怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.98 ぼっけぇ、もんげぇ~中ノ巻

2008年06月03日 23時17分05秒 | 怪道
さて、岡山市内です。
岡山市内とはいえ市街地は全くスルーです。岡山すなわち吉備地方を訪れて行かねばならぬのはまずは吉備の中山でありましょう。ということで、行って参りました、ウワサの吉備津神社と吉備津彦神社に。

吉備はかなり古くから独自の文化圏を形成、非常に大きなな勢力を保っていた地域です。神話上は五十狭芹彦(7代孝霊天皇の子で三輪山神話で知られる倭迹迹日百襲媛命の弟にあたる)がこの地を平定した功をもって大吉備津彦と呼ばれるにいたったことが見えておりますものの、対ヤマトとの争乱はその後も幾度かくり返し、長らく中央を脅かしつづけた、古代国家形成の過程で見過ごすことのできない巨大な存在。

そんな吉備を備前・備中・備後の三国に分割したのは支配する側からすれば当然のことで、その時期はだいたい壬申の乱(672年)直後の頃であろうと考えられております。備前・備中の境界などは、大吉備津彦かどうかはさておきおそらく吉備地方の初期首長を被葬したとおぼしき墳墓を抱く神南備・中山を分断する形での線引きで、どちらに転んでも意図的なものを感じるわけですが、これが、山に眠るとされる吉備津彦を東西の麓から祭祀するキビツ神社とキビツヒコ神社の哀しくもユカイな混乱のはじまりでもありました。


吉備中山を流れる細谷川が備前・備中の国境線。

キビツ神社とキビツヒコ神社。よく似ておりますし実際よく混同されます。前者が備中一宮で、後者が備前一宮。古くは両社共に吉備津宮とも呼ばれ、社名の前につく国名で違いをはかることもありました。曾我兄弟の仇討ちでとばっちりをくった気の毒な吉備津宮の宮司がおりましたけども、あれはキビツヒコ神社(以下ヒコ神社とします)の方ですね。皆さまをより混乱させてあげるために申しますと、『延喜式』神名帳では現・キビツ神社はキビツヒコ神社と掲載されております。しかし同じ『延喜式』をもって二社を分別いたしますと、ヒコ神社は神名帳に記載がない、すなわち式内社ではありません。式内社はキビツ神社だけです。それがまず大きな違いでしょうネ。

この二つの神社の対決で最も楽しいのが、神社創建の由来である吉備津彦と温羅の物語に関わるものでしょう。曰く、百済の王子・温羅が吉備に飛来、新山に城をつくり、ムラの人々に悪さをしたり献上品を奪ったりする。かく窮状を訴えるので、朝廷は吉備津彦命を派遣、ミコトは家来とともに温羅を倒し、吉備は平和になったのでした云々。記紀神話には確かに五十狭芹彦が四道将軍として山陽道に派遣されたことは見えますが、それ以上の記述はなく、温羅という名前やミコトとの合戦にまつわる豊かな描写が現在知られるような形で成立したのは中世以降と考えられています。さて、キビツ神社とヒコ神社の両社が現在に伝える縁起にも明らかな違いがございます。それが、降伏した温羅の処分です。

皆さんよくご存知のように、キビツ神社縁起では、温羅は首を落とされるも死なず、その首は犬に喰われ御釜殿の八尺地中深く埋められてもなお13年間唸り続けることが描かれます。ところがある夜、温羅がミコトの夢に現れ、妻・阿曽媛に神饌を炊かしめ自分を祀れ、さすれば国事の吉凶をつげんと伝えた、それが今なお人々をしてその魂と想像力をかきたる、キビツ神社・鳴釜神事の由来なわけです(毎週金曜日はお釜はお休みされてますので皆さん気をつけてください←見れませんでしたから・泣)。ところがヒコ神社の縁起では、なんと温羅は死なないんですね。ミコトに吉備冠者の位を譲った後、一緒に統治をしちゃいます。これはふぅんで終わる話じゃありません。すなわち、キビツ神社最大のウリである鳴釜神事をヒコ神社は全否定してるわけですナw ・・・これでもう一つ、カマがあるのがキビツ神社、と覚えられましたね。

