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怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪想vol.5 園韓神社その3

2005年09月05日 00時25分47秒 | 怪想
園韓神社は、いつからあったのか、どこにあったのか、そしていつ頃から宮中に鎮座したのかはわかりません。平安京以前からあったとするのは、平安遷都から数百年もくだる11世紀末の『江家次第』頭注記載の「口伝」なわけですが、その辺に対するツッコミは先行研究ではなされなかったみたいです(まぁツッコミようがないから、とも言えますが)。宮中鎮座はやはり平安遷都時が鍵なのでしょうが、残念ながらそのころを記録していたであろう『日本後紀』は、悲しいかな遷都を前後する年期が現存していないのですね(現存していても載ってるかどうかはあやしい限りですが)。

そういうわけで、園神・韓神の国史上の所見は『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850)10月20日条、園神・韓神に従五位下を授けるという内容のものです*1。ナクヨうぐいす平安京から50年も経ってようやく?と思われるでしょうが、神さんに位階を授けるのにも流行がございまして、そのピークは貞観年間ですから、園神・韓神なんかはわりに早いうちにもらえたことになるんです。50年も経たないと国史上にあらわれないのなら、この神社はほんとに遷都の頃にあったのか?と思われるでしょうが、後世の編纂物ではありますが、『類聚三代格』という法令集に、延暦20年(801)5月14日付太政官符に「園韓神祭」が見えますから、祭があった以上は場所はさておき神社そのものはあったということがわかります。

さらにさかのぼりましょう。国史やら『古事記』(712)を除けば、園神、韓神の初見は『新抄格勅符抄』になります。『新抄格勅符抄』は成立年のはっきりしないこれまた古代の法令集なんですが、園神・韓神が掲載される「神封部」(神封:神社に与えられた俸給みたいなもの)は飯田瑞穂さんによれば延暦初年頃の状態をあらわしているものとされております*2。そこには、

「園神 廿戸  韓神 十戸〈並讃岐国 同年〔天平神護元年をさす〕奉充〉」
※〈 〉内は割注、〔天平神護元年〕はその前行に「大祝詞命神 一戸〈大和国 天平神護元年奉充〉」とあるため、ワタシの追加。

と見えます。今のところ、公式記録上最もさかのぼれるのは、この天平神護元年(765)ということになります。

ところで、第1回でも触れました園神20戸、韓神10戸、という数字。実は結構すごい数字だったりします。この頃20戸も神封をもらっている神社というのは、園韓神社が所在していたと考えられている「山城国」(現在の京都府南部)内においては、これほどの神封をもっているのは賀茂別雷神(今の下鴨神社)24戸と賀茂御祖神20戸(今の上賀茂神社)のみで、他はすべて1ケタ戸。遷都を前後するころに、稲荷神(今の伏見稲荷)が10戸、石清水八幡宮が20戸、大原野神社や平野神社も10戸であることをみても、園神・韓神の神戸がいがに破格であるかがわかるというものです(我がハズカシイ修論によると、神封部掲載の神社171社中園神は40位以内だそうで)。つまり山城国内では、園神・韓神は賀茂社につぐ神社であった可能性がある、ということです。


*1・・・この時、神社に位記と幣を奉ったのが藤原氏宗。彼は莫大な富を誇った秦嶋麻呂の娘と藤原大黒麻呂の間に生まれた葛野麻呂の息子さんにあたります。つまり氏宗のおばあちゃんは秦氏なんですね。
*2・・・延暦初年と言われますが、『新抄格勅符抄』「神封部」の園神・韓神の前段は「櫛麻知乃命神」「大祝詞命神」で、京内に鎮座することとなったこの4神が続いて記載されているあたり、遷都後の知識でもって書かれたんじゃないのかとあやしんでいたりします。


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