バンビの独り言

バンビことけーちんの、あくまでも「独り言」デス☆

「戦隊ものオモチャ」について考える(「あさひこ幼稚園」お便りから転載)

2012-09-08 12:16:10 | 子育て親育ち
今まで、いろんなところで「戦隊もののオモチャ」について話して来たり、文章にしたりしてきました。

でも、所詮、うちには「男の子がいない」のです。
男の子のいる家で「戦隊ものの番組を見せない」こと、「排除すること」はさぞ大変だと思います。
友達との関わりも大事だということは重々承知してるので、ゲーム同様「今の時代を生きている子どもを、理想だけでは育てていけない」と言われてしまえば、返す言葉がありません。

でも、武器のオモチャは「戦争をしている国の子どもたちの癒しのため」のものであったり、戦隊ものを観たり遊んだりすることが子どもに戦闘意識を持たせるということに繋がるようです。

おもちゃ屋の立場で言わせてもらうと、「◯◯レンジャー」といった類いのものは、おもちゃを売るための(お子様産業で儲けようと思ってる人たちの)格好の商売道具なのです。
「子どものココロの成長」のことなんて、これっぽっちも考えてないのですよー。


私の大好きな岡崎市の幼稚園、「あさひこ幼稚園(http://asahiko.kids-site.net/okazaki/)」のお便りを抜粋します。

子どもに関わる人も、そうでない人も、こちらの文章を読んで、この問題について一緒に考えてみましょ♡

………………………

こんにちは。はじめまして。あさひこ幼稚園 副園長・牧原雄志(33)です。

突然ですが僕の家は、「地デジ難民」でございます。

これを言うと、けっこう、驚かれることが多いです。
えー!テレビ無いの?マジで?って言われます。

あ、ちなみにテレビはあります。
僕も好きなDVDを見たり、あんまりやらないほうがいいとは思いつつも!…家事をするために息子にアニメを見せて、おとなしくしてもらうときだってあります。

じゃあ、なんで?と問われれば、まあNHK受信料もったいないし、テレビの情報も信用できないし、面白くないし、便利でもないし、テレビの消費電力はけっこう高いから節電にもなるし…とかいろいろ言うことはできますが、より重要で積極的な理由は、「息子にあんまりテレビを見せたくないから」、というものです。

幼稚園では、一週間の始まり、月曜日に、学年にもよりますが、先生がやっつけなくてはいけないものがあるのです。
それは、「スーパーヒーローのイメージ」です。
日曜日、午前7時半~8時半。いわゆる「スーパーヒーロータイム」と呼ばれる、「スーパー戦隊シリーズ」と「仮面ライダー」が連続するテレビ朝日系列のあの時間。
あの時間に、こどもたちは、「かっこいいヒーロー」のイメージを五臓六腑に染みこませて来るのでしょう。
月曜、登園した一部の子どもたちの遊びは、そのイメージに沿って行われます。どんな遊びだと思いますか?

たとえば、年少さん。
銃を使うヒーローの場合。新聞などが銃になり、それを持った子ども達が「バンバンバン!」とヒーローになりきっています。
年少さんは、遊びの中で役割分担をしません(できません)。
あくまで、個人個人が、「自分のイメージ」で遊びます。
ヒーローになりきった子どもが、ままごとコーナーなどに入っては「バンバンバン!」、簡単にいうとその場を荒らし、破壊していきます。
他の子どもはなかなか落ち着いて遊べません。
それで、クラスの友だちを敵に見立てて撃ち殺そうとします。
もちろん、役割分担なんてありませんので、バンバン殺りあっている子たちは、お互いヒーローです。
または、全然関係ない子を敵に見立てて撃ち殺します。
もちろん、戦隊ものですから、何人かで1人をやっつける、という構図も当たり前です。
同じように銃を持っている子を見つけて、関係ない子を一緒に撃ちます。
その中では、「なにかをやっつけたい」イメージから、友だちを叩いたり、「悪いことをするやつは殺していい」イメージから、「悪いことをした」と判断した子をやっつけようとしたり、ということもよくあります。
それで遊びはいつも同じパターン。
バンバンやってやっつける、だけで、イメージの広がりも深まりもありません。

年中では、ヒーローになりきり、主人公の名前を名乗り登園する子がいます。
紙で剣を作り、積み木で戦隊ものの乗り物を作り、そのイメージで遊びます。
年少と違って、イメージを共有したり、簡単に役割を分担したりして遊びますが、遊びの質は、上記の年少とあまり変わらず、遊びの結末が「戦って、誰かが倒れておしまい」というワンパターンしかないので、遊びに、イメージに、広がりが生まれません。
また、ヒーロー好きの子だけで遊ぶので、遊びの人間関係も広がりません。
混じりません。
ハッキリ言って、まったく、面白くもなんともない、発達にプラスになる遊びにならないのです。

そこで先生たちは、いろいろと考えます。
魅力のある、そして子どもの発達に合わせた、子ども自身が課題化できる遊びを考え、用意します。
そして子どもの豊かな育ちのために、金曜日まで、保育をするのです。
子どもたちも、一週間かけて、ヒーローのイメージから脱して、豊かに遊びこんでいきます。
それで、月曜日が来ます。
ヒーローになりきった子どもたちと共に…

ハッキリ言いますと、これ、なんとかならんもんですかね?

