三つともカエル色で統一
えっと、これはイタリアだけでなく、欧州全体っていうか、キリスト教徒が多い国で盛んに行われているんじゃないかと思うのが、「寄付」と言う行為。
それも、日本は寄付を募る側が「お願いします」と言う姿勢なのに比べ、欧州のそれは、して当然。
「この現状を知って、寄付をしない人間は、非人道的だ」ぐらいの勢いがあるように思います。
なんだろう、日本の場合、「寄付」と言う言葉の裏に何か「偽善」があるんじゃないか?と言う雰囲気が漂うのに比べ、そこはやっぱり宗教的なバックボーンの違いなのか、ヨーロッパ及び北米などキリスト教が多数を占める国では、
「富める人が貧しい人を救うのが当然。」
って言う思想があるからなんじゃないかと思います。
一方で、日本は仏教と言うよりも、儒教が交じったような思想が強いから、
「富める人が貧しい人をお金で救済するよりも、貧しい人を生み出さない社会作り」
を目指しているだけに、お金を与えて何かを解決しようとすることに抵抗感が強いんでしょうね。
でも、一昔前に比べると日本も、何か大きな災害があると、「義援金」と言う形でテレビ局や新聞社が主体となって、お金を集め、その端数を切り上げて(主催者が上乗せをして)例えば5000万円とか、ある程度まとまった金額を届ける。ってことをするようになりました。
そう、義援金と言う言葉が一般的になったのは、阪神大震災以降だと思います。
結局のところ、そりゃ一時的には毛布だとか、お水だとか、助かるんだけれど、あれだけ道路が寸断されてそういう物資を届けることさえ困難な状況にあって、一応最初の危機を乗り切ったあと、家がつぶれちゃた人とか、親族を亡くして働き手を失った家庭とか、最終的に必要なのはやっぱりお金なんですよね。
だけど、当時はまだ「お金を送る。」ってことに抵抗を覚えて人もかなりいたみたいで、お金じゃなく「もっと心温まる何か」を考えた末の贈り物もかなりあったみたいです。
これは、その当時の神戸区役所の担当者の人から聞いたのですが、余震が収まって、復興に取り掛かったとき、一番最初にしたことは何だと思いますか?
って聞かれて、「そりゃまず後片付けでしょう・・・」
って言ったんですけれどね。
その片付ける物は何かと言うと、もちろん道路に散乱した建材や、火事で消失した家財道具やら、同じく火事の放水による水害で使えなくなった、家電製品やら、ありとあらゆるゴミがそうなんですが、その「ゴミ」の中に
救援物資が含まれていたのだと。
こんなことを書くと、せっかくの「好意」を踏みにじる許せない行為だ!
とお怒りになる方もいらっしゃるかもしれません。
だけど、実際送られてきたものの中には、野菜であったり、タッパーに詰められたおにぎりであったり、毛布の下に卵が入れてあったり、洗濯していない古い衣類であったり、腐ってゴミとして処分するしかないものが多く含まれていたんですって。
もしかして、その中に現金を入れた封筒も隠されていたのかもしれないんですけれど、あの状況にあって、日々積み上げられる「救援物資」の仕分けをするボランティアも限界で、中身がわかっている物、明らかに大きな荷物で寝具類だと解るものや、企業から届いた、医療品や、保存可能な食品、飲料水などに対処は出来ても、一つ一つのダンボールの中身をあけて、賞味期限を見て、食べられるものとそうじゃないものなど、使えるものと使えないもの。その仕分けをするなんて出来なかったのだと。確かにその通りだと思います。
これって本当に体験したものじゃないとわからないですよね。
この阪神大震災以降、各地で大きな土砂崩れや、台風や豪雨による災害などが起きたとき、何が一番優先されるか、また義援金の集め方などを人々は学んだように思います。
そう、「寄付」じゃなく「義援金」
と言う言葉が広まってから、喉に刺さった魚の小骨みたいな感じがなくなって、支援しやすくなったのではないでしょうか。
つまり、「寄付」はどちらかと「人の情」に訴えるであったのに比べ、
「義援金」は、人としての「義務」とか「義理」とか「義」の気持ちに訴えるものなんじゃないかと・・・。
