確かにその通りかもしれないと感じる諺がある
「田舎の3年、京の昼寝」
田舎で黙々と勉強するより都会(京)で 一流の人と接している方が
大した努力をしなくてもはるかに勉強になることの例えだ
若い時期はこの言葉に焦りを感じたものだが、今は少しばかり「諦め」という知恵もついたのでそれほど気にならなくなっている
現在は田舎に住んでいるが、時々お上りさんよろしく東京に出かけても、やたら人が多いなとか
人間の顔のポスターが多いなとか、街にあふれる多くの人たちは一体何を考えているのだろうとか
これだけの人に囲まれていながら一人ひとりは孤独なんだろうな、とか
あるいは夜の東京からの帰りの電車で、ふるさに近づくにつれ灯がなくなって辺り一面が闇に包まれそうになっていくさまを
光と同時に音までも吸い込まれていくようで、それでいてなんとなくホッとするような
つまりは田舎のリズムに身体が馴染んでいくのが「旅の目的は自宅の良さを改めて実感すること」以上のありがたさを感じるきっかけとなっている
確かにすごいと思われる人たちは都会にいる
自分がやっと気づいたようなことを、すでにあたり前のこととして、そこからもっと前に進んでいたりする
また手にする情報量が圧倒的に違うし、たとえ同じ情報を得たとしても実感としてのリアリティが違う
(東京で東京のニュースを見聞きするのと、田舎で東京のニュースを見聞きするのは印象が違う)
でも、田舎に慣れた生活をしているので、それに残念ながら自分の力もわかってきているので
遅れている、、ということに関してはもう焦りを感じない
それよりは情報過多で、情報の洪水に飲み込まれて自らの考えを持つことなく、流れに乗っているだけで
都会人やら今時の人間として体裁を保っている人たち(そんな人ばかりではないが)に対しては
幼稚であったとしても自分の頭でのんびり考えること(感じること)ができることのありがたさを思うようにしている
東京に行くと自分が心地よい場所である書店につい足が向かう
紀伊国屋書店とか八重洲ブックセンターなどだが、折角きたのだからどこでも求められるものではなくマニアックな本を探す
すると、あるだろうと期待した本は案外見つからない
ここで改めて自分が少し変人かもしれない、、と実感する
そしてこの変人ぶり(?)の背中を押すのが田舎という環境
都会にいれば現在という時間に振り回されすぎるだろうが、田舎ではどうでもいいことをあれこれ考えたり感じたりできる
そんなもん考えて感じてどうなるんだ、、ということだろうが、それが個性だからこれはしょうがない
(ただもう少し同じような指向性をもった人が近くにいたら楽しいだろうなとは思うが、、)
今はこの様に感じるとしても、若い人たちが持つであろう都会に出てみたい
なにか勝負をしてみたい、有名になってみたい、世界に関与するようなことをしてみたい
都会人としての自分を自慢してみたい、、と言うような気持ちはよく分かる
地方では若者の都会への流出が問題となっているが、多分雇用の問題だけでなく
こうした若い人の焦燥感、憧れがおおきなウエイトを占めているのではないか
最近は大学が周辺都市から都会回帰となっているようだが
これなんかはこうした若者の気持ちを汲み取ったことなのだろうか
ということで、現実は田舎にいるので「田舎の三年」をマイペースでやり続けるしかない
とりあえず今年は昨年以上の読書量に挑みたいが、いきなり壁にぶち当たってる
オルテガの「個人と社会」 これが「大衆の反逆」よりは観念的でわかりにくい
この分だと最後のページまでたどり着いたが、何を訴えているか分からない、、ということになりそうな予感
でも途中で放棄するのは忌々しいし、、、
同時進行は「シュメル」人類最古の文明 (小林登志子著)多分こちらのほうが先に読み終わるだろうな