最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

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2011-05-14 10:07:28 | Weblog






件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■子どものやる気(2)

【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子どものやる気

●静岡県K市のMT氏(父親)から、こんな質問をもらった。それについて、考えてみる。

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……2才の娘がいます。

「自発性」は人生を前向きに、また、何かを成し遂げる際に必要な素養として重要であると思います。

今日のお話では幼稚園児の「お花屋さん」と、御自身の高校時代の進路の話をされておりましたが、小さい頃に形成されるものと大人になるまでをひとつの話として理解して良いのでしょうか?

つまり、小さい頃に「自発性」はある程度形成、定着されるものなのか、あるいは大人になるまでにゆっくりと形成されるものなのでしょうか?

個人的には自発性は自信とともに、ちょっとした事で(たとえ大人になってからでも)失いがちなので、長い時間をかけて「育てていく」必要があるかも知れないという思いもあります。

金銭観は思いのほか小さい頃に形成されるという事でびっくりしましたが、本来労働の対価として得られるお金の価値は子どもには理解できないでしょうし、健全な金銭価値を教えるのは大変難しいと思いました。

お金の大切さを教えると言っても小さいこどもがお菓子を目の前にした時の欲求に対しては難しいと思いますし、欲求を常に否定するのもどうかと思います。

「金銭感覚」を「欲求コントロール」と捉えると、お小遣いが管理でき計画的に使える(今これを買うとあれを我慢しないといけないとか)様になるまでお金をあまり意識させない様にしたら(親がお金の事由でいい/悪いを決めない。高いから/安いからと言わない)などとも考えてしまいました。

(最近娘は2才にしてお金の存在に気付き、執着している風なので…)

以上、アドバイス等何かいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします……。

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 こうした質問をもらうたびに、正直言って、講演がもつ限界を、いつも感ずる。「言い足りなかった」「説明不足だった」という思いである。

 講演というのは、たとえて言うなら、映画で言えば、あらすじだけを話すようなもの。いつも、結論だけを話し、それで終わってしまう。

 しかしその点、インターネットができて、本当に便利になった。道端で会話をするように、ごく気軽に、こうして膨大な情報を、簡単に交換できる。……と、考えながら、①子どものやる気と、②金銭感覚について、考えてみたい。

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①子どものやる気

子どもの「やる気」は、かなりはやい時期に、決定される。新生児から、乳児期にかけて、決定されるというのが、通説である。年齢的には、〇歳から一、二歳前後ではないか。

 この時期、子どもの主体性が育つ。「主体性」というのは、「求めること」。そして「求めて満足させられること」。この二つで、決まる。

 たとえば空腹になる。そこで新生児は、泣く。その泣いたとき、母親がそれに答え、その空腹感を満足させる。……子どもは、それで満足する。

 これが主体性のはじまりである。

 この時期に、親が拒否的な姿勢や、態度を示すと、子どもの心には、大きなキズがつく。たとえばこの時期、もとめてもじゅうぶんな乳が与えられないとすると、子どもの中に、基底的な不安感が増大すると言われている。そしてその不安感が、生涯にわたって、その人の心のあり方に、大きな影響を与えると言われている。

 この主体性が原動力となって、子どもは、自分の潜在的能力を、前に引き出すことができる。この潜在的能力を、R・W・ホワイトという学者は、「コンピテンス」と名づけた。

 つまり主体性のある子どもは、そのつど、要求し、そしてそれを満足させることによって、自分の潜在的能力を、自ら、引き出していくというわけである。

 たとえば目の前に、きれいに輝く三つのビンがあったとする。それらのビンは、窓から差しこむ日光によって、明るくキラキラと輝いている。

 そのとき、主体性のある子どもは、そのビンを手に取ろうとする。これが空腹なとき、泣いて乳を求める行為である。

 そこでその子どもは、そのビンを手に取り、いろいろな方向から、ながめたり、光の変化を楽しむようになる。そしてある程度、一連の行動を繰りかえしたあと、満足して、それを手放す。これが母親から、乳を与えられ、満足した状態である。

