怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.91 三日月の円くなるまで岩手県~その弐

2008年05月10日 16時48分57秒 | 怪道
二日目。北上をさらに南下し、水沢へ。水沢に何の用があるかといえば、胆沢城デスネ。胆沢城は、9世紀初頭、それまで宮城県多賀城市にあった多賀城から、エミシ討伐の最前線が移されたきた場所であります。

律令国家の東国経営についてはイチから書いてると日が暮れますので独習をお願いいたしますけれども、ある国家が隣り合う異民族とどう相対するかという問題は今も昔も根っこのところはちぃとも変わらないわけです。現在どっかの国が相も変わらずうんざりするようなことを繰り返してらっしゃいますが、むしろ世の中が複雑になればなるほどやりようも陰険になり、それによって被害を被る人が増加するように思います。日本は一見、民族的にも文化的にも統一されて久しいと思いがちですが、結局のところ時の経過の長短の差に過ぎないとも言えますわけで。人類だってちっとは進化しているんだから、大切なものが失われる前に、共存へと解決するものは時間だけじゃないことをそろそろ証明してみてはどうかという気がしますネ。

そんなことをついしみじみと思ってしまうのは、ここがかつてヤマトの勢力と異民族との戦いで熾烈を極めたものの一つである、エミシと呼ばれた人々との闘いの場だったからでス。このことは「ヤマト」の歴史を自国のそれと認識する者全てが知っているべきことでしょう、特に東北は、長く続いた分だけ、互いが後の世まで負うことになった心の傷も深い。胆沢城築城に前する征夷大将軍・坂上田村麻呂とエミシの王・アテルイ、モレとの間に起きた出来事は、エミシのヤマトに対するぬぐいがたい不信感をもたらしたことは周知の事実。一時の狭量は数百年の疑心を生むのだというよい例ですネ。

さてその胆沢城。「城」だからといって千代田のお城や大坂城の様な石垣があって天守閣があって、なんて想像する方はよもやおりませんね(←ウチのオカンは普通にこう思っていたラシイ)。かといって戦国時代の野戦基地とかいうんでもありません。外縁にぐるりの羅城があって、政庁があって官人の施設があってというようなのをイメージして下さい(胆沢城で外郭が見つかったかどうかは知りませんがw)。エミシ討伐の最前線基地とはいえ、建設されたのはひとまずの制圧がすんでからのこと。「鎮守府」と呼ばれた、エミシからの朝貢を受け付けたりするような儀礼的施設込みのモノなんであります。


こういうのデス(胆沢城埋蔵文化財センターの模型)。

南北にはしる北上川とそこへ西から流れ込む胆沢川という天然の要害に囲まれているとはいえ、山に囲まれた大宰府なんかとは違いジーツーにただっ広い平原のど真ん中!に位置します。これはよほどの自信のあらわれか、はたまた精一杯のやせ我慢か。逆にこんなところに突如として甍を背負う整然とした建物が建てられたら、なんかもぅスイマセンデシタと思うかもしれませんかね。埋蔵文化財センターの展示を見ていると、前日の北上市でも思ったことですが、この辺の人たちにとってエミシとかアテルイとかに対する思いは「鬼」や「反逆者」というよりはオラが大将、な雰囲気。もっとも、これは2002年のアテルイ没後1200年記念のマツリでかの王の存在の認知度が上がって以降のことだともおっしゃいます。

大正の頃から発掘調査がはじまってじきに国指定の史跡になっているという、まぁ大日本帝国にとっては国策もあいまってのことなんでしょうが、現在はどこまでも続く田園地帯の一角で、政庁の西半分はりんご畑になっておりました。まさに、国破れて山河あり。


胆沢城跡。

もとい、国破れて山河と神あり。胆沢城の東北には鎮守府の鬼門守護に田村麻呂が勧請したという鎮守府八幡宮と呼ばれる八幡サンが今も残っております。ちなみに『吾妻鏡』文治5年(1189)9月21日条によると、当日源頼朝がここに参詣したことが載っているんですが、坂上田村麻呂が東夷征服を祈願、征夷を終えて奉納した弓箭が残っていたんだそうな、ホホーン。江戸時代に入ってからは、伊達家に厚く信仰されたとのこと。境内にはこれまた石の塔があまた林立しておりまして、裏手には「南無観世音菩薩」等の神仏分離前の名残をとどめるものもありました。


鎮守府八幡宮のすぐ裏を流れる胆沢川。

お勉強したところで、次なる目的地は!・・・ムフフ、時代劇好き&ロケ地巡り好きなワタシが行く場所といったらそれはもう、東北の映画村・「えさし藤原の郷」しかありません。そもそも各地のひそかなテーマパーク好きのワタシなんですが、「五条霊戦記」のエンドロールに出ていた撮影協力「江刺市」という辺りから気になっていたこの場所。ついに行って参りましたですョ、ィヤホー!

もともとは、某国営放送の大河ドラマで奥州藤原氏を描いた「炎立つ」のオープンセットがそのはじまり。旧江刺市、現奥州市江刺区は奥州藤原氏の拠点だった平泉の北東約20キロ、奥州藤原氏の祖・経清とその子清衡が居を構えた豊田館跡付近に作られ、撮影終了後にテーマパークとして整備されたとのこと。「義経」や「陰陽師」、宝塚歌劇団による「あさきゆめみし」に使用されたなんてのはさもあらんというところですが、「秀吉」や「利家とまつ」、「毛利元就」なんかでも使っていたというのには少々驚き入りましてございます。その他、「花の乱」「北条時宗」「風林火山」「けろりの道頓」「里見八犬伝」(タッキー版)ナドナド。

「政庁」と名づけられた平安京内裏を思わせる建物、「義経館」や「経清館」といった中世初期の武士の邸宅に加え、各時代ごとの城柵、町並み、そして寝殿造りを巧みに再現したメイン建築である「伽羅御所」など、平安時代から中世にわたるドラマ・映画の撮影にはもってこいのセットがずらァり。これは、かなり楽しめますw 時間によっては大路を牛車が徘徊していたりなんかもして、さらにそれに乗せてくれたりなんかもするんですナ!うれしがりのワタシですから勿論乗ってきました。牛車というのはご存知のように車輪が本体左右に2輪しかなく轅(ナガエ)の先端に渡してある軛(クビキ)が直接牛とつながっているので不安定な上に、牛の動きや路面の砂利の揺れが直で伝わるんです。ゆうても記念撮影用の牛車ですから試しに一歩、二歩程度歩いてもらっただけですが、たったそれだけでもフワフワと揺れましてネ。三半規管の弱い貴族サンなんかは車酔いに悩まされたのではないかと思われました。

さて、次回はついに遠野に入りマス。


伽羅御所。


コスプレコーナーにて遊ぶ。


お休み処・えさし藤原の郷レストハウスにて「清衡ラーメン」を食う。本人のミイラ(中尊寺金色堂蔵)からダシをとった・・・とかいうわけではないようですw