イタリア語で「寄付」を調べると、
contoributo
donazione
と出てきますし。
更に
「寄付を募る」は
aprire una sottoscrizione
fare una colletta
raccogliere le offerte
など様々出てきます。つまりこれだけ、社会貢献や、何かに対して熱心だってことですよね。
だから、最初から日本人が感じているような「寄付」に対しての抵抗感は薄くて、どちらかというと「義援金」に近いんだと思います。
ところで、以前 「イタリア旅行で気をつけること」 と言うテーマで
「路上の署名に注意」
と言う内容を書いたのですけれど、この寄付に対する熱心な活動はいいんですが、イタリアでは、たまにこんな風に、いわば強制的に寄付を求められることがあって、それはそれで不愉快な思いをします。
寄付と言うのは、その活動の賛同するからであって、意味が良く理解できないであろう外国人を捕まえて、まるでカモのようにすることに対して、憤りを感じていました。
なので、やはり路上での署名に関しては、本当にその活動趣旨に賛同するものでなければ、するべきではないと思っています。
が、ここで、やっと冒頭の写真・・・
これは先日見つけた自動販売機の端っこにあったんです。
冒頭の写真は、この自動販売機の右上の部分
で、これは何をするものかというと、いわば募金箱。
単位も100円と10円があって、サイフの中にある小銭で好きなだけ募金が出来ます。
なんだか手軽で良いと思いませんか?
イタリアでこんなもの作ったら、あっという間に自動販売機ごと持ち去られてしまうでしょうけれど。
こういうものが街中にある日本って平和だなぁ~
としみじみ感じたがっちゃんです。
クリックしてもお金は取りませんから~。
>使途がはっきりしてて、さらに10円から募
>金できるのならいいですね!
そうなんですよ。これは緑化と銘打っているし、10円ってやりやすいですよね。
おっしゃる通り、箱に入れるとなると、ちょっと10円ぽっちじゃ恥ずかしいとか思いますよね。(あぁなんて見栄張りな私)
>私も以前、例の街角で署名を書いてしまい、
>案の定寄付をするよう言われ、それが最低で
>も5ユーロで「この人は20ユーロもしてま
>す!」みたいにすごまれたのには、困りまし
>た。
これってね、私も今だったら言い返したのにぃ~って思うんですが、相手も、人を見てるんじゃないかと思うんですよ。言い返しそうにない人っていうか、まだ語学がそうできずに強く言えば従いそうだとか、見極めているんじゃないかと。
だからこそ、私も足元を見られたというか舐められたような気がして、募金したこと無性に後悔しました。
別にそれで誰かのために少しでも役に立つなら、それぐらいのお金を払ってもよかったはずなのに、言い返せないことを見越して、声を掛けられたようなそんな気がして、事実その時は文句を言う語学力がなかったので本当に悔しかったです。ああいうところが日本ではありえないなと思いますね。
日本の募金って、やりたいなと思っても、箱がしっかり手に持たれてて、「お願いしますっ!」「ありがとうございましたっ!」とか大声で言われちゃうと、10円ぽっきりじゃあケチなような気がしてきて、なかなかしにくいです・・・。
私も以前、例の街角で署名を書いてしまい、案の定寄付をするよう言われ、それが最低でも5ユーロで「この人は20ユーロもしてます!」みたいにすごまれたのには、困りました。
なんか手軽ですよね。
そういう意味ではコンビニのレジ横に置いてある募金箱も結構お金を入れている人を見かけますし、こういう細かいお金もちりも積もれば山となるなんだろうなと思います。
ただ、最終的な行き先についてもう少し突っ込んで発表してほしいなという気持ちもありますが、でもまぁこういう手段も新しい感じがして、いいですよね。
これはいいアイデアですね!しかも普通に飲料水の自販機と並んでいる所がおもしろいですね。飲み物買うついでに募金してくれる人沢山いそうですね~。
これは全国的に広まってるのか、それとも大阪ならではのアイデアなのでしょうかね~?
