怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.99 ぼっけぇ、もんげぇ~下ノ巻

2008年06月06日 08時53分25秒 | 怪道
本日はウラのお話。鬼ベースのキャラな辺は似てますが同じウラでも釣られてみる?とかいうヒトとは出が違いますョ。

ワタシがウラという存在を知ったのは小学校の高学年頃。その頃ハヤリだった藤川桂介の『宇宙皇子』で、皇子が修行で日本各地を旅する中、戦った相手として登場したオニでした。飛騨の両面宿禰とは意気投合してたのに温羅とはなんで戦ってたのかはもう忘れましたがw(立場的には仲良くできるはずなのにね、て皆さん知りませんヨネw)、この時の皇子の軌跡はすべて吉備津彦のそれだったと知ったのはもう少し後になりましょうか。その戦いの発端も結末も忘れたくせに温羅という鬼の存在だけは長らくワタシの記憶の底を流れ続け・・・すなわち、約20年越しの夢かなって、ようやくこの地に立てたわけです。


吉備津彦神社(ウラ死なずの神社)で販売されてた絵本。

前回もお話しましたように、吉備津彦命と温羅の話はあくまで「吉備津宮縁起」に代表される神社側の文献にのみ載る伝承で、当然ながら記紀神話ではありません。物語として整理される以前に語り継がれていたコトは無論あったでしょうけども、文献で確実に遡れるのは16世紀後半まで。桃太郎伝説の元ネタなんてことが言われるわけですが、よう考えたらそれだけ見ると御伽草紙と似たような時期に成立してることになってしまうほどなんですね。

さて、物語を、ミコトが「楯築」に布陣した辺りから少し見てみましょう。温羅の勢いすさまじく、ミコトが射かけた矢は不思議なことに温羅の矢と空中に噛み合っていずれも落ちてしまう(矢喰宮)。そこでミコトは同時に二矢を放つと、一矢は前のように落ちたがもう一矢は温羅の左眼に当たり、その血が川のように流れ出た(血吸川)。温羅がかなわじと雉となって山中にかくれたのをミコトは鷹となってこれを追い、鯉となって川に逃げるもミコトは鵜となってこれを喰いあげた(鯉喰神社)。温羅はついに「吉備冠者」の名をミコトに献上、ミコトは温羅の首をはねた・・・云々。これら伝説の地を地図に落としてみると以下のようになります。


赤丸は今回ワタシが訪れた場所。黒丸は近くの主な遺跡。

ミコトが頂いた「吉備津」の名にあるとおり、この辺りは昔、吉備穴海と呼ばれた内海が接近する地でした。海岸線をどこに引くか少々悩むところなんですが、ひとまず総社市教育委員会さんの示す地図に従ってます。気になるのは縁起でミコトと温羅の放った矢が、くいあって「海中」に落ちたという記述で、そうすると矢喰神社付近まで海岸線がせまっていたことになり、だとすれば「鯉喰」のクダリはどうするのょてなことに。この二つの出来事は時間差でもあるんでしょうかネw ミコトはやがて中山の麓に宮を作って住まい(吉備津神社)、281歳の大往生をとげるわけです(記紀的には、そういう事実はナイ)。

岡山の前期古墳って、中山茶臼山にしろ尾上車山にしろ、うろ覚えですが吉備中山より西へはいかない・・・んじゃないでしょうか。中~後期に入ると、その中心が血吸川を西へ越える。つまりは中山より東は山間部で、そこから西が一気に広大な平野部になるわけです。吉備文化圏にとってこの地域がもつ境界的な様相がなんとなく見えてくるわけで、さらに物語がその血吸川を中心に繰り広げられているということが、なんだかとても象徴的に見えてくるように思います。・・・思っただけです、スイマセンw

で、鯉喰神社。御崎宮とも呼ばれており、ミサキではなくオンザキと読むそうです。ご存知のように吉備津神社本殿の外陣四隅は御崎なる祠が守護しており、その御崎、特に艮御崎を分祀したものが備中国内には多いらしい。鯉喰神社もその一つになってるんですネ。ちなみに『梁塵秘抄』(1180年前後成立)の吉備津宮のクダリ、神殿や神門につづき、「艮みさきは恐ろしや」とあるのはよく知られております。これがよく温羅にあてられます。とはいえ元は、世の中が鬼門鬼門と騒ぐようになって以降、四隅の御崎の特に艮にあった御崎が注目されたのがはじまりかと思われます。それがやがて強力な力をもった鬼・温羅をあてる(艮→鬼門→鬼→温羅)ようになったとかいうところでしょうか。鯉喰の社名については、この辺りにいた地主神が鵜で鯉をとってミコトに神饌として献上したことにちなむとの異伝があったりしますが・・・ちょっと後付けポイですかネ。

