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Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

伊藤計劃『ハーモニー』感想

2011年06月06日 | SF・FT
今は亡き伊藤計劃による、星雲賞、日本SF大賞受賞の傑作『ハーモニー』。

先日のディック記念賞受賞と、SFマガジン2011年7月号の特集
「伊藤計劃以後」を受けて、改めてこの傑作を読み返してみましたが、
Jコレクション出版時と今では読後感も違うし、なにしろ世界そのものが
大きく変わってしまいました。
そんな中で思ったことを含め、いまの感想を率直に書いてみようと思います。

<etml:lang=ja>
<body>

『ハーモニー』を読んだとき、伊藤計劃はヴォネガットに似ているんだと思いました。

ミァハの持っていた本『特性のない男』はムージルの作品で、(読んでないけど)あらすじを見ると、
伊藤氏の作風に大きな影響を及ぼしているようです。
しかし一方で、私はこのタイトルにヴォネガット『国のない男』を連想しました。
(そしてここには『虐殺器官』のジョン・ポールの姿も投影されているはず。)

やさしさが世界をどう変えるかという認識と、そして虐殺行為への考察が
作品の原動力になっているという共通性。
さらに『国のない男』と『ハーモニー』が、共に著者の最後の一冊であるという事実。
もしもこれらの全てが偶然だとすれば、ちょっと出来過ぎと思うくらい。

文章から見ると、やはり小説とか文学とは異なる畑から育った人だと感じます。
例えば、伊藤氏に見えたはずの映像、撮ったはずの映画のノヴェライズを
本人が書いているような感触。
そして随所に出る引用や注釈めいた説明文には、映像で見せられないことへの
もどかしさが出ているようにも見えました。
絵でうまく見せられないぶん、変に饒舌になるような不自然さというか。

「etml」はこの作品における重要な仕掛けだけど、小説における文字情報として
必須であるとは思えませんでした。
これはむしろ「小説ではなくソフトウェア」という擬似的なパッケージとして
提示しようとした、伊藤氏ならではの戦略ではないだろうか、と。

少なくとも私は、伊藤氏は全面的に言葉の力を信じてはいなかったように思います。
あるいは、言葉に誠実に向き合った結果として、それを疑わざるを得なかったのか。
伊藤氏が言語表現に対するもどかしさ、あるいは限界性を探りながら書き進めた先に
「妥協点」あるいは「可能性」として見出したのが「etml」であったのではないでしょうか。

『ハーモニー』が見せる、ヒトと社会の出会う究極の臨界点。
そこで問われる、ヒトとは、生とは、幸福とはなにかという命題。
そして、ネットワークとweb2.0の先、ヒトの自由と民主主義の極限には何があるのか。
そこは天国に一番近い場所かも知れないけど、そこに住むのは天使だけであり、
穢れた身であるヒトの居場所はないかもしれません。
それは作中でもぎこちなく引用された『風の谷のナウシカ』の最終巻が示す世界です。
twitterとustreamが人々を結びつけ、facebookとジャスミン革命に希望を抱く世界に対して、
伊藤計劃は『ハーモニー』という途方もない爆弾を仕掛けていったのではないでしょうか?
“その先に待っているのは、本当に理想の世界ですか?”とでも言わんばかりに。

私たちが見ている、聞いている、知っている現実とは、本当に本物なのか?
その問いに対して、私たちは絶対に答えを出せないでしょう。
それは外部から、そして私たちの内部から常に操作されている「現実」だから。

いま、放射性物質がヒトに及ぼす影響がさまざまなネットワークを介して飛び交っています。
あるいは、生肉の安全性についての議論がそこかしこで繰り広げられています。
既に私たちは「絶対的な健康」を保証して欲しいと求める道にはまりつつあるのではないか。
既に私たちの「絶対的な現実」は、ネットワークによって四分五裂しつつあるのではないか。

そして多様な社会インフラと目まぐるしい流通経済、そして溢れる情報メディアに身を委ねなければ
日々を生きることすらままならず、いくつもの無料サービスを利用する代償に個人情報を切り売りし、
気づいてみれば自分の身一つではどうにも立ち行かなくなってしまった現代社会において、私たちは
とっくの昔に、「どこにもいなくなっている」のではないのか。