大丈夫ですよぉーーーー
私もひねくれてますから。
感動させようとしているテレビ局側の姿勢より、あれを見て、「感動を貰って元気になりました。」って言う視聴者のほうが気持ち悪いです。
人の心を揺り動かす力を持つ作品を作りたいと思って作るのは映画でも、小説でも、ドラマでも同じだと思うんですね。
でもそれを見たどう捕らえるかって言うのは人それぞれなのハズなのに、一様に、「元気を貰いました」って言うのだけをクローズアップしているのが嫌です。
私も年に何度かこりゃもう素晴らしいぃーーーーって思う本や映画に出合います。
そのたびに、こりゃもう5つ☆だわ。なんてブログにも書いたりしますけれど、だからと言って、これを見て「癒されました」とか、「元気を貰いました。」とは絶対に書かない。
あれを恥ずかしげもなく言えるのは「素直」なのか、それともテレビ局に洗脳されているのか、何も考えていないだけなのかと思います。
ただまぁ本当にずっと24時間走りぬいた本人だけはきっと何物にも代え難い経験をしたといえるんじゃないかと思います。
それはお遍路さん歩いた人も同じ。
その意味でじゃ、「あんた120km走れるか?」って言われたら絶対Noだから、走った人に対して素直に素晴らしいというエールを送る気持ちはあります。
だから、感心はしますが、感動はしません。
というのも、必ず走ることになってるでしょ??なぜ??って思うのです。
走ってるのを延々放送するより他に伝えたいことはないのかなあって
思うのです。
感動させようとしてるTV局の裏が
見えているようで・・・
ひねくれててスミマセン
>これなら自分のペースで心からの募金ができ
>ていいですね。
そうですね。これがベストの方法とも思わないし、本当にお金が無事届いているのかとか、ちょっと不安に思わないでもないんですけれど、再三お返事にも書いている通り、選択肢が広がったのは良いことじゃないかと。
例えば、私みたいに、緑の羽根のときに、大声でお礼を言われるのが恥ずかしいとか、普段の生活の中で、寄付をする機会がなかなかないと思っている人にとって、こういうものがあればなんとなく気が楽かな?って思いました。
>悲しいかな同じものでもこれがもしイタリア>にあったら、集金係に着服されそうでためら
>ってしまいますが。。。
そうそう、絶対信用できない(笑)
教会内に設置された箱以外は無理ですね。
>とはいえ確かにイタリアは募金や署名が多い
>ですよね。
そう、でもあの路上署名のは、なんか余り良い印象がありませんねぇ。こうたくさんの人数に取り囲まれて、署名をしたからには金を払えって言われちゃて。日本では署名と募金は別物なので、かなりビックリしました。
>スーパーで買ったものを寄付に回す活動は
>時々します。日本では珍しい発想ですよね!
これは珍しい!!
スーパーのレジ袋を貰わない代わりに、緑のシールみたいなのをポスターに張って、それで植林に役立てるとか、そういうのは、ありますけれど、買った物を寄付ってすごいかも。
>ウチの夫は、イタリアで募金活動をしている
>人たちについて「信用できない!」って言い
>ます。
そうですね。もちろん団体にもよるでしょうけれど、外国人にも平気で声をかけるところは、(これは日本人的感覚なのかもしれませんけれど)なんていうのか、本当にその活動について賛同を求めるっていうより、お金を出してくれさえすればいいんだ。って感じがしますね。(きっとホンネがそうなんでしょうけれど)
その取り立てる方法にも問題がありますし、あの街頭募金が信用できない気持ち本当に良くわかります。
>そういや、新潟大震災の後、日本に帰国した
>ときに募金活動を目にした夫は、「日本人な
>ら信用できる」と言って1000円募金してまし
>た。
そうですね。震災の時だってもしかしてドサクサに紛れて変な募金を言うところもあるかもしれませんけれど、新聞社とか、テレビ局が主催するものは、社会的貢献とか意義を全面に掲げているだけに、ちゃんとしてるんじゃないかと思います。
>販売機っていうのも少し抵抗あるなあ・・・
>人の手から手へ渡したいってのがあります。
>機械にお金を取られるような気がして・・・
ハハハ。まぁね。
ただ、私はあの緑の羽根や、赤い羽根募金のときに必要以上に、ありがとうございますーーーって大合唱されるのが恥ずかしくて。
もうちょっとさりげなくできる募金もあっていいんじゃないかと考えていたので、こういう方法もアリかぁ~と思ったしだいです。
24時間テレビとか、そっちのほうがハズカシイって思っちゃう私はヒネクレモノ?
