ガラパゴス通信リターンズ

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原稿用紙

2006-04-10 06:09:28 | Weblog
 一昨年の4月に亡くなったぼくの母は、短歌を詠む人であった。歌歴は70年に及ぶ。母が小学校6年の時、県立高等女学校受験のため、近所の塾に通わされていた。「学校始まって以来の秀才」の枕言葉とともに語られていた二歳上の叔母に比べて、母はひどくできが悪いと祖母は考えていたのである。その塾の先生は若い未亡人。歌を詠む人であった。一度母の勉強をみると、「あなたは何もしなくても受かります」と言って短歌の手ほどきを始めたのである。昔の塾とは優雅なものだ。

 少女時代が母の短歌の黄金期であった。彼女の短歌はしばしば、『心の花』の巻頭を飾った。戦死した自分の兄を詠んだ歌は、『昭和万葉集』にも収録されている。しかし、戦後の母には、短歌の天分を伸ばしていく暇はなかった。商家の家付き娘である母は、戦争で中断した商売を祖母と再興させながら、子育てにも追われていたのである。短歌の投稿はコンスタントに続けていたけれども、そこに大きなエネルギーを割く余裕など到底もてなかったのである。

 母が四〇歳になった頃のことである。旭川で雑貨屋を営む主婦が、『氷点』という小説を書き、テレビドラマの原作に採用された。1000万円の賞金を獲得したのである。当時の1000万円は、いまだといくらぐらいになるのだろうか。自分と同い年で境遇も酷似した女性の成功に母は刺激された。これからは、短歌ではなく小説を書くと宣言した。数千枚の自分の名前が入った原稿用紙を作り、週末ごとに近所の温泉にこもっては、「創作活動」に励んだ。

 短歌と小説とでは、勝手が違ったようだ。母の創作熱は一年もたなかった。一攫千金を狙うより、地道にもなかを売る方が自分の性にあっていると母は言っていた。一遍の小説も書きあがらないまま、後には膨大な原稿用紙の山が残ったのである。ぼくは、学校時代の作文の類をすべてこの原稿用紙に書いた。そして250枚の修士論文を書き上げたところで、原稿用紙の山はなくなった。ぼくは、学者としての第一歩を母の原稿用紙で踏み出したのである。