パンセ(みたいなものを目指して)

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少数者の支配、それを可能とする背景

2020年09月06日 07時47分26秒 | あれこれ考えること

ここでの何回目の引用になるのだろう
それは著名な方が書き残しているから本当と感じるのではなく
例えば市井の無名な人間が書き残しても、現実の描写なので
新聞記事を読むように納得できる

その引用とはハンナ・アーレントの全体主義の起源(3)の一部で
(政治の)少数者の支配と無関心層の存在が(全体主義)体制を維持している
という内容でこのように書かれている

全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、とくにヨーロッパ政党制度の信奉者が後生大事にしていた2つの幻想の終わりを意味した。その第一は一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心を持つ市民であり、全員が必ずいずれかの政党に組織されるというところまではいかなくとも、それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくとも、その政党によって自分を代表されていると感じているという幻想である。

ところが運動が実証してみせたのは、たとえ民主制のもとでも住民の多数派をなしているのが政治的に中立で無関心な大衆であることがあり得ること、つまり、多数決原理に基づいて機能する民主制国家でありながら、実際には少数者だけが支配しているか、あるいは少数しかおよそ政治的な代表者を持っていないという国がある、ということだった。

大衆が政治的に中立で無関心なら政治的な重要性を持たないわけだし、たとえそういう大衆がいるとしても実際に中立的立場を守り、たかだか国民の政治生活の背景をなすにとどまっている。ところが民主制という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢していることで命脈を保っているに過ぎず、民主制は明確な意思を表示する組織された公的諸機関に依存しているのと全く同じに、意思表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している、

現在の日本が全体主義国家かどうかは判断保留しておいても(既にそうなっているとの考えもある)
日頃接するニュース・情報からすれば、上記の指摘は悲しいいくらい現実味を帯びている
国の一番大事な役職の人物を選ぶ過程において、それが決められるのは実質的「少数者」によっている
それどころか国家予算の方針・決定すらも多数決の形を取りながらも、少数者の判断に依存していた
(例えばアベノマスクなど)

そしてそれらを可能にしているのは、黙って我慢している政治的に非積極分子の存在で
自分に関係ないとか、自分のたった一票の投票は全体に影響ないとかの理由で
選挙にいかない人々とか、投票したとしても自分の投票が将来にどのような影響を
与えるかを考えず、感情の赴くままとか、その時の空気に流された人たちだ

多くの人の判断が正しいかどうかは、少しばかり疑問があるが
「多くの人が選んだから仕方ない」と思うことは一般的にありうる
問題は「多くの人が選んだから仕方ない」という感覚を、うまく利用されているのではないかという点だ

結局は少数者の都合による支配にもかかわらず、その少数者は多数の意志を反映して判断し行動していると言い切る
だがその多数の意志とは必ずしも政策の判断とか予算執行の判断を良しとしたものではなく、
選挙結果がその人達に多かったに過ぎないのに、それで白紙委任をされていると判断しているのだ

現実的は選挙で選ばれた人の判断に任せるしか手がないとしても
各問題に対して白紙委任で良いかどうかは別問題で、面倒だが庶民の気がつく人(問題意識を覚える人)は
選んだ人の判断をチェックしなければならない、、というのが好ましい姿のように思える

ここで肝心なのは問題意識を持つ庶民はどのくらい存在するか?という点だ
多い方が好ましいのはわかるが、これが現実にはとても難しい
自分たちのことは、自分たちでよく考えないと後で酷い目に遭う
を想像力で補う事ができれば良いのだが、どうも人は痛い目をしないとわからない
と少しばかり悲観的に思えてしまう
それでも良い方に期待するしかないか、、、




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