パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

現状認識

2021年11月16日 10時56分35秒 | あれこれ考えること

現状をどう捉えるかで人の判断は随分違ってくる

世の中は少しばかりバタバタしているが、自分の生活には大して影響を被っていないから
なにか特別の変化はなくても良い!とする人たちと
ずっと続いているように感じられる社会の停滞は、一つだけの理由に留まらず
複合的なものから来ていて、それらを詳しく検証すると怒りを覚えるような
不公平とか情報の不均衡が見られて、現代の日本(あるいは市)は
既に危険ゾーンにいると考える人がいる

心配症の自分は後者の方に属していて、どうしても不安材料の情報が目に入る
少し前「わかりやすさの罪」武田砂鉄著をざっと読んだ
最近はわかりやすく説明されて、それでわかったような気にさせられることが
効率的で良いことの様に思われているが、その単純化された説明は
わかりやすいフレーズ依存故に、本当は大事な「わからないことをわからない」
と認めることすらできなくなっている危険性を繰り返して説いている本だ

例のごとく、本の中の本質部分とは違う部分で気になる箇所があって抜き出した
それが

これはトリエンナーレで騒動になった津田大介氏の事業に対するコンセプトを
説明する際に書かれたものだ
そしてこの現状認識は自分はその通りだと思う

だが問題は、自分のように感じない人は数多くいるという当たり前の現実だ
選挙の投票率然り、あべのマスク絡みのお金の使い方の杜撰さ
民主主義と言いながら実態は少数者の支配になりつつある世の中(これは衰退に繋がる要素だが)
それらはある人たちにとっては、単なるおせっかいな心配事、杞憂に過ぎないとしか認識されない

しかし、それは無関心の為せる技ではなくて、単に関心の優先順位が違うだけで
生活者としての個人は、日々追われる解決すべき課題の方に時間も気力も使わざるを得なくて
少しばかり実生活には結びつかないような抽象的な話は後回しにしたいだけなのかもしれない

いろんな生き方や、個性や、指向性はあっていいと思う
だが、一部の人の不安に共感したり、その理解ができるように改めて考えたりするきっかけ
を提供して、「自分の生活が大事!」とする生活者に少しでも優先度を変えてもらうことは
(それはとても良いことと思うが)本当に難しい

(それは誰がやるべきことか、、、)


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今でも怒りを覚えること

2021年11月15日 10時30分47秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

怒りの力は侮れない
それは行動に直結するパワフルさだけでなく
いつまでも人の心に通奏低音のように沈潜してしまう

我ながら情けないが、忘れられない怒りがある
それは新城市の住民投票に関する2つの出来事だ
(住民投票は、身の丈に合わない豪華な庁舎建設の縮小を求めた
 市民の呼びかけがきっかけで、紆余曲折の後、議会提案で決定した)

選択肢1 市道東新町桜淵線の路線の変更を伴わない現計画の見直し
選択肢2 市道東新町桜淵線の路線の変更を伴う現計画の見直し

2015年、新城市の新庁舎建設に関して住民投票が行われることになったが
その時の選択肢がこの2つだ
これを見た人(市民)は直感的に何を言っているか分からない
何を言っているか分からない状態で、どちらかを選べ!というのは随分乱暴な話だ

最近出版された前の市長が登場する本では
「住民投票などの制度の原則は、全住民が直感的に判断し、選択できる問いを用意しなければならない」
と評論家風に答えている
だが前の市長の時代に行われたのは、直感的に解りにくいこの選択肢だった
彼は「自分は分かる」と言って、この選択肢による住民投票に異議を感じなかった
(言ってることと、やってることが違う)

だが当事者である市民の自分らは、まずはこの解りにくい選択肢を変更するように働きかけた
住民投票は議会提案で決まったから、当時行われた議会報告会でそれを訴えた
だが議会は何も変更しなかった

この住民投票が行われる条件として前の市長は、この2つの選択肢の比較ができるように
「市民まちづくり集会」を開く様に求めた
ここまでは良いとしても、その先がひどかった

2つの選択肢の良し悪しを比較するのなら、双方(住民投票を求めた側と求められた側)の
言い分の発表時間は同じでなければならない
あるいは、同等の立場で意見を言い合うというのが当たり前のことだ
会場にいた人は、無条件にそのように行われるものだ、行われていたと思ったかもしれないが
全くそうではなかった

