DALAI_KUMA

いかに楽しく人生を過ごすか、これが生きるうえで、もっとも大切なことです。ただし、人に迷惑をかけないこと。

どうする(71)

2015-02-02 23:01:17 | ButsuButsu


朝ドラのマッサンの中で、北海道の余市が登場する。

JR小樽を過ぎて西へ向かうと、この地に到達する。

ここがニッカウヰスキー誕生の地だ。

しかし、私が余市の名を聞いて思い出すのは、58歳の年で夭折した故・堀野収(おさむ)氏のことだ。

余市は彼の故郷だった。

私たちは、1970年に京都大学へ入学し、理学部の同級生となった。

学園紛争の中で、よく議論し、よく酒を酌み交わした。

堀野氏は3回生で経済学部に転学部し、卒業後、北海道新聞社に入社した。

しばらく年賀状のやり取り程度の交流が続いた。

その彼から突然電話がかかってきたのは、1981年の春、私が英国南岸のサウサンプトン大学の研究室にいた時だ。

どうしたの、と問いかけると、なんと同じ英国東岸のコルチェスターにいるという。

どうも入国管理事務所で拘束されているらしかった。

人が使わないルートでオランダから英国に入ろうとして、ロッテルダム発コルチェスター着のフェリーに乗ったという。

そこまではよかったのだが、普段は日本人がほとんど乗船しないので、係官に不審に思われたのだ。

おまけに職業欄に新聞記者と書いたらしい。

お願いだから身元引受人になって欲しいという電話だった。

係官と話をつけて、やっと彼は入国を許された。

ロンドンで待ち合わせて、クラシックコンサートを聞きに行った。

笑い話のような話だが、堀野氏は裏道を歩くのが好きな人だった。

その彼が1990年代にウィーン駐在し、本を書いた。

「ウィーン素描」という本だ。

もう絶版になっているが、アマゾンのネット販売では中古本が手に入る。

新聞記者としてストレスの多い生活を送ってきた彼が、趣味の時間にまとめた名著だ。

その後、函館で再会し、歓迎の宴を開いてもらったのが最後の出会いだった。

走るように生きてきた堀野氏は、2008年の年の瀬に、58歳の若さで人生を終えた。

胃がんだった。

気が付いたときは手遅れだったそうだ。

余市というまろやかな発音を聞くと、私は堀野氏のことを思い出す。

極上のシングルモルトのように味わいのある人だった。

竹鶴のストレートを味わいながら、こうしてかつての友人のことを思い出している。

雄弁で、知的で、そして少し抜けたのが取り柄のダンディな記者さんだった。

「乾杯!」

私の数少ない畏友の一人だ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