人間って、あらゆる動物の中で、一番暴力的です。
あらゆる理由をもって、暴力、暴力、暴力です。
こんなに暴力と闘争を繰り返す動物は他にいません。
そういう動物なのかもしれませんね。

でもその結果、この歴史、どんないいことがあったのでしょう?
これからの時代、人間は、仮に動物としての本能に背くものだとしても、「非暴力」の道に進むべきではないでしょうか。
話しあうことで、認めあうことで、分かちあうことで、生きていく。
そうしないと、もうこの地球で人間が生きていくことは不可能ではないでしょうか?
なのに、なぜこの国の大人は、子どもに暴力番組を見せたがるのでしょう?

ウチの園長が、昔、ヨーロッパの幼児教育の視察に出かけた際、スウェーデンの先生から、「子どもたちを取り巻く日本の暴力テレビ番組をどう思うか?」と問われたことがあるそうです。
そこで指摘された「暴力テレビ番組」とは、大人のアクション等ではなく、“○○レンジャー”や“仮面ライダー○○”のことでした。
なぜなら、その内容は常に「殺し」が当たり前で、「(自分たち基準の)正義のためなら他者を殺していい」というものだからです。
さらにそのヒーローたちのキャラクターが商品化され、巨大な市場(おもちゃ・遊園地・イベントetc.)を形成し、金儲けの構造に家族を巻き込んでいます。
「子どもを楽しませるプロ」たちが作った、暴力に満ちた刺激的な番組。
それはもう何十年も前から続き、「親世代」という立派な土壌を作り、今や日曜朝の時間を、親が子どもと一緒に楽しみにして、お父さんも喜んで見て、おもちゃを買い、グッズを買います。イケメン俳優を使い、女性(お母さん)のファンも増やしています。ドラマ性を持たせて、大人の鑑賞にも堪えうるクオリティです。
今や、それは「当たり前」に存在するものとなり、大人たちは無感覚になり、見過ごしているのです。
しかし、それは本当に、今、幼児たちに見せるべきものですか?

「勧善懲悪の価値観を知ることができる!」というメリットをあげられるかもしれません。
たしかに、「悪いものは悪い、駄目なものは駄目」という、理屈抜きの「人間が群れで生きていくための価値観」を幼児期に育むことを期待するのもわかります。
しかし、だったらそれは「ももたろう」でいいじゃないですか。
絵本や物語の世界に、そのような話はいくらでもあります。
ヒーロー番組は、幼児にそのような価値観を育むことのみをねらいにするには、暴力の刺激が強すぎます。
人間としての価値観より、暴力のありかたそのものの刺激が強すぎ、子どもには暴力の印象、そればかりが残ってしまいます。
(そしてまた、市場主義でありすぎます)

それでもテレビがあって、見ることができるなら、子どもたちは見たがるのかもしれません。
砂糖やアルコールや煙草や麻薬のように、やめられないのかもしれませんね。
だから、僕は地デジ難民になりました。
地デジ化、ナイスタイミング!

情報を遮断することは、どうなの?と言われる方もみえます。
誤解しないでほしいのは、遮断と言うほど極端なことをやっているつもりはないのです。
よその家に遊びに行ったら、そういうテレビを見てもいいし、まあ、そのへんは極端にならない程度に、ゆるーくやっていこうと思っています。
なんというか、毒は毒で、多少は摂取するのも人生のたしなみ、と思います。
体に悪いものも、たまには食べたいし、健康に悪い遊びも、たまにはしたい!

ただ、常時摂取するには、毒気が強すぎると思いました。
幼稚園現場で、その影響の凄さを、目の当たりにしていますから。

それに僕は、自分自身がヒーロー世代です。
子どものころは、ダイナマン、バイオマン、ギャバンシリーズなど、大好きでした。
だからわかるんです、その魅力。
わりと大人になっても喜んで見てましたよ。
カクレンジャーとかカーレンジャーとか。
平成ライダーシリーズは、特撮の見せ方も、デザインも、ドラマ性もいいですね。
すごいクオリティです。
面白いです。
わかります。
だから、怖いんです。
だってあれは、大人が見るものでしょう?
「名作だから」といって、性表現が豊富な「ラストタンゴ・イン・パリ」や「アイズ・ワイド・シャット」、「愛のコリーダ」を子どもに見せますか?
それは子どもの発達に合っていますか?
性をテーマにした作品は、子どもにふさわしくない、と誰もが思うでしょう。
じゃあ、性と暴力の、どこに違いがあると言うのでしょう?