この対決は今も桃太郎伝説元祖・本家騒動としてユカイに発展中です。キビツヒコと温羅にまつわるお話が桃太郎の原話であるとのササヤキは近世初期からすでにあり、キビツ神社vsヒコ神社のみならず、県をあげて香川県と張り合ってらっしゃる観があるんだけれども、どうせなら仲良くされてはドウデスカーとも思います。しかしながらキビツ神社はそれほどイチバーンを主張したいのか、境内はとんでもないことになってます。


かけまくもかしこき桃太郎おみくじタワー。


そして絵馬を結わいつける祈願トンネル。トンネル内はモモタロサンの海。

偉い神社(式内、名神大社、一品、国史上の初見は承和4年/847)なのにパンチの効いたフランクな装い。「岡山でテッペンとらんと気がすまんのジャ」という心意気だけはなんとなくつたわってきますネ。さすが独立国家・岡山。比翼の破風美しき国宝は泣いておりますわョ多分w ・・・という方がキビツ神社です。ヒコ神社は絵本やグッズの販売はしてますが境内は大人しいもんです。これで違いはカンペキですネ。どっかの神社もこのぐらい世俗にまみれてくれたら大好きになるのになぁと思います。もんげぇ神社です、キビツ神社。


鳴釜神事、順番待ちのヒト用椅子。


門前では鬼がソフトクリームを売ってるゾ☆(キビツ神社)


さて、吉備の中山でもう一つ、忘れてならないのが福田海本部。岡山の偉大なウルトラ遺跡、「鼻ぐり塚」であります。

福田海は明治後半頃に中山通幽なる人がはじめた新興宗教。ご本名は多田サンとおっしゃるようで、中山の姓はやはり吉備中山にちなむのでしょうか。聖徳太子と行基と役ノ行者の法統を継いだ教えとおっしゃるんですが、どうも先祖供養・無縁供養などに力を入れてるらしい・・・もうちょっと聖・念仏ティストの人を法統にしてみてはいかがでしょうかと余計なお世話をいいつつ。鼻ぐり塚(牛やブタの鼻ぐりを積み上げた塚←和気の田倉牛神社の備前焼ウシ山とノリは同じですよねぇ)がここにあるのも畜生であろうと供養することが功徳=福田につながると、そういうことに発するようです。

なんせウルトラマンエース、30年前の段階であれだけの山だったんだからさぞかし巨大化してるに違いない、とわくわくしていると。カラフルなプラスチック製の鼻ぐりが山と積まれた、けれども大きさ的にはほとんど変わりのない塚でした。木製の鼻ぐりもなかったし、何年か周期で処分してるのでしょうね。鼻ぐりの間からは横穴石室らしきものもうかがえ、あぁ古墳なんだ、ということは岡山の文人・化野燐サンの『件獣』に出てくる牛骨の古墳の元ネタはさてはコレデスネ?

入口で100円払うとチケット代わりに護摩木をもらえます。もらっただけに、塚の前には願意を書いて奉納するハコがしつらえてあります。畜生の供養塔に何を願えというんだ、とヤプールに聞かれたら超獣にされそうなことを思いつつ、先人の遺物を一枚盗み見ると、「良縁祈願」。・・・畜生の供養塔に願ってどうする、とやや儚い思いにとらわれ、先例にあたるのはあきらめました。おいしゅうございました、と書くのも直球すぎるし、かといって何も思いつかないので、諸願成就とお茶をにごしてそッと置いてきたのでした。


鼻ぐり塚。この山全部鼻ぐりです。塚の前には祈祷した後と思しき焼け焦げた護摩壇の木組みがありました。


吉備津神社参道。タカイくんはどの木に車をぶつけたんだろう。ちなみに参道隣に道路が新設されてます(右)。