面白いけれど、想像以上に内容が濃くて手こずっているのが
ベルナール・ルシャブリエの「モーツァルトの脳」
モーツァルトの異常な程の音楽的記憶力の秘密を
音楽的な記憶とはそもそも何なのか、などから
脳の作用する部分の解説、
そして一つに秀でたものは一種の人格破壊が起きているのではないかとする
仮説への反論やらを懇切丁寧に紹介している
さすがデカルトの国の作品、細かな分析がベースにあって
その上で人間的な主張も含まれている
しかし、ここで考えてしまったのは
日本ではこうした本は生まれないのではないか?
ということ
日本では、これだけしつこい考察よりは
あっさり一言で分かってしまえるような表現は好まれ
そのほうが商業ベースにも乗っていき
その結果充分な考察はカットされる
言い換えれば、日本はハウツウ本、解答本だけが大事にされる
わからないのは自分のせいでなく
分かりやすく書かない本に責任がある
こんな態度が国民全体にあったりして、、、
ところがこの態度、
原発事故報道に関する記者、メディアのそれに似ていないか
わからないのは自分たちのせいでなく
分かりやすく言わない学者のせい、、、
今回の震災、及び原発事故で身にしみて感じたことは
全ては簡単な一言では片付けられないということ
原発は安全か?安全でないか?だけの報道、情報だけでなく
まず自分が判断できうる知識を持つこと
そして、そうした情報を得ようとすること
こうした態度こそが大事ということ
つまりはこのような態度を持つようにするには
じつは若い時期での考え方の癖として
哲学みたいなものを(授業に)
もっと取り入れたほうがいいのではないか?
考えるくせ、
感じるのは自然に努力しなくても感じることができる
しかし考えるのは習慣にしないとできない
だから考える癖を早いうちにつけさせることこそが
教育の一番のポイントと思うのだけれど、どうなのだろうか