●10月28日(My B-Day)
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10月28日、今日は、私の誕生日。
すなおに喜べばよいのに、どうも
喜べない。
子どもというのは、誕生日ごとに、
大きく成長する。
しかし私たちは、誕生日ごとに、
大きく衰退する。
ただこの1年間、無事、元気に過ごせた
ことについては、感謝する。
「よかった」と思いつつ、ほっとする。
満61歳。
つぎの誕生日をめざして、今日から、
がんばる!
来年の今日、同じような文章が書けたら、
うれしい。
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●61歳の抱負
61歳の抱負といっても、とくにない。
今は、とにかく現状維持。
それで精一杯。
ただ世の中の動きと逆行して、仕事
そのものは、上向き。
徐々に、より忙しくなりつつあるのを、
肌で感ずる。
加えて、やりたいことが、山のように
ある。
どれからこなしていってよいのか、
自分でもわからないときがある。
たいへんありがたいことだと思う。
●悪人とはつきあうな
新しく買った電子辞書の中に、こんな言葉が載っていた。
『今与不善人処、則所聞者欺誣詐偽也』(荀子・性悪)と。
意味は「今、不善の人と処(を)れば、則(すなわ)ち、
聞くところの者は、欺誣(きふ)詐偽なり」ということだ
そうだ。
わかりやすく言えば、「ずるい人とつきあえば、それと
つきあう人もずるい人」という意味らしい。
たとえば世の中には、口のうまい人がいる。
「口がうまい」というのは、軽蔑されるべきことでは
あっても、けっして、褒められるべきことではない。
そのときどきにおいて、相手の歓心を買ったり、
媚(こび)を売るため、適当なことを言う。
適当なことを言うから、矛盾を追及されたりすると、
その場その場で、これまた適当なことを言う。
言い逃れ、言いわけ、つじつま合わせなど。
これを繰り返している間に、信用をなくしていく。
が、世の中には、そういう人を求めて、集まって
いく人たちがいる。
『類は友を呼ぶ』ということわざもある。
が、当の本人たちは、それでも結構、楽しそう。
仲もよい。
たとえばたがいに浮気の成果を誇りあったりする。
詐欺で儲けた金額を、自慢しあったりする。
ずるいことをして、法を逃れたことを、得意に
なって、話したりする。
もっともそれなりに、それらしい哲学(?)を
口にすることもある。
こうした現象を、いったい、どう理解したらよいのか。
ひとつの理由として、(心が崩れた世界)は、
それなりに居心地がよいということ。
仮面をかぶる必要がない。
無理な気負いもない。
あるがままの自分を、そのままさらけ出すことができる。
これはそのまま子どもの世界についても、当てはまる。
たとえば非行を繰り返す子どもは、その「類」の
子どもどうしで集まる傾向が強い。
グループを作ったり、徒党を組んだりする。
やはりそのほうが、居心地がよいからである。
が、ひとたびこうなると、あとは、退廃に向かって、
まっしぐら!
で、それを荀子は戒(いまし)めた。
『今与不善人処、則所聞者欺誣詐偽也』と。
簡単にいえば、「不善な人とはつきあうな」という意味。
実際、不善な人とつきあっていると、こちらまで、
おかしくなる。
善悪の判断が、鈍くなる。
とくに私など、もともとそれほどよい環境に生まれ
育っていない。
悪に触れると、そのままスーッと、悪の道に入って
しまいそうなところがある。
そんな(弱さ)がある。
実際、20歳前後のころのこと、
(やくざ)の世界にあこがれたこともある。
で、その反動形成というか、今では、不善な人を、
必要以上に忌み嫌うようになってしまった。
たとえば「ウソ」に出会うと、生理的な嫌悪感を
覚える。
はっきり言えば、ウソは、嫌い。
大嫌い。
現実には、ウソをつく人とは、交際しない。
「適当につきあって、適当にあしらう」ということが
できない。
が、ウソと無縁で生きるのは難しい。
そこで私は、いつも自分にこう言い聞かせている。
ウソはつかない。
ウソをつきたいときは、黙っている、と。
ウソをついて、あとで気分を悪くするくらいなら、
黙っていたほうがよい。
不善についても、同じ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi 不善 荀子 悪人論)
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10月28日、今日は、私の誕生日。
すなおに喜べばよいのに、どうも
喜べない。
子どもというのは、誕生日ごとに、
大きく成長する。
しかし私たちは、誕生日ごとに、
大きく衰退する。
ただこの1年間、無事、元気に過ごせた
ことについては、感謝する。
「よかった」と思いつつ、ほっとする。
満61歳。
つぎの誕生日をめざして、今日から、
がんばる!
