インド六派哲学の「サーンキャ学派」の用語。
サーンキャ学派は、精神と物質の二元論に立つ。
精神は、「個我」ではあるが、観照するだけでいかなる活動も行わない「純粋精神」であり、輪廻にも解脱にもかかわらないものであり、プルシャ、あるいはアートマンと呼ばれる。
これに対して物質原理は、プラクリティ(自性)、あるいはプラダーナ(根本原質)と呼ばれる質料因で、活動性があり、三種の構成要素(グナ)からなっている。
三種のグナは「サットヴァ(sattva:純質)」、「ラジャス(rajas:激質)」、「タマス(tamas:翳質)」であり、他学派の文献には、それぞれが、「楽」、「苦」、「痴」に対応する、との説もみられる。
なお、「プルシャ」、「プラクリティ」、「グナ」は、「バガヴァッド・ギーター」を理解するうえでも重要な用語である。
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当ブログのメインサイト「Hinduism & Vedanta」にも、ぜひお立ち寄りください。
「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生涯と講演集」以外に、「イーシャ・ウパニシャッド」のシャンカラ註や、「シャンカラの伝記の絵本」、また「インドの漫画」や、インド神話の宝庫である「バーガヴァタ・プラーナ」の翻訳などをアップしています。
サーンキャ学派は、精神と物質の二元論に立つ。
精神は、「個我」ではあるが、観照するだけでいかなる活動も行わない「純粋精神」であり、輪廻にも解脱にもかかわらないものであり、プルシャ、あるいはアートマンと呼ばれる。
これに対して物質原理は、プラクリティ(自性)、あるいはプラダーナ(根本原質)と呼ばれる質料因で、活動性があり、三種の構成要素(グナ)からなっている。
三種のグナは「サットヴァ(sattva:純質)」、「ラジャス(rajas:激質)」、「タマス(tamas:翳質)」であり、他学派の文献には、それぞれが、「楽」、「苦」、「痴」に対応する、との説もみられる。
なお、「プルシャ」、「プラクリティ」、「グナ」は、「バガヴァッド・ギーター」を理解するうえでも重要な用語である。
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ブラフマンは全てでしょ?
ってことは、一元論になってしまうでしょ?
どうしても、アートマンが出てくると、一元論に向かってしまうような気がするんだけど。
アートマンに対する物質っていうのが、ピンと来ないんですけど。
サーンキャ学派では、ブラフマンは出てこなくて、最終形態(っていうのも変だけど)が、アートマンとプラクリティってことになるの?
アートマンが解脱にも輪廻にも関わらない、観照するだけのものだとしたら、プラクリティはどうなるの?
その3要素が、輪廻を繰り返すの?
この世界を構成しているのもグナで、全ての活動はここに端を発し、アートマンがそれを観照しているってこと?
それとも純粋精神に対して、楽・苦・痴というような精神があって、それがこの世を生きている・・・いわゆる物質的な要素を持つ精神ってことなの?
うむー。
よくわからーん。
一元論になると、不変不動で唯一なるブラフマンが、なぜ相対性を特徴とする物質世界となりえたか、というところで困難が生じる。シャンカラはそこを仏教の影響もあって、物質世界は実在ではなく、仮現しているだけである、とかわす。
「では、仮現することになった原因は何?」ということになると、またややこしいところに入っていくのですよ。
サーンキャ学派においては、輪廻するのは、「3要素からなるプラクリティ」ですね。
「楽・苦・痴」に関しては、「楽・苦・痴の特徴を持つ要素」という方が良いかもしれません。
うーん、やっぱりインド哲学は深遠です。
私のような凡夫にはグナは三種類だけ?と思いましたが、当然人間はこの三種類の混合ですよね?
関係ないですが、釈迦の弟子アーナンダに恋した不可触民(チャンダーラ)の娘の名がプラクリティでしたね。
「グナ」は三種だけで、人間もこの三種の混合です。「バガヴァッド・ギーター 第三章」などを読んでみると、結局は、日常生活で自覚している「自我」という実体は無いのだ、ということになるようです。なんか仏教の「五蘊」に近づいていきますね。
アーナンダは随分もてたらしいですね。
でも、その逸話は知りませんでした。
さすがにmugiさんはお詳しい!
アーナンダのことは、瀬戸内寂聴さんの小説『釈迦』や、NHK人間講座のテキスト『釈迦と女とこの世の苦悩』に書かれてありました。
当時のインド社会の女性たちの生き様が面白かったです。聖女、悪女、遊女、王妃や庶民・・・様々でした。
『釈迦と女とこの世の苦悩』とは、魅力的なタイトルですね。「当時のインド社会の女性たちの生き様」とは面白そうです。
どうしても一昔前の学者には男性が多いせいか、そういう視点でものを考えられる方は少ないかもしれません。当然私もそのような影響を受けて生きてきてしまっている、『釈迦と女とこの世の苦悩』は探してみますね。
mugiさん、良い情報をありがとうございました。
僕らが、普通に考える楽とはちょっと違ったイメージですね。上のような解釈があっても、いいなと思いました。クマラジュも、この世に極楽があるといっていました。この楽はそういうことも意味してるのかなと思ってしまったりします。まあ、みんなで協力しながら、和気藹々(わきあいあい)と暮らすって意味でもいいですが(笑)。
ラジャスについては、もうちょっと、刺激のある訳のほうがいいですかね。刺激、活動という意味もあるで。まあ、伝統的のそう訳されてるならしょうがないか。玄奘とか、クマラジュとかが一生懸命考えたんならしょうがないか(笑)。そういうのって、本当に尊いですよね(笑)。今だったら、ジェットでひとっとびだけど、昔は徒歩とか、船だよ。やばいよね(笑)(笑ってる場合じゃないけど。)。歩いても、餓死とかで死ぬかもしれないし、船でも沈没するかもしれないし。危な(笑)。そう考えるととっても尊い話だなと思う。ご苦労様(笑)。
「(インド)哲学」と「悟り」は別物と考えておいたほうがよいかもしれません。ただ、「知性を持てば楽になる」ということは、大いに言えると思います。
「知性」を持てば「正しい観察」が生まれ、「悩み(や欲)」から解放され「楽」を得る。その「楽」を得る道筋においては、今の我々が感じる「楽」もそう大きな違いはないと思います。
玄奘の渡印も、かなりの大名行列だったようですが、死と隣りあわせだったことには変わりはありません。玄奘はかなり意志の強い人だったようですね。
私もアーユル・ヴェーダには興味はあるのですが、なかなかそちらまでは手が回りません。
更新も滞りがちなブログですが、ぜひまた、お立ち寄りくださいませ。