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さっそく読ませていただきましたが、先日も申し上げた通り「スリル満点」は、ちょっと再考した方がよろしいかと・・・。
私も何か良い訳はないかと考えてますが。
それにしても、シャンカラが呪いをかけたなんて、ちょっとショックだ・・・。
なんというか、不可解なんですけど。
人を呪わば穴二つ。
呪ってはならない。呪いが成就することはなく、自ら呪いに敗れるばかりである。
そういう教えてあるでしょー?
シャンカラくらいになれば、呪っても良いものなの?
っていうか、シャンカラくらいになれば、呪いの愚かさを知っていて当然と思うのだけど。
この部分は、なんともシャンカラの中で理解不能だなぁ。
それとも、インドの風習とか習慣とか考え方とか、もっと分かっていれば理解できることなのかなぁ・・・。
どうしてもシャンカラと呪いが、結びつかない私なのでした
シャンカラの「呪い」の部分は、翻訳するときにずいぶん悩んだ。他に良い訳がないのかと。
とりあえず、「願をかける」という訳に訂正しておこうと思います。でも、やっていることは「呪い」と大きく変わらないような気はするね。
「狂信者カパリカ」には、黙って自分の首を差し出したシャンカラが、母のためには、あえて「呪いの言葉」さえも吐く、母親に対する愛情の深さを示すエピソードと捉えたいね。ラーマクリシュナもラマナ・マハリシも、母親を大切にしていたね。母と言うものは、聖者にとっても特別な存在なのかもしれないね。
「スリル満点」とともに、訂正しておきますね。