パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

ミルの忠告(中日新聞のコラムから)

2023年11月18日 10時56分56秒 | あれこれ考えること

最近薄くなっている中日新聞朝刊、同居人はきっと読まない記事が目に入った
(彼女は三河版と社会面と投書欄が好き、、あと週刊誌の広告とかも)
それは「ミルの忠告」と題された鷲田清一氏のコラムだ

ミルの発言を取り上げて悪人にとって都合の良いのは
「善人の袖手傍観」と警告している
別の表現では「善人の沈黙」も使われている?
(ハンナ・アーレントの全体主義の起源3でも同じようなことが述べられている)

これはそれなりの経験を積んでいる人間には実感する事柄だ
だがそれに対してなにか具体的に行動を起こすのがとても難しい
それは単に面倒くさいとか、自分以外の人が行動してくれとか、、
いくつかの理由を考え出してしまう
だが例えばデモなどに参加し、一歩でも踏み出せば反対意見の存在が
気になり好き勝手はできないのだが
この成功体験が日本では少なすぎる気がする
そして何もしないし黙っている

そしてついには何をしないことへの自分への言い訳を考える
悪政を前にしてその大きな力が自分に抗いえずといえども仕方ないと
「良心をなだめ」それを黙認するのだ

人類は脳が発達して万物の霊長として君臨しているが
脳の発達した部分はコミュニケーションを司る分野らしい
人はコミュニケーションを通じて社会的にうまくやっていける方法を
生物として選んだとしているのだが、果たして上のような善人の袖手傍観は
人としてのコミュニケーション能力を発揮しているのだろうか

自分以外の誰かにそういう面倒なことはやってほしい
これが実生活上は多いと思われる

現在の複雑化しいる社会においては良いこと悪いことの区別は難しい
だから賢くあらねばならない
その賢さというのは、ここでは物事の軽重を見極め
これより向こうに行ったら危ないことを直感的につかめる
前ー知性的な能力を鍛えることだとしている

この直感的な善悪の判断力が必要!と訴えるのは「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?」
(何年か前によく売れた書籍)でも同じように訴えている。
一見社会に役に立たないような美意識は、実は上手く生きるための能力でもあるようだ

多くの人が感情を伴い「そうであるべき」と感じる自然法的な思いとか倫理観とか正義感
それらは思い込みとか独断を超えたレベルのものでなければならない

要は人一人ひとりがしっかりしなければならないのだが
難しそうな面倒なことは、自分以外の人にやって欲しいというところに戻ってしまう
(これには自分も含めてどうすれば良いのだろう)

それにしても、この記事に目を止めてあれこれ考える人はどのくらいいるのだろう
自分は絶対読むべきと思っているが、、さて!

まとまらない話!

コメント
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