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シリア騒乱と修羅の世界情勢
「国家の中の国家」ヒズボラ
Takumi Kuriyama
2022年2月10日
ヒズボラは、中東において国家にも並ぶ影響力を持つレバノンの組織だ。かつては隣国イスラエルの侵攻からレバノンを守るために作られたイスラム教シーア派の組織であったが、今ではレバノンの議会に議席を持ち、国内政治にも影響を及ぼしている。現在では、レバノンの一部の地域で政治的、軍事的に大きな力を持っている。またヒズボラは外国の軍事支援を受け、国外の紛争に介入するなど、その影響力は国内だけにとどまらない。さらに、ヒズボラはイランの政府や組織からの手厚い支援を受けており、同じイスラム教シーア派の支援のために、軍事支援や直接参戦する形で、イラク、シリア、イエメンの紛争への介入を行ってきた。国家の中の組織でありながら、外国と関係を築き、外国の紛争にも介入しているという点で、ヒズボラは「国家の中の国家」ともいわれる。この記事では、そんなヒズボラの実態を探っていく。
イスラエルがレバノンから撤退した際のヒズボラのパレードの様子(khamenei.ir / Wikimedia commons [CC BY 4.0])
目次
- ヒズボラの誕生
- レバノン国内への影響力
- 外国への介入
- ヒズボラと周辺諸国・組織との関係
- レバノンの危機
- まとめ
ヒズボラの誕生
ヒズボラとはアラビア語で「神の党」を意味する。その誕生は、1970年代からのレバノンの混乱の時期にさかのぼる。レバノンは様々な民族や宗教が入り混じる国家である。イスラム教やキリスト教を始めとした多くの宗教が混在しており、その宗派もイスラム教はスンニ派とシーア派に、キリスト教はマロン派、カトリック、プロテスタントなどに細分化されている。このような複数の宗教勢力は、それぞれが国内政治に関与しており、1つの宗教勢力が独占しないように、政治権力は均等に分配されている。具体的には、大統領にキリスト教マロン派、首相にイスラム教スンニ派、議会の議長にシーア派の人物を割り当てることで、勢力均衡を保っていた。これは、1943年にレバノンがフランスから独立する際に結んだ国家協定に由来するものである。
https://books.openedition.org/ifpo/13214 の地図を参考に作成
このような宗教の勢力均衡は、次第に崩れていくことになる。1948年にイスラエルが建国され、多くのパレスチナ難民が発生した。パレスチナ難民たちはレバノンにも流入し、国内のパレスチナ人の人口が増加した。1970年代から1980年代にかけては、周辺諸国での紛争により、再び多くのパレスチナ難民がレバノンに流れ込んだ。パレスチナ難民の流入によって、国内のイスラム教徒の人口が増加し、国内の宗教勢力のバランスが崩れてしまった。それに伴い政治的な摩擦が増え、他の要因も重なって、1975年のレバノン紛争の勃発につながる。1971年には、イスラエルのパレスチナ占領に対抗する組織であるパレスチナ解放機構(PLO)が、その拠点をヨルダンからレバノンに移転させた。移転の原因となったのは、PLOとヨルダンの関係が悪化したことであり、レバノン政府も国内のPLOの存在を容認していた。そんな中、PLOがイスラエルへ攻撃したことにより、イスラエルはPLOの打倒を理由に1978年からこのレバノン紛争に介入を始める。当初イスラエルは部分的に撤退したものの、1982年にレバノンに再度侵攻し、レバノン南部の地域を占領した。この時占領された地域の奪還を目指して、イスラム教シーア派の勢力が結集し、1982年に結成されたのがヒズボラである。
ヒズボラはシーア派というアイデンティティの下で結集した組織であったが、あくまでレバノンの数ある宗教的なコミュニティの1つに過ぎない。そのためアメリカから強力な軍事支援を受けてきたイスラエルと、ヒズボラの間には大きな軍事力の差があった。そのような軍事力の差があってもなお、ヒズボラがレバノン南部の地域をめぐってイスラエルと対抗してきた背景には、1979年の革命で新政権が生まれたばかりのイランと、同じシーア派というアイデンティティを共有するシリアの政権(※1)による支援があった。ヒズボラはイランから潤沢な資金援助だけでなく、イランの革命防衛隊(※2)の軍事訓練を始めとした軍事面の支援も受けた。また1980年代からシリアとも強固な同盟関係にあり、ヒズボラはその両者の支援を受けて、レバノン南部奪還のためにイスラエルと軍事衝突を繰り返した。その結果、2000年にはついにイスラエルをレバノンから撤退させた。