選択肢1は行政が決めたプランを実行するというもので、
選択肢2が住民投票を求めた側のプランだが、それぞれの案を発表する時間、
発表する人はとても奇妙なものだった
選択肢1は当然の様に行政が説明、そして選択肢2は市民が発表すると思いきや
なんとこれも行政が説明した
そして「選択肢2は自分たちの計画ではないからよくわからない」と会場で平気で口にした
更に選択肢2を発表する行政の人は、選択肢2の欠点を会場で発表した
(この欠点はデマで、その後調べてみるとそのような事実はなかった)

何故、そんなでたらめなことがおきてしまったのか?
それを追求してみると、そこには玄人にしかわからないようなルールがあったからとされた
つまり「まちづくり集会」そのもののあり方とか運営方法は
市民に公平にジャッジするための機会を与えるものではなく
決められた規則内で行われる集会に過ぎないというのだった
その運営方法によれば、発表時間も発表する人の選択も問題はないとされるものだった

だが会場にいた人の多くは、公平に情報提供がされるもの(されたもの)と無条件に思ってしまう
それは、勘違いするかもしれないが、勘違いするほうが悪い、自分たちはルール内で行ったに過ぎない
との弁解で、この理不尽な行為はいつの間にか市民の記憶から忘れさられるようになっている

ルールを知っているということは、抜け道を知っていることに繋がる
その抜け道をフル活用すれば、合法的に理不尽なこともできるようになる
残念ながらこの事実を知ることになったのは、これがきっかけだ

いまでも思い出すと怒りが沸々と湧いてくる
と同時に、世の中は随分いい加減なところで回っているものだとも感じてしまう
そしてこれは市だけでなく、国政でも似たようなものかもしれない、、と思うと
心配性は不安になってしまう






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レコードの音、CDの音

2021年11月15日 09時08分01秒 | オーディオ

物理的な要素からではレコードの音はCDにかなわないとされる
歪とか雑音のみならず、その他の要素もCDのほうがデータ的にも良く
CDの弱点と言われる高音域・低音域のカットは、そもそもその音は
人間に聞き取れないから問題ないとされる

でも、依然としてレコードの音のほうが良いと言い張る人もいる
その場合はいい音という基準ではなく、好きな音か否かに過ぎないと
結論付けられることが多い

最近の自分は圧倒的にレコードを聴くことが多い
それは、その方が好きな音というだけの事かもしれない
だがうまく言語化できないどこか違うところがそこにはある
感覚的な言い方になるが「ふわっとした雰囲気、音の熱っぽさ」
それがレコードからは感じられるがCDからは感じられない

この差は再生装置のレベルの違いから来ているかもしれない
レコードの方はちょいとプレーヤーにもフォノイコにもお金をかけている
CDの方はべらぼうに高くはないがそれなりの価格のプレーヤー
この金額の差がもしかしたら聴く時の印象に違いを与えているのかもしれない

でも、他の場所(素晴らしいオーディオ装置を揃えた喫茶店)などでCDを聴いても
やっぱりCDの音だな!とテンションが下がることがしばしばだ
バッハのマタイ受難曲などを始めとするレコードの面を替える無駄な手間も忘れて
その世界に没入するという経験は、CDでは残念ながら今のところない

レコードとCDの同じ演奏のものを持っているというのは、マニアにはありがちなことで
例外にもれず自分もいくつか重なっている
だがフルトヴェングラー指揮の「トリスタンとイゾルデ」
バッハの「音楽の贈り物」などはいくらCDが便利でもレコードを聴いてしまう
それは何かが違う!と感じるからだ

この感覚の違いは生活とか生き方に違いを生じさせるものではない
むしろほとんど影響はないだろう
でも何かに違いを感じるということは、実は何も感じないでいることよりは
些細な分野だとしても大切なことのような気がしている

まずは感じること
人は考えるよりも前に何かを感じる
感じることは想像以上に大事なことかもしれない、、と思ったりする

 

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同じ土俵にあげるという戦術

2021年11月14日 09時12分29秒 | あれこれ考えること

最近よく使われる「論破」という言葉に違和感を持つ人はいるようで
今読んでいる「わかりやすさの罪」(武田砂鉄)にもこれは出てくる
この本の中に思わず納得する部分があった

