Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

“乱視読者”見習いの、演習問題-ジーン・ウルフ「島の博士の死」

2011年05月11日 | SF・FT
「うわぁ、この物語はまるで砂糖漬けのオレンジピールを添えたチョコレートケーキみたい。
 小さいかけらなのに濃厚でほろ苦いけど、ステキな甘酸っぱさもあって、まさにオトナの味ね。」

・・・のっけから遠子先輩を下手にパクった書き出しは、らっぱ亭さんというSFのえらい人の影響です。
関係者及び“文学少女”シリーズのファンの皆さんには、大変失礼いたしました。
(ああ、らっぱ亭さんと水鏡子先生の出るラノベ企画が見たいな。あとラファティがらみの企画も。)

さて、私の乏しい味覚で「島の博士の死」のお味を表現するなら、冒頭のお菓子な文章が精一杯。
まあさすがにこれだけではなんとも手の施しようがありませんので、せっかく拝聴してきた若島先生の
立派な講義を手がかりに、この作品について自分なりの解釈を書いてみたいと思います。

というか、この「島の博士の死」という作品、短いながらもウルフらしさが全開という点では
「Sir Gabriel」と同じくらいにウルフ演習に最適な作品ではないか、とも思ってます。

あと、らっぱ亭さんの記事によると、ウルフ自身もインタビューでこんなことを言ってたとか。

“"島の博士の死"という小品を書いたことがある 。大好きな作品だが、いまだかつて、
 誰も気にも留めなかったね。”
(「とりあえず、ラファティ」2007/3/25の更新履歴より)

つまりこの作品、ある意味ではウルフ先生もお気に入りの話なのに、世界でもあまりネタになってない!
これはもう、とりあえず何か書いちゃったもん勝ちってことですよね!(・・・そんな調子で大丈夫か?)

さて、「島の博士の死」において注目すべき点を、以下に並べてみます。

1 初出が短編集「ウルフ群島」Wolfe Archipelagoであること(若島先生の言う「パラテクスト」)
2 “島”“博士”“死”という言葉の組み変えにより生まれた一連の作品の最後に書かれている
3 最後に書かれたにもにもかかわらず、この一連の作品が収められたウルフ群島の冒頭に置かれている
4 先に書かれた3作の主人公が“少年”“青年”“壮年”なのに対し、「島の博士の死」の主人公は老教授である

これらの要素から推測するに、ウルフは先の3作では書き漏らした「老年期の物語」を加えることによって、
人生のひとつのサイクルを「ウルフ群島」の中に再現しようとしたのではないでしょうか。

しかし、ここでなぜ「人生の終わりの物語」を、わざわざ冒頭に持ってきたのかという疑問が生じます。
ジーン・ウルフほど順番にこだわる作家であれば、普通はこれを作品集の最後に置くのではないか。
しかし見方を変えれば、この作品を冒頭に持って来るため、わざわざ「まえがき」の中に組み込んだと
考えられなくもありません。
ではなぜ、この作品を冒頭に置かなくてはいけなかったのでしょう?

「ウルフ群島」に収録された4つの作品を並べてみると、人の一生を網羅するために肝心な場面である
“誕生”の場面が欠けていることに気づきます。

私は、その“誕生”の場面こそ「島の博士の死」に隠されたもうひとつの神秘であり、これによって
「ウルフ群島」は本当に完結する(そして再び始まる)のではないか、と考えています。
そしてこの解釈において特に重要となるのが、男女二人の学生による9月の舟遊びの場面であり、
さらにそこから数えて約3ヵ月後にわかったという「ある奇跡」が何であるか、ということです。

若い男女が二人きりで離れ小島にいた間に、本当は何があったのか。
誰かが語ったことが「都合のいい真実」であり、「本当の真実」ではないかもしれないということは、
作中で登場人物たちが繰り返し語っていることでもあります。
これは裏を返せば、第三者のいない場所での出来事については、その真偽が不明であるということに
ほかなりません。
これっていわゆる「信頼できない語り手」というやつの典型例ですよね。

