Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

サミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン』(1巻)感想

2011年07月13日 | SF・FT
国書刊行会「未来の文学」第三期シリーズのスタートを飾る、サミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン』。
1・2巻同時刊行、併せて千ページというシロモノですが、ようやく1巻だけを読み終えました。
筋らしい筋がない話(というか、話ですらないのかも・・・)なので、読み進めるのになかなか骨が折れます、ふぅ。

まだ半分しか読んでないので断言はできないけど、ここまでの印象としては、ディレイニー版の「アリス」なのかな?という感じ。
なにしろ性別や人種といった(いわゆるアメリカ的な基準からすれば)既成の価値観がことごとく裏返しになっているところが
なんだか『鏡の国のアリス』を思わせるし、全編にばら撒かれた性描写には、言葉あそびの代わりに様々な性的プレイを用いて
物語を組み立てようとしてるんじゃないか・・・などと思わせるところもあります。
それに白ウサギとか怪物も出てくるし、日付の進行までバラバラになっちゃってますしね。

もし『ダールグレン』を「アリス」に見立てるとすれば、3章の「斧の家」でリチャーズ一家が延々と繰り返す
「街全体が崩壊しているのに、そこだけは普段と変わりがない日常を営む姿」は、鏡によって裏返しになった
「マッド・ティーパーティー」にあたると思います。
そこに迷い込むのが色黒で年齢不詳の“キッド”で、逆にリチャーズ家のメンバーに“金髪の白人少女”がいるのも、
様々な役割が逆転した「アリス」という感じでしょうか。
まあルイス・キャロルも特異言語感覚と偏った性的志向の持ち主だったわけで、今回のディレイニーが自分自身を
アリス=キャロルに見立てて『ダールグレン』を書いたと考えるのも、あんがい的外れではないのかも。

それにしても、自分向けの“ネバーランド”を作りたがる人というのは、どこかに性的志向の偏りがあるという
奇妙な共通項で結ばれているのでしょうか。
その点では、主人公の“キッド”という呼び名や、美しさと醜さが混在した容姿などに、ディレイニーと同じ黒人であり、
「キング・オブ・ポップ」というアイコンへと登りつめたマイケル・ジャクソンの姿が重なるようにも思えます。
結果としてディレイニーは『ダールグレン』を書くことによって、文学と音楽における二人のポップ・スターを
自分と重ね合わせてしまった・・・とまで言うのは、ちょっと煽りすぎですかね?

ポップスターといえば、『アインシュタイン交点』に続き『ダールグレン』でも、ビートルズがらみの人名が出てきます。
巽孝之先生の解説では(ここだけ先に読みました)ジョージ・ハリスンの名前が挙げられてますが、他の主要人物に
ジョンやポールといった名前があてられているのも、単なる偶然じゃないはず。
そして最後のビートルは誰かというと、その名前の由来に「ビリー・ザ・キッド」と「リンゴ・キッド」のダブルイメージを持つ
主人公のキッド(言い換えれば、ディレイニー本人)こそ、リンゴ・スターの化身なのでした。

もっとも、この作品で顕著な「ヒッピー文化とフリーセックス」が世界を変えるという考え方は、1970年代以降には
退潮を迎えるのですが、実はその文化的な土壌は1980年代以降に「ネット空間」あるいは「サイバースペース」へと
舞台を変えつつ、現在に至るまで延々と継続していると見なすこともできるでしょう。
例えばネットにおけるコミュニティの形や、仲間うちでしか通じない言葉遣いへの執着、そして集団内部での抗争まで、
それらはどこかしら70年代に挫折した“あの文化の記憶”を引きずり続けているようにも感じられます。

そして『ダールグレン』が「サイバー・パンク」の到来を告げる前兆のひとつであったと考えれば、この作品の序文を
ウィリアム・ギブスンが書いていることについても、ひときわ大きな意味が生じてくるはずです。

ところで、1巻の終盤でキッドの詩集「真鍮の蘭」の表紙見本が出てくるシーンについて。
ここを読んだとき、いま持っている本とSFセミナー合宿で見た束見本の記憶が一瞬の間にオーバーラップして、
なんだかすごく感動してしまいました。

これは前にも紹介した束見本の写真ですが、横から光に照らさないと題字が読めない表紙も、本編を読んだ後で見ると
また違った感慨があります・・・まあ中のページは黒くないし(むしろ真っ白)、挿絵も入ってないですが(笑)。

国書刊行会の樽本氏が自信ありげに「読んでもらえば、この表紙にした意味がわかります」と言い切った理由が、
今ではよくわかります。
うーむ、これからは敬意を込めて“コーキンズ・樽本”さんとお呼びしなくちゃいけないかも(笑)。

さて、これからがんばって残り半分にとりかからなくちゃ。
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「フレデリック・バックの映... | トップ | 小松左京先生、逝去 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
アリス! (BP)
2011-07-21 00:51:56
 アリスの件、とても興味深く拝見しました。なんだか素晴らしい分析に繋がる予感w。実は僕、『アリス』未読なので、判断できませんが(^^;;)お恥ずかしい。

 マイケル・ジャクソンの件は、ちょっと違和感を(^^;)。
 『ダールグレン』が刊行された時点でMJは17歳。当時のオタクとしての知名度がどの程度あったか、知識はないのですが、書かれた当時はまだ本当に子供だったはずで、ネバーランドにいる大人だったか、ちょっと疑問かなと。

 すみません、ちゃちゃ入れてw。
 2巻でのルイス・キャロル読みの続レビュウも期待しています!
返信する
そのへんも含めて「予言的」かなと (青の零号)
2011-07-23 00:00:24
BPさん、いつもありがとうございます。
そろそろⅡも終盤に差し掛かってきましたが、
事態は一向に収束の気配を見せません。
というか、収束しないんじゃないかな、この話・・・。

MJの件、違和感があるのもごもっとも。
まあ私のイメージとしては後年のマイケルが
奇しくも性的な問題を抱えるという点において
キャロル/ディレイニーらに接近した事実が
『ダールグレン』において先取りされているような
一種の予見性を感じたということです。

また、ビートルズとマイケルを対比させたのは、
70年代から80年代におけるポップスターのイメージが
白人から黒人へと大きく移行していく風潮を
『ダールグレン』が見事に捉えていると思ったから。
このへんはⅡを読み終えた後のまとめとして
他の要素も追加しながら話を広げたいと考えています。

ところで、“マイケル”のことを思いついた時点では
まだⅡ巻は読んでませんでした。
これがとんだまぐれ当たりになるとは、
私としてもビックリです(^^;。
返信する

コメントを投稿