保守論壇が対話や討論ではなく「ディベート」という形式にこだわるのは
ディベートは、複数の論点から話し合う対話や討論と違い、二項対立図式のコミュニケーションである。
それが好まれる理由は、一方に歴史学の通説を設定し、他方に特殊な少数意見を扱うことによって
あたかもマイナーな説を二大通説のひとつのように地位を底上げすることができ
同じレベルで議論することができるからだ
すなわち、ディベート論題は設定の時点で、すでに「俗説」「傍流」を格上げする
イデオロギーを発揮していることになる

つまりはディベートの対立軸として扱うことによって、意図的な勘違いを利用しているということで
この勘違いによる例として、昔、資生堂とカネボウの化粧品のCM合戦が行われた際に
会社規模とかその実力を知らない人は、無条件に資生堂とカネボウは同等な力を持つものだと思い込んだ
だが販売規模は圧倒的に資生堂が上だった
同等に扱われる様に広告展開をしたカネボウは賢かったが
得した企業のもう一つはCM収入を狙ったテレビ局だった

これは少数者あるいは弱者の戦術なのだろう
同じ土俵に上がって戦う機会を得る
戦術としては真面目に考えられた方法かもしれない
だが、気をつけないといけないのは、それを批評し判断の材料とする一般人の意識だ
ついつい、取るに足らない(かもしれない)説を大真面目に取ることで迷うことばかりが増える
そして当人はそれ故に冷静な判断をしうると思っている、、、

最近の世の中を見ていると、このようなことが至るところで多いような気がする
「論破」という言葉が出てくると、つい首を傾げてしまうが、違和感を持たない人も多そうだ
それがなんだか不安

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相手によって話し方を変えるということ

2021年11月13日 09時17分33秒 | あれこれ考えること

相手によって話し方を変えるのは当然のこと
聞き手がそのテーマ(政治的)の背景知識がある人とない人で
話す内容を変えるのが賢い方法

話すことは相手に影響を与えるということ
その影響が効果的となるためには、自説が客観的に正しそうな印象を与えることで
聞き手が背景知識がしっかりある人には、両論併記のような形で
まずは現状の説明から入って、それから対処法としての自説を説いていけば
説得は話し手の冷静な姿勢故に信用されやすいらしい

ところが背景知識のない人を相手にする場合は、客観的な現状分析は時として
反感を招くだけになりかねない
特に反感を持っているが詳しい内容を知らない人には、現状分析の段階で
「相手はこのような言い分で、、、」と話すこと自体が許せない行為のように思えてしまう

討論と議論は冷静に客観的に、、、といわれても、実態はこのように入り口の段階で
なかなかうまくいかないことが多い
これは抽象的な話だが、決して架空の想像上の話ではなく
現実に市政の問題を考える時に、しばしば経験することだ

人の一番わかり易い理解の仕方は「誰々が悪い!」と決めつけることだ
だがそれは「何でも反対している」と部外者には反感を覚えさせる原因にもなる
「彼らはなんでも反対」と決めつけていることも、実は安易な判断で
反対している人たちの切実な思いを理解しようとしないで
自分の価値観のなかで判断しているに過ぎない
(人はわかりあえない?)

物事にはテクニック、技術というものがあって、人に影響を与えるとか説得というものは
心理学的な傾向を知っているとより効果的になる
だが、それは一種の恐ろしいテクニックのような気がしないでもない
先日読んだ「プロパガンダ」には、(悪人が利用すると)恐ろしい技術が嫌となるほど
紹介されていた

その衝撃は大きく、今でも一種の絶望感に襲われそうなところまできている
特にある組織がメディアを実質的にコントロールできる状態にある場合
その危険性は想像以上のものとなる
そして気づいたときには手遅れとなってしまうかもしれない

世の中の数%の人が感じる何か(例えば危機感)!は、先取りしている感覚かもしれない
だが、先取りの感覚は先取り故に解りにくいこともある
そのことを伝えようとすると、今度は背景知識のない人への説得行為の難しさにぶち当たる

最近は全てが教育の問題と思えるようになってきた
新城市が標榜する市民自治も、そもそも前提となるシティズンシップが理解されず
ただ単に制度だけが存在する様になっているように思えてならない
(なんでも反対してると言われそうだが)