ここで気をつけたいのが、SFセミナーで若島先生も指摘していたとおり、物語が「現実」と「超現実」の
両面で読み解けるということ、そしてウルフが特に祝日に対するこだわりをもっているということです。
ウルフが作中で「クリスマス休暇」と明記しているのが、単なる事実の指摘ではないとしたら、ここには
「クリスマス」と関係のある何事かが起きていると考えてよいでしょう。

それまでの記述どおりに読めば、このとき二人が気づいた奇跡は「愛」でしょうし、これはこれで
(普通の意味では)見事な物語の終わり方であると思います。
しかし副次的な要素として、「クリスマス」が何のお祝いかまでを考慮して読んだ場合には、
そこに愛よりもさらに進んだ「男女の関係」を読み取ることもできるのではないでしょうか。

さて、若島先生の「Sir Gabriel」についての講義を思い返して、ここまでを現実的解釈とすれば、
これとは別の超現実的解釈をするにあたり、次の部分が大きなポイントになるでしょう。

・二人の学生が島に渡ったとき、なぜインスラ博士はガレージの中でボートに乗っていたのか。
・博士は、そのボートでどこに行こうとして、最後にはどこへ到着したのか?

これについては、クリスマスという故事にまつわる超現実的な要素を重ね合わせることにより、
自然と答えが出てくると思います。
つまりインスラ博士は、あの時やはり二人と共に島にいて、さらに今でも二人をつなぐための
「絆」として、共に在るのではないかと・・・。

・・・なんてことをいかにもそれらしく説明してきましたが、こういう読み方でどれだけ作品の中にある
真実に迫れるかという点については、正直言ってまったくわかりません。
なぜなら、最後の一節では登場人物自身が「人生」というかけがえのない本の「読み手」という立場に
置かれており、彼らがその本からどんな「奇跡」を読み取ったのかは、「島の博士の死」という作品の
読者である私たちには絶対にわからないように書かれているからです。

しかしこれを「物語として知らせるべき情報を明かさない、不親切極まりない小説」と斬って捨てるのは
ちょっと乱暴ではないかと思います。
むしろこれは「人生という物語に対して無数の“読み”を許すことにより、人生における無限の可能性を
肯定する」ととらえたほうが、若島先生が「デス博士の島その他の物語」について語った際に話していた
「人生そのものを肯定する物語」という解釈と、うまく一致するのではないでしょうか。

うまいことオチがつきませんが、まあ素人でも手持ちの材料だけでこれだけいろいろに読める、という
ひとつの実例としてお読みいただければと思います。
若島先生の言う「ウルフは決して難しい作家ではない」という意見や、SFセミナーで指南された読み方の
有効性についても、ある程度は納得してもらえるんじゃないかなーとも思ったりして。

確かにジーン・ウルフはとっつきにくい作家ですし、なんだか回りくどく書いてるところも多いですが、
読んだ後にしばらく経ってから「あ、あそこはそういうことか!」という発見に驚くこともしばしばあり、
ハマると結構癖になる書き手です。(それだけに、インタビューでのウルフのボヤキが信じられない)

若島教授の講義が活字になったら、それを片手にぜひ新しいウルフの作品を読みたいし、それを手がかりに
より多くの人にウルフを読むことの面白さを知って欲しいもの。
そのためにも、さらに多くのウルフ作品が優れた訳者によってガンガン訳されることを願っています。
(プロ翻訳家のあの人とか、ファンジンのあの人とか、候補者は山のようにいると思うのですが・・・。)

まあとりあえずは一刻も早く、国書刊行会から「ジーン・ウルフの記念日の本」が出てくれないかなぁ。
確か同じ版元で「Wizard Knight」も出るはずだし・・・国書さん(の編集の樽本さん)よろしくお願いします!
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« SFセミナー2011レポー... | トップ | ジーン・ウルフの作品が、中... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