私も放射線は怖い。食中毒も怖い。そしてデマに踊らされるのも怖い。
でも一番怖いのは、「わたし」を知りつくし、そして「わたし」に一切の異論を許さない世界の到来です。
そんなルールを押しつけてくるのが国家であろうと企業であろうと、あるいはごく普通の一般大衆であろうと、
その本質には何の違いもありません。

もしそれを言葉にするのが不謹慎だと思われても、いまこの問題をリアルと切り離して考えることが
「わたし」にとっては一番不謹慎なことだし、それを言わせない社会こそ一番不謹慎だとも思うのです。

そして“世界”の押し付けがましい優しさに対抗するための「ささやかだけど、役にたつこと」の例として
作中に出てきたのが“ほどほどの悪徳”や“ささやかな反社会的行為”を自覚的に嗜むという行為でした。

これらは確かに、稚拙で未熟な行為に違いありません。
でもそれを完全にコントロールするということは、結局のところ人間を「健康と正常という名の全体主義」
というガス室へ送り込むにも等しい。
そこは人間性の「場5号」、またの名を「スローターハウス5」と呼ばれる部屋です。
そして5はローマ数字のV、そしてかのアラン・ムーアによる「Vフォー・ヴェンデッタ」の原点でもあります。

ムーアが描いたVと同じく、ミァハもこの部屋で“誕生”し、まず自分を、やがて世界を救おうとします。
しかしミァハの場合、その動機は復讐でもなく、愛でもなく、人間としての合理的な判断によるものでした。
そこにはもう人間の尊厳も謙虚さもなく、ただ冷え冷えとした峻厳な論理が、あたかも白い雪山のごとく
そびえるだけのように思えます。
・・・あるいはミァハの選択も、やっぱりひとつの「愛」の形だったのでしょうか?

ここまで考えてきて、ふと東京都の「非実在青少年問題」をめぐる問題を思い出しました。
この条例を推し進めようとした「良識者」は、人間をどれだけクリーンだと考えていたのでしょう?
そしてこの検討に加わっていたメンバーとその肩書を見るとき、私の頭にはカフェインの害について
婦人から糾弾されていた、霧慧ヌァザの姿が浮かんできてしまうのです。

「プライバシー」や「プライベート」が「わいせつ」と同義で扱われる世界。
そんな世界を作ってしまった罪と、それに対する罰。
そのとき人間の尊厳を省みなかったのは誰か。その責めを負うべきは誰なのか。
しかし責任者が誰であろうと、結局そのツケは人類すべてに回ってくるのです。

そして私にこんなことを考えさせる「SF」を読むということも、
きっと“ささやかな反社会的行為”のうちに含まれるのでしょう。

だったら、『ハーモニー』に連なる作品が書かれ続けるかぎり、
私はこれからもずっとSFを読み続けるだろうと思います。
そこにSFの、物語の、そしてヒトの持ち得る唯一の“尊厳”があると
信じられる限り、私はSFの可能性をあきらめたくないですから。

世界は不協和音で満ちているかもしれない。
でも、同じ音しか聞こえない世界にはいきたくない。
それはたぶん、世界が寂しくなっていくことと同じなのだから。

</body>
</etml>



こちらが2010/12/8発売のハヤカワ文庫JA。
いま書店で入手できるのは、ほとんどこっちでしょう。


こちらは2008/12/25発売のハヤカワJコレクション。
クリスマスという日付に、なにか運命的なものを感じます。

以下は関連書としてとりあげたもの(の一部)。


カート・ヴォネガット・ジュニアの遺作エッセイ『国のない男』。


そしてこちらは、ヴォネガットを代表する傑作SF『スローターハウス5』。
これが最初に邦訳されたときのタイトルが『場5号』でした。


私がアラン・ムーア3大傑作コミックと崇めるうちのひとつ『Vフォー・ヴェンデッタ』。
V様はロールシャッハと並ぶ、私の敬愛するヒーローです。
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