ガラパゴス通信リターンズ

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佐賀の人

2007-08-27 05:20:00 | Weblog
 普通の県立高校で平凡な選手しかいない佐賀北高が、甲子園大会で優勝したのには本当に驚いた。同チームのキャプテンの市丸君のお兄さんは、甥っ子の菓子学校(現在もなかやの後とり修行中)の同級生。身内の知り合いのいるチームということもあって、このチームを熱心に応援していた。決勝戦で劇的な満塁本塁打を打ったのは、副島君。明治新政府で活躍した副島種臣も佐賀の人だった。

 佐賀藩は、薩長土肥とよばれて、明治新政府の中枢を担っていた。武断的な薩摩、陰険で謀略好きの長州に比べて、佐賀藩出身者には理知的で開明的な人物が多かった。フランスの法制度を日本に移植したラディカリストでありながら、「征韓論者」・「不平士族」の汚名を着せられ佐賀の乱で非業の最期をとげた江藤新平然り。親英派で早稲田大学を創設した大隈重信然りである。プロイセン的な国家主義ではなく、英仏流のリベラリズムに親近感をもっていたことが、佐賀の英傑たちの特徴だ。

 佐賀藩といえば、「葉隠れ」の地で、頑迷保守的の印象があるので、これは少々意外な気もする。長崎に近接した佐賀藩は、長崎御番(警護)の役割を担っていた。江藤・副島・大隈らは、長崎を通して海外の文化の息吹に触れ、リベラルで合理的な思想を形成していったのだろう。そして外国を身近に感じることで、藩という閉じた世界ではなく、日本という「ネーション」の視点に立つ発想を彼らは若くして身につけることができた。そこが薩長閥との決定的な違いである。

 有望な選手は入ってこない。お金はない。サッカー部と共有でグランドはひどくせまい。進学校で練習時間は短い。特待生がひしめく野球名門校とは正反対の悪条件のなかで、同校の百崎監督は徹底的な基礎訓練を選手たちに課していった。できることはそれしかないからだ。それが真夏の激闘に耐えうる体力と精神力と、あの驚異的な守備力を培っていったのだろう。できることを徹底的にやる。これは精神主義というよりは、合理主義であり、幕末維新の先人に連なる佐賀人のよき伝統である。今回の快挙を江藤新平も草葉の陰で喜んでいるのではないか。