教育委員会は市の制度の中にあるが、どのくらいのオリジナリティをもって
独自の(シティズンシップ教育の)方針や行動をすることができるのだろう

良さそうなことでも、厄介なことはやらないに限る、、、の壁は大きいかな








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変顔

2021年11月12日 08時37分12秒 | 子どもたちのこと

5月から毎週水曜に、ブラジルにいる子たち(お姉ちゃんと弟)とZoomで日本語の会話の勉強をしている
お姉ちゃんの特技は今の子らしくアニメのキャラクターを真似て描くことでそれが半端なく上手い
「好きこそものの上手なれ」の典型で、絵を書いている時間は勉強の時間よりずっと楽しいようだ

真似ばかりではなくて、頭に浮かんだものを描いて、その絵の説明を日本語で行う
というのを宿題にしたことがあった
聞かれたことに答えるだけでなく、自分の思ったことを話すというのは意外に難しいと
自分も実感しているので、それでこの方法を試みた

彼女に、日本には「北斎漫画」というのがあって、世の中のいろんなものを今でいう漫画
のようなイラストで本にしたものがあるよ、、とネットの画像を見せた
その中にこんなのがあって笑えてしまった


下の段の真ん中、口を左右に引っ張っている変顔
これはなんと弟の得意のポーズだ
日本にいた時もブラジルにいる時も、彼はこちらを笑わそうとする時にこの格好をする

先日親御さんのFBの投稿写真を見る機会があったが、弟くんはずっと小さい頃から
このポーズが得意で、しょっちゅうしていたようだ
「小さいときから、これやってたんですね!」
とコメントを入れると、笑いのアクションがあった

お姉ちゃんに「Aくんそっくりだね!」
というと、彼女も笑う
「いつの時代も、どこでも人のすることって同じだね!」
彼女は頷く
3月まで日本にいて、今はブラジルにいるお姉ちゃんと弟
彼らは日本にいた時、どんな思いをしていたか気になるが
誰でもできるわけではない貴重な異国での経験が楽しいものであって
それが彼らの生き方に肯定的に影響にするものであってほしいと思う

どこでも、いつでも人は同じ
そういうことを感じてもらえれば、彼らは充実した生き方をできると思ってしまう

そんなことを、変顔から連想した


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「人は、わかりあえることはないかもしれない」

2021年11月11日 09時50分12秒 | あれこれ考えること

朝と夜に考えることは違うようだ
真夜中のラブレターという言葉があって
それは夜のハイテンションで書かれたラブレターを
朝の落ち着いた気分で読み返すと、恥ずかしい気がするといった
誰もが一度は経験したことのあリそうなのを表した言葉だ

備忘録のようなこれも、夜に次はどのような内容でいこうかと考える
最近は気が滅入ることが多く、他人が読んでも面白くもないことが続くが
どうしても通奏低音のように不安が気分を支配しているかのようだ

夜に不意に浮かんだこと(もしかしたらハイテンション状態?)
そして朝読み返すと恥ずかしいことになりそうな考え
それは「人は、わかりあえることはないかもしれない」という思いだ

討論をつくしていけば、理性に従って説明をしていけば
人は必ずや同じ結論に至る、説得しうる、、
というのは、現実には無理なのではないか
そんなことが不意に浮かんだ

数学的な証明分野は、有無を言わせず納得するしかないかもしれないが
感情を伴う判断の分野は、それを育ててきた環境が人それぞれなので
感じ方や判断は違う

そして人がわかり合うためのツールとしての言葉とか討論には
限界があるのではないか
言葉が雄弁になると、違う立場の人は絞り出そうように違う理屈を考え出す
これは永遠に続くような気さえする
「カラマーゾフの兄弟」では、あの有名な大審問官はその雄弁な弁舌で
理屈の上ではキリストの生まれ変わりと思われる人を論破したように見える
それに対して、生まれ変わりの彼は何も言わない
言えば、更なる言葉が返ってくるのを見越したのか
彼は大審問官に口づけをしただけで去っていく

大審問官とその男はわかりあえていない
このように根本のところで人はわかりあえないのではないか
と実感するようなことは実生活でも多い

だが、それで悲観するかと言えば、今度は生命力のたくましさのおかげで
その状態をクリアする考えを生み出す
わかりあえないかもしれないが、その上で相手の存在とか人権は認める
といった考え方だ
それは憎き碁敵がいないことには自分も碁を楽しめないことに通じるかもしれない
碁敵も碁が好き好きだという事実はお互い認めあっている
その時点で、人は相手を認めることができる

