智徳の轍 wisdom and mercy

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◎真のカルマからの脱却

2005-09-03 | ☆【経典や聖者の言葉】

三二 さらに第二に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、無因論として、我と世界とを無因にして起こると説くのであろうか。
 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、推論家・審察家である者がいる。彼は推論に練られ、審察に従って、自ら弁知したことを、次のように言うのである。
『我と世界とは無因にして起こるものである。』
 これがすなわち、比丘達よ、第二の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、無因論として、我と世界とを無因にして起こると説くのである。
三三 これがすなわち、比丘達よ、彼ら沙門や婆羅門が、無因論として、二種の根拠により、我と世界とを無因にして起こると説くものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、無因論として、我と世界とを無因にして起こると説くものは、すべてこの二種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
三四 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
 また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。
 これがすなわち、比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる諸法なのであり、これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。」

三五 「これがすなわち、比丘達よ、彼ら沙門や婆羅門が、過去を考え、過去に対する見解を持つものとして、以上の十八種の根拠により、過去に関して様々な浮説を主張するものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、過去を考え、過去に対する見解を持つものとして、過去に関して様々な浮説を主張するものは、すべてこれら十八種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
三六 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のように知るのである…(中略)…語ることができるのである。」

三七 「比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、未来を考え、未来に対する見解を持つ者がいる。彼らは、未来に関しては、四十四種の根拠により、様々な浮説を主張するのである。それでは、彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、未来を考え、未来に対する見解を持つものとして、未来に関しては、四十四種の根拠により、様々な浮説を主張するのであろうか。
三八 比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、死後に関する有想論を抱く者がいる。彼らは、十六種の根拠により、死後に我が有想であると説くのである。それでは、彼ら沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、死後に関する有想論として、十六種の根拠により、死後に我が有想であると説くのであろうか。
 彼らは、我に関して、次のように説くのである。
『我は病むということがなく、死後は有想であって、有色である。』
『我は病むということがなく、死後は有想であって、無色である。』
『…有色であり、かつまた無色である。』
『…有色でもなく、かつまた無色でもない。』
『我は…有辺である。』
『…無辺である。』
『…有辺であり、かつまた無辺である。』
『…有辺でもなく、かつまた無辺でもない。』
『我は…一想を有するものである。』
『…異想を有するものである。』
『…少想を有するものである。』
『…無量想を有するものである。』
『我は…一向楽を有するものである。』
『…一向苦を有するものである。』
『…楽苦を有するものである。』
『…不苦不楽であるものである。』
三九 これがすなわち、比丘達よ、沙門や婆羅門が、死後に関する有想論として、十六種の根拠により、死後に我が有想であると説くものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、死後に関する有想論として、死後に我が有想であると説くものは、すべてこの十六種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
四〇 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
 また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。
 これがすなわち、比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる諸法なのであり、これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。」

【解説】
◎真のカルマからの脱却
 要するに、仏陀の言いたいことというのは、いろいろな沙門や婆羅門の経験というのは、自分達のカルマを脱却しているものではないということである。よって、そのカルマを脱却して、本当の絶対的な状態になるためには、やっぱり、今のオウムの言葉を使うならば、遠離、離貪、そして解脱、この経典の言葉を使うならば、寂滅を知り尽くし、受の集と滅と味著と過患と出離を本当に知り、解脱する必要がある。これこそが素晴らしいことであり、これを得ることによってのみ、趣から解放されるのだ。

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