一杯の水

動物であれ、人間であれ、生命あるものなら誰もが求める「一杯の水」。
この「一杯の水」から物語(人生)は始まります。

「ユダの福音書を追え」を読む。

2006年05月27日 22時49分20秒 | BOOK
紀元180年ごろ、リヨンの司教エイレナイオスは『異端反駁』を著し、現在の『四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)』以外の多数の福音書を異端として糾弾したという。
このたび、『異端反駁』中で、特に激しく糾弾されたグノーシス派に属する『ユダの福音書』のコプト語写本が発見され、出版されることになった。当該写本の書かれた年代は、放射性炭素年代測定によれば、「紀元280年を中心に前後に60年」とのことである。ちょうどローマのコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した時期と相前後する頃であろうか。

しかし、驚くべきは、やはり『ユダの福音書』のその内容である。

キリスト教では裏切り者の代名詞ともなっている「ユダ」、しかしこの『ユダの福音書』では、ユダは裏切り者ではなく、イエスの最も誠実な友人であり弟子として描かれている。
「イエスはユダに言った。『(来なさい)、いまだかつて何びとも目にしたことのない(秘密)をお前に教えよう。それは果てしなく広がる永遠の地だ……そこは天使達でさえ見たことがなく、あまりに広大で、目に見えず、いかなる心の思念によっても理解されず、いかなる名前でも呼ばれたことのない御国がある』」(『ユダの福音書』以下、引用は同書)

そのユダが、イエスによって、イエス自身を官憲に引き渡すように促される。
「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、全ての弟子たちを超える存在になるだろう」と。「真の私を包むこの肉体」という件などは、インド哲学を学ぶものにとって、馴染み深いものである。

さて、そう語ったイエスは、「お前は非難の的となるだろう」との言葉とともに、「目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」とユダを勇気付けたという。

さて、このパピルスに書かれた写本は、エジプト中部カララの村近郊(エジプトのミニヤー県北東部にある洞窟群)で1970年代後半に発見され、かつてナイル川流域で使用されていた古代語であるコプト語で書かれている。発見から公表まで、30年もかかったこの写本の数奇な運命が描かれているのが、この『ユダの福音書を追え』である。無知と欲に振り回されたこのパピルス写本は、30年の間にぼろぼろに崩れ、細かい破片になっていたという。5年に及ぶ修復作業の末に、やっと解読できる状態まで復元できたのだという。

おりしも『ダヴィンチ・コード』が世間を賑わせている昨今、フィクションのない、古文書を取り巻く世界のミステリーに遊ぶのも一興ではなかろうか。

私はこの『ユダの福音書を追え』を読みながら、グノーシス派の教えに親近感を持った。教会や神父のような仲介者を必要とせず、「普通の人間も神と直接交わることができる」という(導く師であるキリストは必要であるが、キリストの教えを完全に理解した者は、キリストその人と同様の神性を持ち得るらしい)。これは、いわゆる原始仏教やラーマクリシュナ等、インドの聖賢たちの言葉とよく符合するものであろう。

グノーシス派の典籍は、現在、ナグ・ハマディ文書として多くが出版されているので、今後、折を見て少しずつ読み進めていきたいと思っている。

**************************



ユダの福音書を追え

日経ナショナル ジオグラフィック社/日経BP出版センター

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『ユダの福音書』特集ページを掲載中 ナショナルジオグラフィックのHP

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14 コメント

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ダ・ヴィンチ・コード (mugi)
2006-05-28 15:37:46
便造さん、こんにちは。



この「ユダの福音書」ですが、当然法王自身が最近ミサで否定したそうです。

また、映画『ダ・ヴィンチ・コード』はバチカンでは事実上発禁扱い、映画は「嘘と理不尽な中傷を拒否しよう」とボイコットを呼びかけたので、やはりバチカンらしいですね。



映画『ダ・ヴィンチ~』はパキスタンのイスラム保守派政党からも抗議が上がり、「全ての宗教にとって、大切な聖なる人物への侮辱」と非難しているとか。キリストとイスラム以外の宗教からすれば、イエスは“大切な聖なる人物”でも何でもないですが、宗教に狂っている連中らしい抗議ですね。
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RE:ダ・ヴィンチ・コード (便造)
2006-05-28 22:47:25
mugiさん今晩は。

コメント&TBありがとうございます。



>法王自身が最近ミサで否定

否定しましたか。

ま、肯定するわけもないですが、てっきり無視するものだと思っていました。

バチカンがいくら否定しても、それが面白いものであれば、巷間に流布することは避けようがないでしょう。少なくとも、この書によって、私の中では窮屈だったイエス像が解放され、呼吸が楽になるのを感じました。

対立するものを見て初めて物の本質が分かることもあるでしょうから、キリスト教徒の方々も、自らの目と耳をふさがずに『ユダの福音書』にアプローチしてほしいものです。



>『ダ・ヴィンチ・コード』

先に映画を観ようか、それとも文庫で読もうか迷っていたのですが、友人が文庫を貸してくれたので読み始めたところです。

しかし、書店を覗くとこの手の本が所狭しと並んでいますね。どれが多少なりとも信頼できるものなのか、判断するのは難しいですね。

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こんばんわ! (日の丸 正史)
2006-05-29 20:16:07
また名前変りました...!





