私が大学院生当時のC大には、現代思想を牽引する花形教授がたくさんいた。いまやほとんどの方々が鬼籍に入られたが、その名声をしたって多くの俊英がC大の大学院には集っていた。私はひょんなことから、俊英たちの集う自主ゼミに参加させてもらっていた。E・カッシーラの本をを原文(ドイツ語)で読んでいた記憶がある。私はデルデスデムデンも怪しいのだから、ついていけるはずがない。いじけて鯛の絵をテキストの余白に描いていた。鯛のお頭(カッシーラ)つき…。
自主ゼミの後の飲み会にも参加した。俊英たちはそこでも難解極まる議論にふけっている。「ギョッギョギョエテがロマン派でビーダーマイヤーなのだよ」と誰かがいえば、別の誰かがこう切り返す。「いや、それはイデア界が論議了解で超越論的偶有性の発露だという可能性はないだろうか」。ぼくも意見を求められた。しかし悲しいかな。大学院に入るまで私はマンガ以外のまともな読書をした記憶がない。「ウランちゃんがアトム君でお茶水博士なのだよ、っていうこともありますよね」とおちゃらける他はない。ああ、おれはだめなのだ。学者の道を志したのは大きな間違いだった。100年たってもこれらの人々には勝てないだろう、とうじうじと悩んでいた。
しかし飲むほどに酔うほどに、俊英たちのろれつも怪しくなる。そして会話の水準も著しく低下していった。挙句の果てに俊英たちは、肩を組んで声高々に春歌を歌い始めたのである。「トーマス・マンの子どもは、トーマス・マン…」。
この時私は二つのことを翻然と悟った。ひとつはどれほどインテリぶっていようとも、日本の男の品性というのは、酒を飲めば春歌を高唱する程度のものだということである。そしてもう一つ。トーマス・マンはウルトラマンやスーパーマンやヤッターマンの仲間だということだ。俊英たちへの劣等感は完全に払拭されていた。
自主ゼミの後の飲み会にも参加した。俊英たちはそこでも難解極まる議論にふけっている。「ギョッギョギョエテがロマン派でビーダーマイヤーなのだよ」と誰かがいえば、別の誰かがこう切り返す。「いや、それはイデア界が論議了解で超越論的偶有性の発露だという可能性はないだろうか」。ぼくも意見を求められた。しかし悲しいかな。大学院に入るまで私はマンガ以外のまともな読書をした記憶がない。「ウランちゃんがアトム君でお茶水博士なのだよ、っていうこともありますよね」とおちゃらける他はない。ああ、おれはだめなのだ。学者の道を志したのは大きな間違いだった。100年たってもこれらの人々には勝てないだろう、とうじうじと悩んでいた。
しかし飲むほどに酔うほどに、俊英たちのろれつも怪しくなる。そして会話の水準も著しく低下していった。挙句の果てに俊英たちは、肩を組んで声高々に春歌を歌い始めたのである。「トーマス・マンの子どもは、トーマス・マン…」。
この時私は二つのことを翻然と悟った。ひとつはどれほどインテリぶっていようとも、日本の男の品性というのは、酒を飲めば春歌を高唱する程度のものだということである。そしてもう一つ。トーマス・マンはウルトラマンやスーパーマンやヤッターマンの仲間だということだ。俊英たちへの劣等感は完全に払拭されていた。