 このとき、子どもの中から、ビンを通して見た、美しいものへの感性、つまり潜在的能力が引き出される。

 こうした行為を繰りかえしながら、子どもは、その主体性を、「やる気」へと、育てることができる。つまり自分で達成感を、楽しむことができる。

 これをチャート化すると、こうなる。

 (主体的行動)→(満足する)→(達成感を覚える)→(さらなる主体的行動を求める)→……、と。こうした一連の行為を繰りかえしながら、子どもは、自分の潜在的能力を、自ら引き出していく。

 どんな子どもにも、この主体性がある。そしてその主体性は、ちょうど、ループを描いて増大するように、年齢とともに、増大し、加速する。少年少女期にしても、またおとなにしても、やる気のある人と、そうでない人は、結局は、この時期の方向性によって決まるということになる。

 言いかえると、この時期に、主体性をつぶしてしまうと、やる気を引き出すのは、(不可能とは言わないが)、そののち、たいへん困難になる。私は、講演では、それを説明した。

 私が言う、「主体性」と、そののちの、子どもの心理の発達は、別のもの。だからといって、子どもの自主性が、すべて乳幼児期までに決まってしまうというのではない。つまりそこに「教育」が介在する余地があるということになる。

 それについては、また機会があれば、説明したい。

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②子どもの金銭感覚

子どもの金銭感覚については、以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を、ここに掲載しておきます。参考にしてください。

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子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ!

●年長から小学二、三年にできる金銭感覚

 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●一〇〇倍論

 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこの時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生になれば、一〇万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる

子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あるいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあなたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲームソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというのだ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがとう」と。

●この話はどこかおかしい

 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労した人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け

 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だが、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太くする。

●モノに固執する国民性

日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんなプレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。

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参考までに、子どもを伸ばす方法について
考えた原稿を、二作、添付しておきます。

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好子(こうし)と嫌子(けんし)

 何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうのよいことや、気分のよいものであったりすると、人は、そのつぎにも、同じようなことを繰りかえすようになる。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「好子(こうし)」という。

 反対に、何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうの悪いことや、気分の悪いものであったりすると、人は、そのつぎのとき、同じようなことをするのを避けようとする。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「嫌子(けんし)」という。

 もともと好子にせよ、嫌子にせよ、こういった言葉は、進化論を説明するために使われた。たとえば人間は太古の昔には、四足歩行をしていた。が、ある日、何らかのきっかけで、二足歩行をするようになった。そのとき、人間を二足歩行にしたのは、そこに何らかの好子があったからである。たとえば(多分)、二足に歩行にすると、高いところにある食べ物が、とりやすかったとか、走るのに、便利だったとか、など。あるいはもっとほかの理由があったのかもしれない。

 これは人間というより、人類全体についての話だが、個人についても、同じことが言える。私たちの日常生活の中には、この好子と嫌子が、無数に存在し、それらが複雑にからみあっている。子どもの世界とて、例外ではない。が、問題は、その中身である。

 たとえば喫煙を考えてみよう。たいていの子どもは、最初は、軽い好奇心で、喫煙を始める。この日本では、喫煙は、おとなのシンボルと考える子どもは多い。(そういうまちがった、かっこよさを印象づけた、JTの責任は重い!)が、そのうち、喫煙が、どこか気持ちのよいものであることを知る。そしてそのまま喫煙が、習慣化する。

 このとき喫煙は、好子なのか。それとも嫌子なのか。たとえば出産予定がある若い女性がいる。そういう女性が喫煙しているとするなら、その女性は、本物のバカである。大バカという言葉を使っても、さしつかえない。昔、日本を代表する京都大学のN教授が、私に、こっそりとこう教えてくれた。「奇形出産の原因の多くに、喫煙がからんでいることには、疑いようがない」と。

 体が気持ちよく感ずるなら、好子ということになる。しかし遺伝子や胎児に影響を与えることを考えるなら、嫌子ということになる。……と、今まで、私はそう考えてきたが、この考え方はまちがっている。

 そもそも好子にせよ、嫌子にせよ、それは「心」の問題であって、「モノに対する反応」の問題ではない。この二つの言葉は、よく心理学の本などに出てくるが、どうもすっきりしない。そのすっきりしない理由が、実は、この混同にあるのではないか?