来年の今日、同じような文章が書けたら、
うれしい。
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●61歳の抱負
61歳の抱負といっても、とくにない。
今は、とにかく現状維持。
それで精一杯。
ただ世の中の動きと逆行して、仕事
そのものは、上向き。
徐々に、より忙しくなりつつあるのを、
肌で感ずる。
加えて、やりたいことが、山のように
ある。
どれからこなしていってよいのか、
自分でもわからないときがある。
たいへんありがたいことだと思う。
●悪人とはつきあうな
新しく買った電子辞書の中に、こんな言葉が載っていた。
『今与不善人処、則所聞者欺誣詐偽也』(荀子・性悪)と。
意味は「今、不善の人と処(を)れば、則(すなわ)ち、
聞くところの者は、欺誣(きふ)詐偽なり」ということだ
そうだ。
わかりやすく言えば、「ずるい人とつきあえば、それと
つきあう人もずるい人」という意味らしい。
たとえば世の中には、口のうまい人がいる。
「口がうまい」というのは、軽蔑されるべきことでは
あっても、けっして、褒められるべきことではない。
そのときどきにおいて、相手の歓心を買ったり、
媚(こび)を売るため、適当なことを言う。
適当なことを言うから、矛盾を追及されたりすると、
その場その場で、これまた適当なことを言う。
言い逃れ、言いわけ、つじつま合わせなど。
これを繰り返している間に、信用をなくしていく。
が、世の中には、そういう人を求めて、集まって
いく人たちがいる。
『類は友を呼ぶ』ということわざもある。
が、当の本人たちは、それでも結構、楽しそう。
仲もよい。
たとえばたがいに浮気の成果を誇りあったりする。
詐欺で儲けた金額を、自慢しあったりする。
ずるいことをして、法を逃れたことを、得意に
なって、話したりする。
もっともそれなりに、それらしい哲学(?)を
口にすることもある。
こうした現象を、いったい、どう理解したらよいのか。
ひとつの理由として、(心が崩れた世界)は、
それなりに居心地がよいということ。
仮面をかぶる必要がない。
無理な気負いもない。
あるがままの自分を、そのままさらけ出すことができる。
これはそのまま子どもの世界についても、当てはまる。
たとえば非行を繰り返す子どもは、その「類」の
子どもどうしで集まる傾向が強い。
グループを作ったり、徒党を組んだりする。
やはりそのほうが、居心地がよいからである。
が、ひとたびこうなると、あとは、退廃に向かって、
まっしぐら!
で、それを荀子は戒(いまし)めた。
『今与不善人処、則所聞者欺誣詐偽也』と。
簡単にいえば、「不善な人とはつきあうな」という意味。
実際、不善な人とつきあっていると、こちらまで、
おかしくなる。
善悪の判断が、鈍くなる。
とくに私など、もともとそれほどよい環境に生まれ
育っていない。
悪に触れると、そのままスーッと、悪の道に入って
しまいそうなところがある。
そんな(弱さ)がある。
実際、20歳前後のころのこと、
(やくざ)の世界にあこがれたこともある。
で、その反動形成というか、今では、不善な人を、
必要以上に忌み嫌うようになってしまった。
たとえば「ウソ」に出会うと、生理的な嫌悪感を
覚える。
はっきり言えば、ウソは、嫌い。
大嫌い。
現実には、ウソをつく人とは、交際しない。
「適当につきあって、適当にあしらう」ということが
できない。
が、ウソと無縁で生きるのは難しい。
そこで私は、いつも自分にこう言い聞かせている。
ウソはつかない。
ウソをつきたいときは、黙っている、と。
ウソをついて、あとで気分を悪くするくらいなら、
黙っていたほうがよい。
不善についても、同じ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi 不善 荀子 悪人論)