矢喰神社は公園としてかなり整備されていました。ミコトと温羅が互いに放った矢が喰いあったという伝承の地のはずが、ミコトの矢に対し温羅が投げた石なる巨岩がごろごろと。鯉喰神社にしろ矢喰神社にしろ、近世は社僧が管理していたらしく、境内にはこじんまりした鐘楼及び鐘がしっかり残っていたのはオツ。


ウラが投げた石、全部で5コ。鬼ノ城山まで直線距離にして約6km。すげぇぞ温羅。

では、今回の岡山行きのメイン・スポットである鬼ノ城へ突入していきましょうー。おどろおどろしい名前ですが、ぶっちゃけ、古代の山城です。イチから説明していたら日付が変わりそうなので知りたい方はすみませんが各自お勉強してくださいということにして。古代山城としての鬼ノ城が本格的に発見されたのは今から30年ほど前のことで、調査が進められているのもそれ以降のことです。現在はビジターセンターなる施設ができたり(無料)、所々で往時の建物の復元もなされているなど、思っていた以上に整備がすすんでましタ(オリジナルてぬぐい&パンフ買ったらおつりがなくて往生したという罠)。ちなみに、岡山県吉備文化財センターの鬼ノ城キャラ、うら坊一家はだいぶイイ感じです。グッズ化希望(→コチラ)。


鬼ノ城より、伝説の舞台を見はるかす。

こんな山上にあって水なんかどうしたんだろうと思っていたけど、遺跡には全5ヶ所の水門が見つかっているように驚くほど豊か。なんでも高地湿地帯の希少種(植物)が生息しているとかで、遺跡整備の折には随分検討されたほどだそうな。延べ数万人が建設に当たったという城なわけですが、かくなる高地に見事なまでに敷きつめられた石畳を歩いていると、延べ数千人が死ぬかもしれんと思い、延べ数百人が本気で死ぬ目にあったことだろうなと思われます。たくさん亡くなったんじゃないでしょうかね、まさに「鬼」の城。屏風折れの石垣が見事な突出部、一番遠いところにありますけど、そこから見下ろす血吸川源流域は絶景ですから、行かれる方は是非がんばってクダサイ。


鬼ノ城遺跡の石畳。歩けますが、もう少し実物と復元箇所を明示したほうが親切かと。

製鉄にかかる遺跡のそばには鬼伝説がつきものといわれますし、現に鬼ノ城山麓、鳴釜神事の釜や阿曾女を出したという阿曾村――現在はゴルフ場になっておりますが、それに伴う発掘調査では製鉄遺跡が出ています。古代、城は「キ」と読みましたから、(同じく古代の山城がある地名に、香川県にはキヤマ/城山、兵庫県龍野市にはキノヤマ/城山があり、いずれも「城山城」と呼ばれる)、その辺がいろいろあって、「キ」の音が「鬼」に付会されたんじゃないかなぁと思ったりシマス。ちなみに地名としての「鬼ノ城」の初見は16世紀以降ぐらいだったはず。

飽きない程度にスポットが点在するのでわァきゃァ言うてる間に1周してしまって、大変だョと言われたわりには少々物足りなかったですがw、最後に岩屋集落まで足をのばして、温羅の居所だったという鬼の差し上げ石を見てきました。どえらい巨岩の重なりで、大阪は交野の獅子窟寺の岩屋を倍にしたぐらいでしょうか。中世、真言密教の岩屋寺が栄えていたらしく、もし近くに温羅の伝説などがなければ、獅子窟寺のように単に行基やお大師が修行した場所、で終わっていたかもしれません。伝説が伝説を生み、それをまた大きな伝説が飲み込んでいく。そんな有様を、垣間見たような気がしました。

いやー、岡山。ぼっけぇ奥深く、もんげぇとりつかれそぅな、危険な国でしたゾ。今回は上澄みを見ただけで終わった観がありますので、次回はもそッと濃ゆぃめに行こうと、心に誓ったのでありました。


鬼の差し上げ石。大きさ比較のため、別水軒大のAを配置。


ウラの気持ちで、岩屋に寝そべり撮影。