昨日、インドに本を注文した。
その内訳を記載してみると、「インドの絵本」を8冊、これで約500円。
そして、「バガヴァッド・ギーター」関連の書籍が2冊、これが1200円程度。
そしてなんと送料が、エアメイルで2000円!
船便だと、2、300円程度。安っ!
でも、数か月も待てません^^;
ということで、今回は、書籍代よりは高くつくがエアメイルで送ってもらうことに。
しかし、これだけ安いと、ついつい注文してしまいそう(笑)
ではなぜ「バガヴァッド・ギーター」関連の書籍を購入したかというと、メインサイト「Hinduism & Vedanta」で、長らく工事中であったコンテンツ「バガヴァッド・ギーター」アップの目途がようやく付きそうになったからである。
といっても、正式なアップは、「今冬中」という極めていい加減、またはインド的なゆったりとした予定であり、例によって連載となる。
「インドの聖書」と称される「バガヴァッド・ギーター」は、多くの人々に愛読され、援用され、また註釈を書かれている。
この諸註釈の中から、インド6派哲学中の一派、不二一元論を説くヴェーダーンタ学派の巨匠シャンカラの手になる「シャンカラ註」(現存する最古の註ともいわれる)と、これまたヴェーダーンタ学派で、ヴィシュヌ神へのバクティ(信愛)をヴェーダーンタと結び付けたといわれるラーマーヌジャの手になる「ラーマーヌジャ註」を取り上げて、翻訳してみようという壮大な目論見である(笑)
とりあえず、今は「シャンカラ註」の英訳から重訳し、英語では意味がよく分からないところをサンスクリットで読んでいるのだが(←普通の人は逆^_^;)、サンスクリットを参照しても、なかなか分かり難いところがあって、他書の翻訳も参照しなければとてもアップできる代物になりそうもない部分があるからである。
以上のように、「バガヴァッド・ギーター」の翻訳のアップが遅れている理由は、あまりにも自分の立てた計画が壮大すぎて(笑)、生きている内に、翻訳紹介が終わるような気がしなかった、ということである。
しかし、このところ、ブログの更新もサボって、時間を見つけては「ギーター」の翻訳に精を出したところ、思いのほか捗り、「これは生きている内に何とか終わるのではないか」と、思うようになった。
当然人間の寿命などは誰にも分からない。
後数年は生きられそうだと思っても、数日の命だったりもするだろう。
さて、そこでタイトルの言葉です。(唐突ですがここからが本題なので、文体も変わります)
これはブッダの弟子であったウッティヤ長老が、病気になったときの言葉です。
中村元博士の「仏弟子の告白(テーラガーター)」(岩波文庫)には、次のように訳されています。
わたくしが病気になったときに、わたくしはふと気がついた、――「わたくしは病気になった。わたくしが怠けていてよいときではない」と。
病気になって寝込んだり、夜中に目が覚めて、ふと死を意識したりしたときに、よみがえってくる言葉です。
いかに自分は今を生きることが少ない人間だろうと反省し、襟を正すのです。
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<愛読書です!>
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その内訳を記載してみると、「インドの絵本」を8冊、これで約500円。
そして、「バガヴァッド・ギーター」関連の書籍が2冊、これが1200円程度。
そしてなんと送料が、エアメイルで2000円!
船便だと、2、300円程度。安っ!
でも、数か月も待てません^^;
ということで、今回は、書籍代よりは高くつくがエアメイルで送ってもらうことに。
しかし、これだけ安いと、ついつい注文してしまいそう(笑)
ではなぜ「バガヴァッド・ギーター」関連の書籍を購入したかというと、メインサイト「Hinduism & Vedanta」で、長らく工事中であったコンテンツ「バガヴァッド・ギーター」アップの目途がようやく付きそうになったからである。
といっても、正式なアップは、「今冬中」という極めていい加減、またはインド的なゆったりとした予定であり、例によって連載となる。
「インドの聖書」と称される「バガヴァッド・ギーター」は、多くの人々に愛読され、援用され、また註釈を書かれている。
この諸註釈の中から、インド6派哲学中の一派、不二一元論を説くヴェーダーンタ学派の巨匠シャンカラの手になる「シャンカラ註」(現存する最古の註ともいわれる)と、これまたヴェーダーンタ学派で、ヴィシュヌ神へのバクティ(信愛)をヴェーダーンタと結び付けたといわれるラーマーヌジャの手になる「ラーマーヌジャ註」を取り上げて、翻訳してみようという壮大な目論見である(笑)
とりあえず、今は「シャンカラ註」の英訳から重訳し、英語では意味がよく分からないところをサンスクリットで読んでいるのだが(←普通の人は逆^_^;)、サンスクリットを参照しても、なかなか分かり難いところがあって、他書の翻訳も参照しなければとてもアップできる代物になりそうもない部分があるからである。
以上のように、「バガヴァッド・ギーター」の翻訳のアップが遅れている理由は、あまりにも自分の立てた計画が壮大すぎて(笑)、生きている内に、翻訳紹介が終わるような気がしなかった、ということである。
しかし、このところ、ブログの更新もサボって、時間を見つけては「ギーター」の翻訳に精を出したところ、思いのほか捗り、「これは生きている内に何とか終わるのではないか」と、思うようになった。
当然人間の寿命などは誰にも分からない。
後数年は生きられそうだと思っても、数日の命だったりもするだろう。
さて、そこでタイトルの言葉です。(唐突ですがここからが本題なので、文体も変わります)
これはブッダの弟子であったウッティヤ長老が、病気になったときの言葉です。
中村元博士の「仏弟子の告白(テーラガーター)」(岩波文庫)には、次のように訳されています。
わたくしが病気になったときに、わたくしはふと気がついた、――「わたくしは病気になった。わたくしが怠けていてよいときではない」と。
病気になって寝込んだり、夜中に目が覚めて、ふと死を意識したりしたときに、よみがえってくる言葉です。
いかに自分は今を生きることが少ない人間だろうと反省し、襟を正すのです。
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<愛読書です!>
ブッダのことば―スッタニパータ岩波書店このアイテムの詳細を見る |
仏弟子の告白―テーラガーター岩波書店このアイテムの詳細を見る |
バガヴァッド・ギーター岩波書店このアイテムの詳細を見る |
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いや、怠けているつもりはないけれど、必死で生きようとした結果、なんか病気になってしまった気がするもんで・・・。
この場合の怠けるって、どういうんだろうね?
精進を怠るってことなのかな。
ダラダラしていてはイカンってことなのかな。
ダラダラしているの好きな私には、とても言えない言葉であるのは、確かだなぁ(^_^;)
病気になって死を意識したときに、それに気づいたのではないでしょうか?
自分で気づく、それが大事だよね。
当然ウッティヤ長老の体験が万人に当てはまることはないでしょう。
それにしても、中道ほど難しいものはないよね。