つまり考え方は違うが、その違う考え方をしている人も自分と同様に一生懸命
考えているのかもしれない、、と思うことで、人としての存在を認めるということだ

三島由紀夫が東大のストを実行する学生との話し合いで
「諸君の情熱は認める」(方向性とか方法論は違っても)
と言ったのは、このようなことだと想像する

ということで夜のハイテンション状態(?)で浮かんだことは
朝には恥ずかしい事かもしれないが、割合いい考えのような気もするので
勢いに任せてアップすることにした



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「ロング・アンド・ワインディング・ロード」の思い出

2021年11月10日 09時43分01秒 | ポール・マッカートニー

ビートルズの解散間近の寒々とした風景を過剰に演出した作品が
ルーフトップライブが最後にある有名なドキュメンタリー映画だが
(今は何故か再上映されない)
流石にあの映画の雰囲気は実態と違う!
とイメージチェンジを図るような映画が「ゲット・バック・セッション」
として年末に上映される

予告編を見れば彼らのあの年齢(アラサー)の調子に乗った仲間同士の悪ふざけや
ひょうきんさが見えて、感情の行き違いばかりではないことはわかる

ところで今日はこのテーマではなくて「ロング・アンド・ワインディング・ロード」の思い出
アルバム「Let it be」に収録されたこの曲は、印象に残ったもののオーケストラとコーラスが
あまりにも大げさな感じがして個人的には嫌気のほうが多かった

ところがこの曲をいい曲だな!と再確認したことがあった
それは若気の至りでドイツ周辺を放浪していたときのこと
偶然ポール・マッカートニーとウイングスのライブがウィーンであることを知って
彼を初めて生で見ることになった

その時はアルバム「ビーナス・アンド・マース」の楽曲を始めに演奏されて
続いて「バンド・オン・ザ・ラン」の中の曲が演奏された(と記憶している)
演奏曲にはお決まりのイエスタデイが出てきて、多分そのあたりだと思うが
ロング・アンド・ワインディング・ロードも演奏された
その時の印象が意外にも「いい曲だな!」だった
何で今までそうは思わなかったのに、その時は何故そう思ったのか、、
それがわからないまま時間が過ぎた

それはどうやら編曲の違いらしいと思うようになったのは
ポールがフィル・スペクターのオーケストラとコーラスのアレンジを
大げさで好ましくないと思っていたことを知ったときだ
(彼はシンプルな編成でやりたかったらしい)
そうだよな、ポールの意見に賛成!
あの曲の大げささに違和感を覚えていたので、すぐさま同意した

シンプルな編成での歌のほうが切々とした感じは残る
壮大な感じはしないが、自分はこちらのほうが好きだ

今はいい時代になったもので、ユーチューブで2つの編曲を聴き比べができる
最初がオーケストラとコーラスつき
その下がシンプルなかたち
今は、どちらもそれなりと思うようになりつつあるが
それでもやはり、、、かなと思うことが多い

The Long And Winding Road (Remastered 2009)

The Long And Winding Road (Naked Version / Remastered 2013)



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「時給はいつも最低賃金、これって私のせい?ですか」

2021年11月09日 09時41分53秒 | 

「何がわからないか、わからない」
本当にわからない状態というのは、このようなもので
数学のリーマン予想、物理学のひも理論、マクロ経済学
法律の解釈などは、素人には
「何がわからないのか、わからない」状態だ

同じようなことが政治の世界でもあるかもしれない
政治と言っても、政策の部分と権力闘争の部分があって
特に前者は広範な視点と知識が必要なので容易に理解し難い

フリーランスのライター、実態はアルバイトで生活資金を補っている方が
自らの視点・体験を元に政治家に質問をぶつけて書き上げた本がある

それが


答える政治家は香川一区の小川淳也さん

ところが取り組んでみたもののインタビュアーの和田さんには
政治についての背景知識がない
それ故に一般庶民の実態に近いと思われて、本の中にある彼女の質問は
観念的でなくわかりやすい

本の構成は以下のようになっている

第一章 生きづらいのは自分のせい?
第二章 耳タコの人口問題が生活苦の根源
第三章 「なんか高い」では済まされない税金の話
第四章 歳をとると就職できない理由
第五章 見て見ぬふりをしてきた環境、エネルギー、原発問題
第六章 自分を考える=政治を考える

これについて小川さんが程度の低い(?)質問にも真正面から答えている
だがそれは上から目線ではなく、紐解くように真摯に答える
流石に税金の話は難しく、インタビュアーのように理解できない部分は多かったが
それ以外はとてもわかり易かった