レバノン紛争により荒廃した街並み(Luc Chessex / Wikimedia [CC BY-SA 4.0])
レバノン国内への影響力
以上のような背景で誕生したヒズボラは、その後どのような発展を遂げたのか見ていこう。ヒズボラは1982年にアッバス・アル・ムサウィ氏が設立した。その後、最高指導者を中心とした体系的組織を形成していく。1986年に、指導者の指揮の下で活動する諮問評議会が設立され、その下部機関として政治評議会、執行評議会などの様々な専門組織が誕生した。1992年からは、ハサン・ナスルッラーフ氏が最高指導者となり、今日に至るまでヒズボラを率いている。
組織としての体系を確立しながら、ヒズボラは1992年から政党として政治の場に活動の幅を広げる。ヒズボラは1992年の選挙で初めて議席を獲得し国政に進出する。政党としての勢力を拡大する契機となったのは、2006年に再び起きたレバノン紛争であった。2000年にイスラエルがレバノンから退いた後も、両国は緊張関係にあり、国境付近でヒズボラとイスラエルは睨み合いを続けていた。2006年に、イスラエルとヒズボラとの間で再び武力衝突が起こり、イスラエルが再びレバノンに侵攻した。この紛争は、ヒズボラの抵抗により膠着状態となり、約1か月後にイスラエルが撤退する形で終戦となった。 これらの紛争が終わった現在も、ヒズボラは独自の軍事組織をレバノン国内で維持している。ヒズボラはこの紛争において、2度にわたりイスラエルの侵攻からレバノンを守ったと多くの市民に見なされ、国内での支持を拡大した。
ヒズボラの過去と現在の指導者が描かれたポスター(Will De Freitas / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
この2度目のレバノン紛争を機に、ヒズボラは政治権力を広げていくことになる。ヒズボラはレバノンでの有力な政党勢力の1つである、3月8日(※3)の一員であった。これは2005年3月8日に結成した、ヒズボラを中心とした親シリア派の政党連合である。ヒズボラはこの3月8日同盟の一員として、 2009年の選挙で議席数を拡大する。さらに2011年には、レバノンの30の閣僚ポストのうち18を、ヒズボラ含む3月8日同盟の構成員が獲得し、ヒズボラの政治的権力を盤石なものにした。
またヒズボラは、イスラエルに面するレバノンの南部地域とシリアに面する西側の地域において、軍事面だけでなく、公的サービスの提供による支援も行っている。例えばインフラの整備や、保険医療、教育環境の改善に積極的に取り組んできた。その成果もあってか、ヒズボラは元来の宗教的な基盤であるシーア派だけでなく、他の宗派や所属の人々からも一定の支持を得るようになる。2014年の調査によれば、国内のキリスト教徒のうち31%、イスラム教スンニ派のうち9%の人がヒズボラに対し良いイメージを持っていたという。このように、ヒズボラは軍事だけでなく、政治や行政分野にわたる独自の幅広い活動を行っている。
外国への介入
ヒズボラの活動範囲は国内にとどまらない。1980年代、90年代は特に国内外でテロに関与したと言われているが、それに加えて軍事組織としての介入もしてきた。イランの協力もあり、国家の枠を超えて、周辺地域の様々な武力紛争に介入してきた。ここでは、ヒズボラが介入した紛争である、イラク紛争、シリア紛争、イエメン紛争を取り上げ、そこでヒズボラがどのように行動していたのかを見ていく。
初めに、イラク紛争におけるヒズボラの関与を見ていく。イラク紛争は、アメリカのジョージ・W・ブッシュ元大統領が、2003年からイラクに対して行った戦争であり、同国は一定期間アメリカ軍によって占領されていた。この占領への対抗の一環として、ヒズボラはイラクのシーア派勢力に対して、戦闘訓練員を送ったり、資金や武器を提供したりする形で支援を行っていた。ヒズボラがイラクに支援をしていたのは、ヒズボラと協力関係にあるイラン革命防衛隊が、イラクに支援を行っていたことに由来する。ヒズボラとイラン革命防衛隊によるイラクに対する支援は、アメリカがイラクから撤退した後も続いた。
シリア紛争で荒廃した街並み(ロシア国防相 / Wikimedia commons [CC BY 4.0])