>ユダは裏切り者ではなく、イエスの最も誠実な友人であり弟子として描かれている。



ではないでしょうか?



もしボクが戦前の、あのばかげた国家神道体制化で、Mナンダ氏を公安に引渡し死刑になると知ったとしたら...

ユダであるボクは果たして自殺まで出来るだろうか、と考えてしまいます。



イエスは、インドの聖賢たちのように神のようなまったき人となれ、完全なものとなれと教えています。



後にパウロは相当違うことを言い出します。

仏典も読んでいたニーチェは相当パウロが嫌いだったようです。



学者がよくいうように、パウロがいなければキリスト教は今頃存在しなかったかも知れません。





このコメントに、もし過激な表現、困惑することがおありであれば削除してください。

では、また!
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ユダとダイバダッタ (便造)
2006-05-30 02:05:39
日の丸 正史さん、こんばんは。



できれば、私のブログから、正史さんのブログへリンクさせて頂きたいと考えているのですが、よろしいでしょうか?



>ユダの自殺

仏教でのユダといえば、ダイバダッタでしょうか。

しつこくブッダを狙ったダイバダッタと比べれは、自殺したユダには純粋さも感じますね。やはり自分が売ったイエスの価値を、ユダは深く知っていたのかもしれませんね。

屈折していたのかもしれませんが、ユダの場合は、他の弟子の凡庸さとは違ったものを感じます。しかし、福音書中のユダの登場は、唐突の感も否めませんね。



>パウロがいなければキリスト教は今頃存在しなかった

どうもそうらしいですね。

新約聖書の中では「パウロの手紙」が最も古いらしいですね。マルコ(あるいはマタイ)の福音書でも書かれたのは、紀元70年ごろだったようです。これがイエスの金言はどれか、などというややこしい問題を起こすのでしょうね。(←仏教もそうですね)



そういえば、ロマン・ロランはヴィヴェーカーナンダをパウロに比していたように思います。



では、最近は更新も滞りがちなブログですが、どうぞまたお立ち寄りくださいませ。
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こんばんわ! (日の丸 正史)
2006-05-31 00:04:38
>できれば、私のブログから、正史さんのブログへリンクさせて頂きたいと考えているのですが、よろしいでしょうか?



実は勝手に便造さんのHP二つを、お気に入りにいれてたんです。

ことわりもなく、申し訳ありませんでした。

ねばーらんどさんのもです。



ボクがあまりにも道を踏み外すことのないようにと。



こちらはどうぞ自由になさってください。

ただめったに日記は更新しませんし、知識も消化不良のものが多いです。

しいて言えば孫引き日記ばかりです。

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リンクありがとうございます。 (便造)
2006-05-31 14:31:35
日の丸 正史さん、こんにちは。



私のページをお気に入りに入れて下さってありがとうございます。こんな喜ばしいことはありません!



日の丸 正史さんのブログも早速ブックマークに入れさせて頂きますね。
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福音書 (アミーゴ)
2006-06-03 16:50:41
こんにちは。

はじめまして。



「ユダ福音書を追え」は読んでいませんが、イエズスさまや聖母マリアさまの生涯について書かれた啓示本、マリア・ヴァルトルタ「私に啓示された福音」という本があります。

この本には福音書に書かれていない詳細なイエズスさまの言行が記されているとのことです。



詳しくは

天使館 をご覧ください。



同じ内容の本で、あかし書房からマリア・ワルトルタの本が10冊翻訳されています。



キリスト教圏ではこうしたジャンルの本があるのは興味深いですね。
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Unknown (アミーゴ)
2006-06-03 16:53:56
「天使館」のリンク表示ができませんでしたので、あらためて書込みさせていただきます。



http://tenshikan.jp/poem.htm
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Unknown (アミーゴ)
2006-06-03 18:09:44
ワルトルタの本の中でもユダについてはたくさん書かれている。



本の内容は正確に記憶はしていないが、イエズスさまはユダの人間性を知っていたし、受難のこともすべて分かっておられた。

ユダを使徒としないでおくことも、しようとすればできた。

しかしそうはなさらなかった。それは使徒は人類の縮図であり、すべて人々が救われるために必要なことだからである。



そうしたことが書かれていたように思う。



「ラーマクリシュナの福音」にある「ビーシュマが横たわり涙を流し『神の為さることが私に何も判らない』といった。」というのを思い出したが、受難やユダについても神の為さることは何も判らない気がしてくる。

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ワルトルタ (便造)
2006-06-03 20:52:22
アミーゴさん、こんばんは。

ワルトルタのような方がいらっしゃるのは寡聞にして知りませんでした。「天使館」のリンク拝見いたしました。専門家間での評価もずいぶん高いのですね。

啓示本では、マクドナルド・ベインの『心身の神癒』をずいぶん昔に読みました。



このような啓示本が多く出版されるのは、キリスト教圏の人々も、もっとイエスの言葉を聞きたい、と思っているのでしょうね。

出来れば、直に見えてみたかったと。



きょうは「ユダの福音書 翻訳本」の発売日だったのですが、すっかり忘れていました。明日にでも購入して読んでみようと思っています。



>「神の為さることは何も判らない気がしてくる。」

これは確かに実感としてありますね。

神を信仰していたとしても、一つの躓きで人生を棒に振ることもあるますし・・・・・・。

「躓く前になぜ手をかさん!」などと思ってしまいますね^_^;
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