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履歴稿 香川県編 土器川 5の2

2024-10-09 19:47:32 | 履歴稿
IMGR128-15
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 土器川 5の2
 
 柳淵から西北へ斜に流れて居た五十米程の瀬は、鯉ぞう凪と言う深みに流れ込んで居たが、その鯉ぞう凪から川は、また南北へ直線の流れになって居た。
 
 そしてこの鯉ぞう凪の淵も石垣が施されて居て、その深みには鯉が沢山棲んで居た。
 
 その鯉がどれ程の数であったかと言うことは判って居ないのだが、私達が泳いで居る時に、その鯉が腹のあたりをすり抜けて、吃驚させることがしばしばあった。
 
 この鯉ぞう凪について私は、その深みにはとても大きい鯉が棲んで居て、時折水面に浮かび上がることがあるのだ、と言うことと、その鯉がこの淵の主なのだと言うことを聞かされて居たのだが、ついぞ一度もその主と言う鯉を見たことが無かった。
 
 
 
IMGR128-21
 
 鯉ぞう凪から其処までの距離が、どの位あったかと言う判然とした記憶は残って居ないのだが、外堀の水を海へ流して居る運河にかかった渡場の橋から東方へ直線に通って居て、渡場通りと呼ばれて居た道が、堤防の道へ出合った所の左角に、嘗て藩政の時代には、亀山城の城主や重役の人達が遊びに興じた所であったと言われて居た、玉川と言う可成り大きな構えの料亭があった。
 
 そしてその料亭の前の川岸から対岸まで打ちこんだ幾本かの並んだ杭の上へ、無造作に板を張った簡単な仮橋が架してあった。
 
 土器川の水深は、石垣の護岸を施してある深み以外が瀬になって居て、十歳位の子供の膝頭位しかなかったので、そうした簡単な仮橋でも対岸の土器村とは、充分往来することが出来た。
 
 
 
IMGR129-22
 
 そこは、この仮橋から約五十米程の下流であったが、一番凪と言って、土器川最大の深みがあった。
 
 その一番凪は、やはり石垣で護岸をされて居たが、その護岸の石垣は、水面からは一米程下であって水中に露出していた自然岩の上に築いたものであって、その露出した岩盤の下は奥深い洞窟になって居ると巷間の人達から言われて居た。
 
 また、この洞窟が瀬戸内海の深部に繋がって居るとも言われていた。
 
 この一番凪にはスッポンが棲んで居たので、私はこの凪で泳いだことが無かったのだが、「なぁに、スッポン位」と強がりを言って泳ぐ者も可成りあったのだが、そうした連中も内心は皆ビクビクしたそうであった。
 
 
 
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