 たとえば人に親切にしてみよう。仲よくしたり、やさしくするのもよい。すると、心の中がポーツと暖かくなるのがわかる。実は、これが好子である。

 反対に、人に意地悪をしてみよう。ウソをついたり、ごまかしたりするのもよい。すると、心の中が、どこか重くなり、憂うつになる。これが嫌子である。
 
 こうして人間は、体型や体の機能ばかりではなく、心も進化させてきた。そのことは、昔、オーストラリアのアボリジニーの生活をかいま見たとき知った。彼らの生活は、まさに平和と友愛にあふれていた。つまりそういう「心」があるから、彼らは何万年もの間、あの過酷な大地の中で生き延びることができた。

 言いかえると、現代人の生活が、どこか邪悪になっているのは、それは人間がもつ本来の姿というよりは、欲得の追求という文明生活がもたらした結果ともいえる。そのことは、子どもの世界を総じてみればわかる。

 私は今でも、数は少ないが、年中児から高校三年生まで、教えている。そういう流れの中でみると、子どもたちが小学三、四年生くらいまでは、和気あいあいとした人間関係を結ぶことができる。しかしこの時期を境に、先生との関係だけではなく、友だちどうしの人間関係は、急速に悪化する。ちょうどこの時期は、親たちが子どもの受験勉強に関心をもち、私の教室を去っていく年齢でもある。子どもどうしの世界ですら、どこかトゲトゲしく、殺伐としたものになる。

 ひょっとしたら、親自身もそういう世界を経験しているためか、子どもがそのように変化しても気づかないし、またそうあるべきと考えている親も少なくない。一方で、「友だちと仲よくしなさいよ」と教えながら、「勉強していい中学校に入りなさい」と教える。親自身が、その矛盾に気づいていない。

 結果、この日本がどうなったか? 平和でのどかで、心暖かい国になったか。実はそうではなく、みながみな、毎日、何かに追いたてられるように生きている。立ち止まって、休むことすら許されない。さらにこの日本には、コースのようなものがあって、このコースからはずれたら、あとは負け犬。親たちもそれを知っているから、自分の子どもが、そのコースからはずれないようにするだけで精一杯。が、そうした意識が、一方で、またそのコースを補強してしまうことになる。恐らく世界広しといえども、日本ほど、弱者に冷たい国はないのではないか。それもそのはず。受験勉強をバリバリやりこなし、無数の他人を蹴落としてきたような人でないと、この日本では、リーダーになれない?

 ……と、また大きく話が脱線してしまったが、私たちの心も、この好子と嫌子によって、進化してきた。だからこそ、この地球上で、何十万年もの間、生き延びることができた。そしてその片鱗(へんりん)は、今も、私たちの心の中に残っている。

 ためしに、今日一日だけ、自分にすなおに、他人に正直に、そして誠実に生きてみよう。他人に親切に、やさしく、家族を暖かく包んでみよう。そしてそのあと、たとえば眠る前に、あなたの心がどんなふうに変化しているか、静かに観察してみよう。それが「好子」である。その好子を大切にすれば、人間は、これから先、いつまでも、みな、仲よく生きられる。

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自己嫌悪

 ある母親から、こんなメールが届いた。「中学二年生になる娘が、いつも自分をいやだとか、嫌いだとか言います。母親として、どう接したらよいでしょうか」と。神奈川県に住む、Dさんからのものだった。

 自我意識の否定を、自己嫌悪という。自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不安心理など。そういうものが、複雑にからみ、総合されて、自己嫌悪につながる。青春期には、よく見られる現象である。

 しかしこういった現象が、一過性のものであり、また現れては消えるというような、反復性があるものであれば、(それはだれにでもある現象という意味で)、それほど、心配しなくてもよい。が、その程度を超えて、心身症もしくは気うつ症としての症状を見せるときは、かなり警戒したほうがよい。はげしい自己嫌悪が自己否定につながるケースも、ないとは言えない。さらにその状態に、虚脱感、空疎感、無力感が加わると、自殺ということにもなりかねない。とくに、それが原因で、子どもがうつ状態になったら、「うつ症」に応じた対処をする。

 一般には、自己嫌悪におちいると、人は、その状態から抜けでようと、さまざまなな心理的葛藤を繰りかえすようになる。ふつうは(「ふつう」という言い方は適切ではないかもしれないが……)、自己鍛錬や努力によって、そういう自分を克服しようとする。これを心理学では、「昇華」という。つまりは自分を高め、その結果として、不愉快な状態を克服しようとする。

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