「ヒーロー番組は、子どもたちには、ふさわしくありません」

このことは、正直、言いにくいです。
子どもたちがすでに今「好き」と言っているものを、否定するのは。
世のお母さんたちが、愛でもって、子どもの誕生日にヒーローのおもちゃを買い、お弁当のおにぎりの海苔をライダーの形にしているのを見ていて、なお否定するのは。

しかしそれでも、どーにかならんもんかな、と思っています。
極端に、みなさんテレビは卒業しましょう、とは言えません。
でも、各家庭で考えてみませんか?
お父さんとお母さんで話し合ってみませんか?
この「当たり前」は、ほんとうにこのまま「当たり前」でいいのか?

子どもは環境に働きかけて育ちます。
幼稚園の隣、村積山は、季節ごと、色とりどりの花や葉に彩られて、たくさんの動物たちが息づき、子どもたちは、瑞々しい感性で環境に働きかけて育っていきます。
そんな子どもたちの精神はとてもしなやかで、経験したことを真綿のように心に染み込ませ、人格を形成していきます。
大人には真似ることのできない吸収力です。
幼児教育は「環境による教育」という原則があるのですが、まさにその通りです。
そんな子どもたちを健全に育てていくには、われわれ大人が、子どもたちの周りに「望ましい環境」を用意していくことが、とても大切です。
そんな私たちの「当たり前」を、もう一度みんなで考えてみませんか?

※あと、「ヒーローもの?たっぷり見てましたけど、別に影響なく健全に育ったみたいだから、あんまり関係ないんじゃ?」という反応もよくもらいますが、それは「放射能?住む場所も食品も全然気にしてませんでしたけど、ガンとかにはならなかったですよ?」と言うのに似ていると思いません?

結果論でモノを語るのは、まことの勇気とは言えません。
やさしさとは言えません。
「それをした結果、どういうことになるのかはわからないけど、どうするのが最良なのか、大切な人や大切なもののことを考えて、悩んで、そして自分の意思で、決定し、行動する」。それを、勇気や、やさしさと呼ぶのだと、僕は思います。
(それに、「結果」なんて、わからないですよ。「そうしなかった場合の未来」なんて、誰にもわからないんですから。影響はなかったのかもしれないし、あったのかもしれない。低線量被曝みたいなものかもしれません)

どうか、すべての人が、勇気とやさしさを持って、悩み考えた自分の決定と行動を、誇らしく思って、生きていけますよーに。

それでは、失礼いたします。


………………園長の東吾先生補足………………


まず基本的な整理。
いまこれを書いている僕は園長で、「戦隊ものオモチャについて考える」を書いたのは息子であり、副園長です。
元ねたは僕の以下のようなかなり古い経験であり、それを副園長は現在の幼稚園事情のなかに蘇らせ、彼なりの感性で書いていて、よく書けているなぁ・・・と僕が言うとこれは親ばかですね(笑)。
まあどうぞ元ねたをお伝えしますので読んでください。

僕がまだいわゆる米ソの東西冷戦時代の、かなり前にスゥエーデン、スイス、西ドイツ、フランスの園を、全日本私立幼稚園連合会の使節団として訪ねたことがあります。

戦隊ものについて考えさせられた発端は、その最初の訪問国であるスゥェーデンの園長先生に、『日本の暴力番組』として“戦隊もの”について指摘されたことがきっかけです。
結局、その一言が大きな意味を持つ旅となり、僕はスケジュールの隙間の時間にその4カ国のデパートのおもちゃ売り場を見て回りました。
どの国のおもちゃ売り場にも、“武器”は一切ありませんでした。

さらに衝撃的だったのは、帰国間近のアンカレッジから成田への空路の機上にて、僕らの前を飛んでいた大韓航空機がミグに撃墜されるという未確認情報に、機長の『警戒のため航路を太平洋側に変更するため成田到着が遅れます』というアナウンスが、さらにこの一連の“暴力番組、武器のおもちゃという”経験とオーバーラップして、僕の脳裏に焼きついたのだと思います。

帰国後のおもちゃ売り場を見れば、当然のように“武器”の大バーゲンと、そして園では子供たちが“正義のため”に戦っています。
そして1975年の『秘密戦隊ゴレンジャー』以来35年以上に渡って続き、テレビ局、出版社、映画界、おもちゃ産業、遊園地、商店の客寄せ、商品のキャラクター、などなど巨大な権益集団を作り出しているようです。
仮にこうしたものがビジネスとして了解できたとしても、問題はこうして、もうお父さん世代から子ども世代に、“正義のためならヤッテもいいんだぜ”のバトンタッチが行われているということだと思うのです。

ちょっとおかしいのがバレつつあるこの国。
原子力ムラがあり、ワクチンムラ、兵器産業ムラがあるように、戦隊ムラがあることは確かですね。
他に比べれば一見他愛もないムラだといわれてしまえばそれまでですが、真っ白な幼児期の子どもの心に刷り込まれてしまったものは、簡単には消えないと思います。
「大きくなっても特に影響ないみたい」と思われるかもしれませんが、原風景として刷り込まれたものは、いつか何かの状況の中で発現する可能性を秘めます。
そういう意味では、まるで晩発性の低線量被曝論と似て、心の見えざる被曝かも知れません。

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