履 歴 稿 紫 影子
香川県編
土器川 5の3
それは石垣の下部に洞窟があったことから想像をした人達の間に生まれた、単なる噂であったかも知れないが、その洞窟の中には大蛇が棲んで居て、真夏のよく晴れた日中には、時折その無気味な巨体を長長と水面に浮かべて日光浴をして居るところを見た人がある、と言う噂もあった。
また、その鱗には苔が生えて居るとも言われて居たのだが、私は鯉ぞう凪の主と同様この大蛇もついぞ見たことが無かった。
一番凪に、はたして大蛇が棲んで居たかどうかと言うことは判って居ないのだが、亀山城の竹籔にも棲んで居るという噂のある大蛇説であった。
私は、そのいづれの大蛇も見て居ないので虚実については何も判って居ないのだが、香川県が温帯地方と言うよりも寧ろ亜熱帯的な気候風土の土地であるから、棲んで居ないと言う否定感よりも、或は亀山城にも、そして一番凪にも棲んで居たのかも知れないと言う肯定感のほうが強かった。
と言うことは、それを大蛇と言える程度のものであったかどうかと言うことは判らないが、一度私が大蛇らしいものを実際に見たことがあったからであった。
それは、土器川とは何の関係も無い話ではあるが、私は毎年学校が、夏・冬休みになると山内村へ別居をして居た祖父の住居へ兄と二人で行って、その休暇中の毎日を過ごしたものであった。
祖父が寄寓をして居た生家の上原家は、国鉄の豫讃線に在る国分と言う小さな駅のプラットホームからは、直線一望の視界に在って、線路向の鉄道用地が岸になって居る堰の池と言う可成りに大きな池の向岸から畑地を7、80米程行った所を直線で東西に通って居る国道の向側に在った。
そして、駅からの道は線路を渡って池の西端に在る土堤の細道を通って行くのであったが、その土堤を中程まで行った所に一本の老松があって、土地の人は其処を一本松と称して居た。
やがてその細道が国道と十字路になって居る所へ出ると、其処を左へ曲って50米程行った所が上原家であった。
上原家の構造は、私の生家と全く同じ構造の屋敷造りであった。
上原家の正門は、国道の側とは反対の南向であったが、その門前から10米程行った所からが、小勾配の丘陵地帯になって居て其処に小沢の水を堰止めた周囲二粁程の小さな池があったが、水がいつも濁っているところから濁り池と呼ばれて居た。
池の左側は松の木の生えた小丘陵であって、沢の水を堰止めた堤防は、その小丘陵から右へ百米程の半円を描いて、矢張り松の木の生えて居る赤土の小丘陵へ築かれて居た。
wこの赤土の小丘陵を、池の岸に添って左へ五百米程行くと、其処に池の水源になって居る小沢が流れて居て、その附近には毎年蕨が良く生えた。