>こっち来た当初、教会やスーパーの前で箱置
>いて座ってる人や、金くれ~ と寄ってくる人
>たちに、イタ人友達がフツーにお金あげるの
>見てびっくりしました。
あとね、店で食事をしているときにいきなりバラを売りつけに来る少年とかに、バラは買わないのにお金を渡す人っているでしょう?
私はええええ???って思いましたよ。物って対価に対して支払うと思うので、そんな意味なくお金を上げるっていうのはどうかなと思いました。10本分のお金を払って、9本だけ受け取って「1本は君のために」ぐらい言えば、イタリア人ってサスガ。って思いますけれどね。
で、なんでそんなことするの?って聞いたら、だって彼らにお金を渡さないと犯罪行為に走るから。って言うんですね。
私は、それは違うと。正当な対価でない金銭を得ることを子供の頃に覚えると、大人になっても、ちゃんと働かなくなる。って言ってすごい言い争いになっちゃいました。
なんか話それちゃいましたね。
>インドなんかのヒンズー教も、富める人が貧
>しい人に恵むもの って風習ありますけど、キ
>リスト教が「相手を助けるために恵む」って
>スタンスに対し、ヒンズーは「(相手に与え
>ることによって)徳を積ませていただく」って
>スタンスらしく、お金もらう方の態度がかな
>りふてぶてしい。^^;
そうそ、ふてぶてしい。まさにそれ・・・
今年リミニに行ったとき、まさに白装束集団とでも言うのか、頭のベールも服も靴も全部真っ白で顔も白く塗ってる人がいて、最初は路上パフォーマンスかな?なんて思ったんですが、良く見ると、それが何人もいて、カップを持って、色々な人にお金を寄越せって言って付いて回るんですよ。
それがね、さばぇさんのおっしゃる通り、すごくふてぶてしいの。お金を寄越さないとあなたに不幸が来る、みたいな感じ。
相手の恐怖心を煽って寄付を募るって、新興宗教にありがちな手口だなぁ~と思いました。
>でも私は、クリスチャンでもヒンズー教徒で
>もないので、対価が伴わないものに対しては
>お金は出しません。
>それは発展途上国で寄ってくる子供なんかも
>同じ。
さばぇさん。カッコイイ!!
いや、ホント清々しいです。
私は自分がかわいいから、どっかで偽善っていうかこうそれを言い切る勇気がないんだけれど、実際そう思ってたりします。
その日食べるにも困る人に対して、将来的な展望にたって物を考える。ってことは無理なんだと思うし、まさに10年先のことなんてどうでもいいから、明日の食べ物がほしい。って感じなんだろうけれど、やっぱりそれは学校を建てるとか、病院を建てるとか、そこできちんとした教育をして、他国の援助なしに、彼らが自分達の足で立てる助力をすべきであって、目先のお金を渡すことで解決することじゃないんですよね。
その意味で、
>その代わり、ユニセフ通して毎月定額を寄付
>させていただいてます。
こういうことを実践していらっしゃるさばぇさんは素晴らしい!!!
