく、
そのまま、亡くなってしまった。
半年もそこにいなかったのでは……?

「食事が食べられなくなった」「やせた」という話を聞いている
うちに、亡くなってしまった。

一方、同じような状態になりながらも、喉(のど)や腹にパイプを
通して、生きながらえている老人もいる。
集中治療室で、完全看護の手厚い介護を受けている。
どうしてこういう(差)が生まれるのだろう?
それよりも、「生きていたい」というその人の(思い)は、
どのように評価されるのだろう?

その年齢になってみなければわからないが、私がそういう状態に
なったら、無理に生きていたいとは思わない。
家族への迷惑を考えるなら、なおさらである。

昨日もワイフと車の中で、こんな会話をした。
ケア・センターにいる母を見舞いに行く途中でのことだった。

「なあ、ぼくが死んでも、息子たちは呼ばなくてもいいよ」と。

ワイフも同じ気持ちでいるらしい。

「そうね、みんな遠いところに住んでいるから、また来られるとき、
ゆっくり来ればいいわよね」と。

が、こういう意見は、少数派らしい。
少し前だが、母の葬儀のし方について、親戚の1人に相談すると、
その人はこう言った。

「浩司君、どんなことがあっても、葬式は、(郷里の)M町ですべきだよ」と。

「すべき」と断言するところが、恐ろしい。
で、それについて、私が、「霊柩車で、何時間もかかりますが……」と
答えると、「親の葬儀だろ!」と、一喝されてしまった。

残念ながら、私の母は、若いときから、その親戚の人と同じような
考え方をする女性である。
今は、頭の活動もほとんど停止状態にあるが、最後の最後まで、
そういう考え方を改めたという話は、聞いていない。

つまり、「お前たちに世話(=迷惑)をかけたくないから、
質素にやってくれ」と願うようなタイプの女性ではない。
むしろ逆で、若いころから、どこかの葬儀から帰ってくるたびに、私に
こう言った。

「あんなみすぼらしい葬式はなかった」と。
そう言いながら、母は、言外で、そういう葬儀をする家族を、非難した。
さらに言外で、「お前たちは、私の葬式を、きちんとせよ」と迫った。

だから私は、その親戚の人に、何ら反論ができなかった。
母の中に、一本のスジの通った生きざまでもあれば、反論もできたであろうが、
それがない。

ところで、私自身は、新聞の「死亡欄」を見たことがない。
ああいうのは見始めると、やめられなくなる。……と思う。
オーストラリアの新聞にも「死亡欄」というのはあるが、同時に「結婚欄」
というのもある。
ちゃんとバランスを保っている(?)。

私「やっぱり、みんなに迷惑をかけたくないから、ぼくは、静かに死にたい」
ワ「そうね。私もそう思うわ。冠婚葬祭というと、世間体やメンツばかり、
みな、気にするでしょ。ああいうのは、イヤね」と。
私「(お別れ)とか何とか、おおげさに考える必要はないと思う。あとになって、
『ああ、あの林は、死んでいたのか』でも、いいのではないだろうか。本当に、
私の死を悲しんでくれる人たちだけで、葬式は、質素にすませばいい」と。

当人にとっては、(死)は極限問題かもしれない。
しかし周囲の者をそれに巻きこむのは許されない。
古代エジプトや中国では、生きたまま、墓の中に道連れにされた人もいたという。
そこまで極端ではないにせよ、息子たちは、息子たちの現在の生活を、
優先すればよい。
仕事を休んでまで、私の葬式には来てほしくない。……来る必要はない。
無駄なお金を使う必要は、ない。

私「何も、死んだ直後に顔を合わせる必要はない。1か月後でも、あるいは
1年後でもいい。葬式というのは、そういうものだよ」
ワ「そうね……」
私「1年を長いといい、10年を短いという。そんなのは、感覚の問題だよ」
ワ「どうせ、私たちも、あっという間に死ぬのだから……」と。

しかし……。
私たちがそう思うのと、他人の葬儀は、話は別。
私たちが「葬儀なんて、意味がない」と思うのは、私たちの勝手。
だからといって、「他人の葬儀も意味がない」とまでは、思ってはいけない。

この問題だけは、人それぞれ。
その人に合わせて、妥協すべきところは妥協する。
協調すべきところは、協調する。
もっと言えば、相手の立場になって、その相手がよいようにしてやる。

どうせ、ただの「儀式」なのだから(失礼!)、そこはもっと気楽に考えればよい。

介護の話から、葬儀の話になってしまった。
しかし介護の先には、葬儀がある。
いわば葬儀は、介護のしめくくりのようなもの。
勝手なこじつけをしたところで、この話は、おしまい。

みなさん、元気で生きている間が、人生は花ですよ。
さあ、今日もがんばって、その人生を、思う存分、謳歌しようではありませんか!

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