続いて、シリア紛争におけるヒズボラの関与を見ていく。シリア紛争は、2011年の「アラブの春」の一連の革命運動の中で起こったバッシャール・アル・アサド大統領政権と反政府勢力との間の戦いである。そこにロシアやアメリカ、トルコ、イスラエルなどの国々や、IS(イスラム国)のような過激派組織も参戦し、中東情勢に大きく影響を及ぼしてきた。ヒズボラはシリアのアサド政権と長年協力関係にあり、2013年から間接的な支援のみならず、自らも派兵しアサド政権を支援する形で参戦した。イランの後方支援に支えられた最新鋭の兵器や洗練された軍事作戦によって反政府勢力と交戦し、イスラエルやアメリカの軍の脅威となる程であった。またシリア紛争において、ヒズボラはアサド政権側の勢力として、2014年からISとも戦闘を行っていたとされている。このようにシリア紛争においてヒズボラがアサド政権側に大きく肩入れをしている背景には、ヒズボラ自体がアサド政権からの支援を受けてきている事が挙げられるだろう。アサド政権の根幹が揺らぐ事でヒズボラ自体も大きな影響を受けかねず、組織としての存続も危うくなる事がシリア紛争にヒズボラがここまで関与する理由として考えられる。
最後に、イエメン紛争についてみていく。イエメン紛争は、2014年に始まったイエメンの政府軍とフーシ派勢力との戦いである。イエメン紛争では、アメリカの支援を受けたサウジアラビアやアラブ首長国連邦などが、政府軍側につき大規模な戦力をもって参戦した。対するフーシ派勢力はイランからの支援を受けているとされており、国内外の様々なアクターが絡んだ紛争である。このイエメン紛争において、ヒズボラはイランと共に、フーシ派勢力に軍事訓練を行うなどして介入したとされている。しかし、この情報も明確ではない。政府軍側についていたサウジアラビアは、フーシ派勢力のリーダーとヒズボラのトップが密かに会っていたと主張したが、ヒズボラ側はこれを否定している。
以上のように見ると、ヒズボラが関与してきた紛争の多くは、イスラエルやアメリカ、サウジアラビアといった国々の勢力拡大を阻止し、中東各地でのシーア派の勢力を維持するという目的があったのではないだろうか。そういった点でヒズボラは中東情勢に対し大きな影響力を及ぼしてきたと言えよう。
ヒズボラと周辺諸国・組織との関係
ここまで見たように、ヒズボラはレバノン周辺地域の多くの紛争に関わってきた。ヒズボラが周辺諸国、あるいは組織と築いてきた関係についても見ていこう。
https://www.afpbb.com/articles/-/3072317 の地図を参考に作成
まずはヒズボラとシリア、イランとの関係について見ていく。シリア紛争にアサド政権側で参戦していることからもわかる通り、ヒズボラとシリアのアサド政権は協力関係にある。その背景には、ヒズボラとシリアはどちらもイスラエルと敵対していることや、政権が同じシーア派に由来することがあった。また、イランとヒズボラも同じくイスラエルと対立しているという背景があり、1978年にイスラエルがレバノンに侵攻し、ヒズボラが発足された時からヒズボラと密接な関係にある。特にイランの革命防衛隊は、ここまで見てきた通り、幾度もの紛争でヒズボラに対して軍事的・人的支援を行っており、それらはヒズボラが国境をまたいで活動するうえで、大きな支えになっていた。
続いて、ヒズボラとサウジアラビアとの関係を見ていく。サウジアラビアとイランは、長年対立関係にある。イランから強力な支援を受けているヒズボラは、必然的にサウジアラビアとも敵対する関係にある。2016年には、湾岸諸国の地域機構である湾岸協力会議が、ヒズボラをテロ組織と認定したことをきっかけに、サウジアラビアもアラブ連合と共に同年にヒズボラをテロ組織として認定した。周辺の湾岸諸国も巻き込んで厳しい経済制裁を科すことでレバノンに圧力を与えている。またサウジアラビアは、2017年にレバノンのサード・ハリリ首相を誘拐し辞任に追い込むという、レバノンの内政への干渉も行っていた。ハリリ氏はレバノン国内の官僚に対して、ヒズボラの存在を重要視する発言をしていた人物であったとされており、そのことが誘拐事件の背景にあったのではないかとも言われている。
シリアのバッシャール・アル=アサド現大統領(左)とその父ハーフィズ・アル=アサド元大統領(中)とヒズボラの指導者ハサン・ナスルッラーフ氏(右)(Melissa Wall / Flickr [CC BY-NC 2.0])
最後にヒズボラとハマス(※4)との関係も見てみよう。ハマスは、イスラエルに対抗すべく1987年にパレスチナで創設された組織であり、現在パレスチナのガザ地区を統治している。ヒズボラとハマスはどちらもイスラエルに対抗する勢力として、緊密な関係を築いてきた。しかし敵視している相手は同じでも、同じイデオロギーを共有しているというわけではない。ヒズボラとシリアのアサド政権は関係が深い一方で、ハマスは2012年にアサド政権を支持しないという意思を表明しており、その関係にも亀裂が生じている。