なんか私まずもって、郵便局に用紙を持っていって寄付をするっていうのが面倒で、クリスマスのときに、ユニセフが送ってくる用紙で一括して寄付しています。あとね、これが結構便利なんですけれど、(便利っちゃ語弊があるけれど)VISAとかのポイントをユニセフの寄付に当てることができるんですよ。あれなんかも利用しています。
>ラクイラ震災の時も、家で余ってる服を・・
>とか言ってる人居ましたけど、正直、いらな
>いもの回収所じゃないんだから って思ってみ
>たり。。
そうなんですよ。家で余っている物じゃダメなんです。自分だって、人が使ったようなもの気持ち悪いですからね。
それを良いことをした上に、家の中も片付いて、気持ちがすっきり。なんていってる人を見たら、あなたって本当に相手の立場になって考えてる?って思います。
>なので、この自販機の寄付も、自販機の持ち
>主さんの懐に入っちゃったりして・・ と考え
>ちゃった私はもう心が汚れすぎ?T_T
いやいや解りますよ。
ただまぁこういうでかい企業がやってるのって、企業イメージのアップに努めているから、あんまり変なことしないんじゃないかって言う気持ちもあるし、まぁその懐に入るかもしれなくても、こういう簡単な方法の寄付が生まれる。って言うのは、選択肢が広がるような気がして、少なくともなんだかわからない該当の募金よりも、ちょっと信用できるかな?って思いました。
>何かしてあげたい!っていう心は大切だけれ
>ど、好意の結果が「迷惑」につながってしま
>うのは援助する方も望んでいないでしょうか
>ら、こういう情報は多く発信するべきですよ
>ね。
そうなんですよね。「親切の押し売り」にならないためにも、相手が一番何を求めているのか。そしてそれはどうやったら届くのか。っていうことを考える必要がありますね。
その意味でも、こういう一見ネガティブに思える情報を流すことによって、送った側も、次にするときはまた違う方法にしよう。って思うかもしれません。
>日本ではお金を贈ることは下品である、と捉
>えるのかもしれませんね。
そうなんですよ。おっしゃる通り、お祝いのこともそうですけれど、そんなのご祝儀でいいんですよね。
物を送るのは、本当に親しい間柄で、それで相手の好みを知っている場合はそれでいいんですが、特に会社などで何人かで送るときっていうのは逆にそこそこまとまった金額になるんだから、お金にすればいいんですよ。ホント
もしベビーカーを買うのに少し足らない金額であれば、それは貰った人が自分の本当に好みの形のものをお金を足して買えば、助かった!ワンランク上のものが買えた。と喜ぶでしょうし、ベビーカーよりもお金の方が上回ったら、逆に余った金額でオムツを買えばいいんだし、お金のほうが一番喜ばれると思います。
「お金は下品だ。物にしたい」って言う人ほど、「自分が〇〇をあげた」って言う証拠っていうか痕跡を残したいんじゃないかと思います。
>街中で募っている寄付って、本当に困ってい
>る人の手元まで行くの?って不安になること
>もあります。
そうですね。私も街中のは、例えばボーイスカウトやガールスカウトの子が箱を持ってる、赤い羽根や緑の羽根のときはしますけれど、得体の知れない募金はしませんね。
以前テレビのドキュメンタリーでそれがなんとバイトを雇って、お金を集めてるっていうのを見たことがあるし、「恵まれない子に愛の手を・・・」っていうのを見ると、それだったら、
「アンタ昼間からそんなことせずに、自分が働け。」
って思いますもの。
ただ、人によって寄付をする形は様々なので、maronさんがおっしゃるような、企業が利益の一部を〇〇に・・・って言うのでも良いと思うし、この自販機にしても選択権が広まるのがいいな。って思いました。
悲しいかな同じものでもこれがもしイタリアにあったら、集金係に着服されそうでためらってしまいますが。。。
とはいえ確かにイタリアは募金や署名が多いですよね。
スーパーで買ったものを寄付に回す活動は時々します。日本では珍しい発想ですよね!
