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大学教育の無償化を(日本海新聞コラム潮流・5月29日掲載分)

2009-06-04 15:02:28 | Weblog
日本では貧困世帯が全体の約15%を占めている。この貧困率は、先進諸国のなかではアメリカに次ぐ高さである。新聞やテレビの報道で、このデータはかなりよく知られるようになってきました。しかし、本当にそんなに貧困は増えているのかと疑問に思っておられる方も多いのではないかと思います。たしかにみすぼらしい身なりで街を歩いている人などほとんどみかけません。食べ物であれ、服であれ、ハイテク機器であれ、店頭には安価で良質な商品があふれています。貧困の増大がリアルに感じられる状況ではありません。

 娘の高校の吹奏楽部に、高価な楽器を自分でもっているおしゃれな先輩がいました。その先輩は、去年の暮れごろから部活を休みがちになりみんなが心配していました。彼女のお父さんが突然病気で倒れて仕事を失い一家は無収入になっていたのです。家計を支えるために彼女は、いくつものアルバイトをかけもちします。部活に出てこられる状況ではありません。引退式で彼女は、涙ながらにそのことを部員たちに告白しました。「受験勉強などとてもやっていられない。それ以前に大学に行くお金もない。私はどうしたらいいの」。

 「自己責任」ということばが、小泉政権の時代に流行しました。不遇な状態に陥るのは、その人の能力や努力が欠けているからであり自業自得である。そうした思想がこのことばの背後にはあります。もしこの先輩が大学進学を断念しなければならないのだとすれば、それも「自己責任」なのでしょうか。大学を出るためには数百万円の学費がかかります。貧困家庭には、それをまかなう資力などありません。親の資力の有無という、本人の能力や努力とは何の関係もない要因によって大学に行けるかどうかが決まってしまうのです。

 90年代に始まる財政難のなかで大学への補助や奨学金のための支出が次々と打ち切られていきます。学費は高騰し奨学金の多くが利子つきのものになっていきました。大学進学の可否が親の資力よってきまる仕組みが強化されていったのです。かつてイギリスは、子どもが親と同じ職業に就く比率が高い典型的な階級社会であるといわれてきました。ところが近年では日本の方がイギリスより階層の流動性が低くなってきています。「公正な競争」を重んじる改革が、出生によって子どもの将来が決定される社会をもたらしたのです。

 ヨーロッパ諸国では、高校大学の学費は原則的に無償です。そして若者たちは、親の世話になるのでも、アルバイトをするのでもなく奨学金を給付されて大学に通います。日本もそうなっていれば、あの先輩の涙もなかったはずです。お父さんの病気は心配でしょう。しかし、そのために彼女の将来が損なわれることなどありえないのですから。また高額な教育費の圧力は、住宅ローンとともに親たちを苦しめています。大学教育が無償になれば、不条理に未来を断たれて泣く若者も、自殺をする中高年も大きく減るに違いありません。