高室氏は、甲斐源氏一族で小笠原氏を名乗っており、巨摩郡曲輪田(現:南アルプス市)に居を構えていました。享禄4年(1531)、武田信虎の命によって現在の高室町の地を与えられ、高室姓に改姓したと伝えられています。江戸時代初期には、明(中国)の帰化医師から医術を学び、以後、医業と製薬業を家業とし、享保9年(1724)に甲府藩が廃藩し、天領となったのちには甲府勤番の医師を務めた家柄です。その屋敷である高室家住宅は、約5,000平方メートルにおよぶ広大な敷地に、主屋を中心として、離れ、文庫倉(ぶんこぐら)、新蔵、前蔵、籾蔵(もみぐら)、味噌(みそ)蔵、長屋門、弁財天堂などの諸建物が機能的に配置され、周囲は水路や土塀、土塁がめぐっています。
主屋は天明8年(1788)の建築で、入母屋造の茅葺(かやぶ)き、棟の中央に煙出(けむりだし)を設け、正面の中央西寄りには明治3年に玄関が増築されました。広い土間とたくさんの部屋がある大型住居(18.4×9.1m)で、薬の調合所、薬戸棚、薬種原料の保管場所とした屋根裏状の2階部屋など、近世における医薬の施設を現在に伝える希少な例です。
江戸時代を中心として明治時代まで整えられた屋敷構えには、接客や祭祀(さいし)など、往時の暮らしと密接に関連する建物群と、東に隣接して薬草園が広がっており、中世までさかのぼると推定される屋敷割の姿を良好に残しています。
(甲府市ウェブサイトより)
主屋全景
調合所
離れの火灯窓
主屋は天明8年(1788)の建築で、入母屋造の茅葺(かやぶ)き、棟の中央に煙出(けむりだし)を設け、正面の中央西寄りには明治3年に玄関が増築されました。広い土間とたくさんの部屋がある大型住居(18.4×9.1m)で、薬の調合所、薬戸棚、薬種原料の保管場所とした屋根裏状の2階部屋など、近世における医薬の施設を現在に伝える希少な例です。
江戸時代を中心として明治時代まで整えられた屋敷構えには、接客や祭祀(さいし)など、往時の暮らしと密接に関連する建物群と、東に隣接して薬草園が広がっており、中世までさかのぼると推定される屋敷割の姿を良好に残しています。
(甲府市ウェブサイトより)
主屋全景
調合所
離れの火灯窓