レバノンの危機
レバノンは、政治腐敗と財政危機の両面において、近年非常に危機的状況に陥っている。政治の面では、レバノンは世界で最も政治腐敗が深刻な国の1つに数えられている。様々なレベルでの汚職が蔓延しており、政治家や官僚による利益供与、公費の不正使用が後を絶たない。世界各国の政治腐敗の認知度を測る腐敗認識指数(CPI)という指標における評価では、レバノンは2021年に180か国中154位という順位になっており、その深刻さを示している。その背景には、レバノンの分権的な政治システムがあると言われている。議員や官僚の出身宗教・宗派が支持母体であるために、関係強化のための癒着や汚職が起こりやすくなる。また、司法や行政といった権力主体間での監視と抑制が機能していないことも影響している。
レバノンの財政も危機的状況にある。レバノン紛争時から積みあがった負債が財政を圧迫し、2021年には政府が抱える負債はレバノンのGDPの495%にも上った。外貨不足とインフレも深刻で、国内の銀行は閉鎖され、国民の多くは貧困状態にある。貧困の原因は、レバノン紛争の際の負債に加えて、2011年の「アラブの春」による国外の出稼ぎ労働者からの送金の停止、湾岸諸国によるレバノンに対する支援の中止や経済制裁といった要因が重なったことにある。さらに2020年の新型コロナウイルスの流行や、レバノンの首都ベイルートでの爆発事故が追い打ちをかけ、経済は危機的状況に陥っている。
レバノンでの首都レバノンの市民の様子(Freimut Bahlo / Wikimedia commons [CC BY-SA 4.0])
国家の政治・経済それぞれの危機的状況はヒズボラにどのような影響を与えてるのだろうか。ヒズボラは政権を担った際に政治腐敗の解決に取り組むことを表明していながら、有効な対策を打ち出せていなかった。それどころか、ヒズボラは腐敗そのものの当事者であるとされており、国民の批判に晒されている。例えば、政治腐敗にかかわっていた犯罪組織が、ヒズボラに資金援助をしていたことや、ヒズボラの幹部であったレバノンの元保健大臣が腐敗に関与していたことが明らかになっている。
また財政危機とヒズボラも無関係でない。経済危機の要因の1つである、湾岸諸国からの支援の停止や経済制裁は、ヒズボラがイランから支援を受けていることに由来している。新型コロナウイルスへの対策の実施は、ヒズボラが成果として掲げる一方で、人々の認識は必ずしも合致していないかもしれない。ベイルートでの爆発事故の後は、貧困や失業に苦しむ市民による大規模なデモが発生している。人々が置かれた貧困状況は改善されず、ヒズボラの支持基盤であるイスラム教シーア派の市民からでさえも、その信頼を失いつつある。
また対外的な面では、イスラエルとの緊張が再び高まっている。2021年8月に、2006年のレバノン紛争から15年振りにレバノンがイスラエルに対して砲撃を行った。イスラエルもレバノンに対して報復攻撃を行い、再びイスラエルとの全面衝突になるのではないかという懸念もある。
まとめ
ヒズボラは「国家の中の国家」であると冒頭に紹介した。レバノンの反イスラエル抵抗組織であったヒズボラは、今ではレバノンを統治し、他国と密接な協力関係を築き、他国の支援を受けて他国に軍事介入する、きわめて超国家的な組織となっている。複雑な中東情勢を理解するうえで、ヒズボラという重要なアクターに目を向けていく必要があるだろう。
※1 シリアのアサド政権は、シーア派の派生の1つであるアラウィ派の政権である
※2 イラン革命防衛隊はアーヤトッラー・ホメイニー氏が率いていた、イランの軍事組織。
※3 3月8日同盟とは、レバノンの親シリア派の政党連合のことである。3月8日という名前は、この連合が2005年の3月8日に結成されたことに由来し、また対抗勢力として、3月14日同盟という連合も存在する。連合を構成する主な政党は、ヒズボラやアマル、自由愛国党(FPM)などである。
※4 ハマスとはパレスチナのガザ地区を実効支配している、イスラム教の武装組織のことである。
ライター:Takumi Kuriyama
グラフィック:Takumi Kuriyama
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