だが、答えると言っても政治家の政治的な立場からの答えは
実生活で最低賃金で暮らす経験をしているインタビュアーの感覚とは異なる
そこで小川さんから「教えを乞う」だけでなく必然的に「庶民の実感」に基づく
理解につながるような討論という形になる

それは最終的にはどちらかが「論破」という形を取るものではなく
まるでソクラテスの対話のように個々の思っていることの整理に結びつく

討論においては小川さんの答えは、「小川さんの答え」であって
彼以外の政治家は他の答えがあるということだ
(理屈の上ではそうだが、実際に彼のように緻密に考え続けている人がいるかは疑問)

話は少し逸れるが、ここで少し心配なのは、このような丁寧な答えを事細かく説明している小川さんは
もしかしたら悪意を持った人たちに、その一部を切り取って
彼はこのような発言をしているとデマを発散されないかということだ
特に原発の章などは、最後まで話を聞かないと誤解を受けそうな話になっている
これは最近読んだ「プロパガンダ」の影響で余計な心配ごとなのかもしれない

この本は小川さんの真面目さを評価するきっかけとなるかもしれないが
実際のところこの本に関わることで一番「得をした」のは、著者の和田さんではないかと思う
彼女はインタビューの初めの頃と、何回か経験をしてきたあとでは全然違う
それはまさに成長と言えるもので、彼女自身も参考となる本を呆れるほど読んで
背景知識が格段に増えたこともあるが、何よりも直に話すことによってその熱を感じられたのが大きいと思う
この本の中には「これは和田さんの成長物語」とのセリフがあるが、それは読んでいて実感できる
と同様に、多くの人がこの本を読むことで勇気づけられたり、考えが整理されたり、
何をすべきか考えるようになるきっかけを見つけるもしれない

これは今年読んだ本の評価として「優」の文字を迷うことなく選んだ





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「韓非子」「プロパガンダ」支配されないようにする方法

2021年11月08日 09時42分42秒 | あれこれ考えること

中国の諸子百家のうちの法家「韓非子」は、
生活実感に基づいたリアリティのある説話が多く
それらは支配者にとってはとても有効な知恵となるが
支配される方からすれば、そんな裏の事情があるのかと
少しばかり人間不信になってしまいそうな気がするものもある

例えば部下に褒賞を与える場合、受け取る側は直接自分に
物を与えてくれる人に恩義を感じ、与えるべく判断をした人は
疎かになってしまうので、そのところは気をつけないと
誰の命令を聞くか曖昧になってしまうとしている

少し拡大解釈をすると、国会議員は国民の税金からお金を受け取って
仕事に取り組んでいるので、本来ならば国民の方を向いて何かを考えるべきだが、
現実社会はポジションを与えてくれる立場の人に無条件に従っているように見える
(つまり人事権を持つ人に、つい従ってしまうそうになるということ)

人のこのような癖とか指向性を理解しているものは、それを都合よく利用する
だが、そうした事情を人々が知ってしまうと支配者は少しやり難くなる
そこで、自分だけが知っていて他人は知らないのが一番だと思うようになる
韓非子はあまりにも人間の本質(今で言えば社会心理学)を知りすぎているので
他人にそれを広められては困ると考えた支配者は彼を抹殺したらしい

実際のところ、昔、韓非子を拾い読みした時は、経営者はこの本を労働者には
読んで欲しくないだろうな、、と思ったものだ

同様な印象を持ったのが先日取り上げた本「プロパガンダ」だ
事実もどき、広告、噂、感情に訴えるテクニック、発信者の影響、
受け手の状況によって話の内容を変えるテクニック等によって人は知らず知らず説得されている
この事実を理解している支配者(その様な立場の人)はこれを十分利用する
そうならない為には、まずはその実態を知ることで安易に話には乗らなくなる

ところがこの本の最後に書かれているように社会は
今更、広告や報道の量や表現についてのコントロールはできない現実がある
となると、あまり問題意識を持たない大衆は、自らを守るためにはどうしたらいいか
が問われることになるが、残念ながらその方法はよく分からない

結局は個々が自ら安易にうまそうな話に載らないこと
その話の反対の立場からの理解の仕方はないか、、
それで誰が得しているか、、、
等を考える癖をつけることだと思ったりする

すこしばかり面倒だが、人は自分で知恵をつけないとあかんな!
と思うこの頃






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