自分達の私腹にしているような事言ってましたっけ・・・。
私はイタリアの内情に詳しいわけじゃないので「イタリア人なら・・・ありえるかも?」くらいにしか思ってませんけど^^;
あ、でも、私もスーパーの帰り道に、こういう団体につかまって15ユーロ寄付した事があります・・・。
そういや、新潟大震災の後、日本に帰国したときに募金活動を目にした夫は、「日本人なら信用できる」と言って1000円募金してました。
それにしても自販機の募金箱・・・。
ビックリ!!!
人の手から手へ渡したいってのがあります。
機械にお金を取られるような気がして・・・
コーヒーを買おうとボタンを押しても出てこない・・・
そんな気持ちになるかも・・・って考えすぎ??
僕は募金とかするほうなんやけど、自販機は
抵抗ありますねえ。
やっぱりその辺はキリスト教教育の賜物なのか、貧しい人は助けるべきっていう考えが根本にあるのは感じますね。
インドなんかのヒンズー教も、富める人が貧しい人に恵むもの って風習ありますけど、キリスト教が「相手を助けるために恵む」ってスタンスに対し、ヒンズーは「(相手に与えることによって)徳を積ませていただく」ってスタンスらしく、お金もらう方の態度がかなりふてぶてしい。^^;
でも私は、クリスチャンでもヒンズー教徒でもないので、対価が伴わないものに対してはお金は出しません。
それは発展途上国で寄ってくる子供なんかも同じ。
もちろん計り知れない(国や政治的)事情があるにしろ、同情からお金渡しても長期的視野で見て本人の為になるとは思わないから。
路上なんかの寄付も、私は日本でも絶対払わないですね。
だってその人や団体が本当に信用できるかわかんないもの。
その代わり、ユニセフ通して毎月定額を寄付させていただいてます。
阪神大震災の救援物資の件は、結構そういう話は聞いてたけど、やっぱりそうだったんだなー と。
ラクイラ震災の時も、家で余ってる服を・・とか言ってる人居ましたけど、正直、いらないもの回収所じゃないんだから って思ってみたり。。
だから震災なんかの時は、ある程度信用できるところを通してならお金を出します。
ラクイラの時は、もうどこの団体も信用できない気がして、結局会社を通じて出しましたけど。^^;
イタリアなんかじゃもう、こういう義援金は被災者のところまで届かないもの ってかなりの人が思ってるみたいですが、実は日本も(もちろんイタリアよりマシでしょうが)そういうケースってそれなりにあるのかな って、個人的には思ってます。
なので、この自販機の寄付も、自販機の持ち主さんの懐に入っちゃったりして・・ と考えちゃった私はもう心が汚れすぎ?T_T
それにしても、阪神大震災の時のお話、興味深く読みました。
何かしてあげたい!っていう心は大切だけれど、好意の結果が「迷惑」につながってしまうのは援助する方も望んでいないでしょうから、こういう情報は多く発信するべきですよね。
日本ではお金を贈ることは下品である、と捉えるのかもしれませんね。
寄付や義援金とは違いますが、仲間内での出産祝いや、結婚祝い、意見がまとまらず困る時があります。
二人目の出産ともなると、ベビーカーもある、イスもある、洋服や小物もある・・・はっきりいって「現金」が一番ありがたいと思うのですが、一人くらいは「それじゃ~下品だ!」と言う人がいるんですよね~。
もちろん、そーは思うんですよ、私も。
でも、ご本人たちがそれが良いというなら、それでいいんじゃないかと・・・と思う時があります。
話がズレてしまいましたね。
街中で募っている寄付って、本当に困っている人の手元まで行くの?って不安になることもあります。
なので、私は企業が利益の一部をって感じのに参加することが多いかな。
チャリティー相撲に行ったり、チャリティーのCDを買ったり、お水も寄付が付いていたりと、今は色々なことがチャリティーにつながっていますよね。
今、気になっているのはユニセフで売っているバッグとか。かわいいんですよ、意外と♪