国と市がシンクロしていると感じる昨今
国関係の話題ではコロナ対策専門家会議の議事録が残されていないだとか、
議事要旨で十分ではないかとの意見等が交わされている
(市の)ある会議に出て、議事録とか議事要旨を実際に経験した者とすると
議事要旨というのは微妙な存在だ
議事要旨をまとめる2人の人物を見ることになった
1人は、特殊な才能とも言えるほど(その能力に呆れるほど)ものごとを
まとめるのに長けていた
彼はまとめた上で、会議の参加者にそれを回して了解を得て議事要旨を残した
そしてその議事要旨は不満のないものだった
もう1人は、何人かいた関係者の中の現場における中心人物という立ち位置で
常に会議には出ていたが、ある時その会議の議事内容を他人に説明する機会があった時
議事要旨をいう形でザッと説明したのだが、それが自分たちが行っていた会議の内容とは
どこか違っているように思えた
その違和感は自分の個人的な印象ではなく、会議に同席していた彼の上司も持ったので
その場で若干の訂正を求める事があった
議事要旨は、このようにまとめる人の力量とか何らかの意図によって
その印象は変わってしまう可能性がある
会議は時間をかけて行われているとしても
それだけちゃんとしたステップを踏んでいるとしても
本当のところは現場を見ないとよくわからない、、というのが実感だ
議事要旨ではなく議事録がある、、としても、議事録はどこか静的な印象がある
会議での雰囲気とか熱気とか勢いとか、なんとなく参加者の間に広がった共通の感覚とか
そうしたものは議事録ではわからない
テキストデータとしての記録と実際の人が感じた(納得した)記録(あるいは記憶)とは
だいぶ違う
これは市議会を傍聴してそこで感じたものと、静的な議事録との印象の違いとしても現れる
特にマズイのは議事録は不穏当発言は削除されて残される
その削除された部分が重要な意味合いを保つ場合、議事録で何かを確認しようとしても
それはできず、運良く傍聴に出かけた人の記憶に頼るしかなくなる
新城市では不穏当発言の多いある議員さんの一般質問の内容を確認しようと思ったが
公にされた議事録は削除部分が多すぎて、確認作業を続ける意欲を失わせるものだった
議事録とか議事要旨が残されていると言っても、それは完璧な記録にはならない
一番いいのは「そこで見聞きすること」だとつくづく思う
だが現実的にはいつもいつもそれが可能というわけにはいかない
ちゃんとした人が、ちゃんと行って、ちゃんと記録を残している
という前提に立って、その意思決定の正当性が担保されるが
現実の世界は、国も市も、理想通りにはいかないというのが実態のように思えて仕方ない
現在、市では二年の時間をかけて条例化を進めようとしている案件がある
二年の時間をかけたのは事実だ
だがその二年間の間に、何が大きなテーマとしてあがり、何が問題とされたのか、、
については、今はその気になれば調べることでできる議事録を見ただけではわからない
(そもそも延々と議事録を読み続ける人が存在するのか?)
ちゃんとしたステップは踏んでいる
制度上はそうかもしれない、だが問題はその実態はどうなのか、、、
については、ずっと批判的に(?)見ていたものからすると、少しばかり違和感がある
諮問機関、パブリックコメントのステップは行政のアリバイ作り、、
と言われるが、つい納得してしまう